第2話


 聞き屋なんて仕事をしていると、不思議な出会いだって結構ある。この話を信じるかどうかは別として、俺はこの出会いを気に入っているし、そいつから聞いた話をまともに受け止めてもいる。

 あの頃はまだ、このギターケースに中身が入っていたんだ。俺はたまにだけど、ギターを弾いて歌ったりしていた。

 そいつがやってきたのも、俺が歌っているときだった。俺はこう見えてもブルース好きだったりする。憂鬱な男だからな。

 俺が歌っていたのは、悪魔に魂を売った男の作った歌だ。有名になる契約をしたそうだ。その命を代わりにな。結果、彼は今でも伝説のブルースマンだ。

 あんたが作った曲かい? そいつはそう言った。

 そんなわけないだろ? 俺はそう言った。外国の曲だ。もし知らなくても、誰のって聞くのが普通だろ? 日本人でも英語の曲を作る奴はいるが、あんなにかっこいい曲を俺が作ったと思うのか? 俺は半ば馬鹿にされたのかと思ったよ。下手くそすぎて原曲が分からないとな。

 そうなのか? そいつは少し寂しそうな顔をしたよ。そしてこう続けた。この時代は凄いんだな。こんなにも音楽で溢れている。

 お前、いつの時代から来たんだ? 俺はちょっと、そいつをからかうつもりでそう言った。

 ちょいと二千年先の未来からだよ。そいつは平然とそう言ってのけた。

 俺はなにをばかなことを言っているんだと思ったが、声に出してはなにも言えなかった。そうなのかも知れないと、意味は分からずとも、心がそう感じてしまったんだ。

 そいつはその後、身の上話を始めた。未来の世界の話を、淡々と語っていたよ。俺はいつものように聞き役に徹していたが、実際にはそうせざるをえなかったという方が正しいと思う。そいつの話は、開いた口が塞がらないほどの衝撃だった。

 二千年後の未来は最悪かも知れない。音楽っていう概念が失われているそうだ。楽しむための音楽はどこにもないという。文明が一度、崩壊しているらしい。

 しかし、この横浜の街並みはそっくりだという。なんだか匂いが違うとは言っていたな。ここには本物の匂いがするが、あっちのは偽物なんだとさ。意味は分からないが、なんだか妙に納得ができる言葉だと感じたよ。

 ノーウェアマンとライクアローリングストーンが世界を変える。そいつはそう言ったよ。

なんだ? ビートルズにボブディランか? ローリングストーンズも入っているのか? 俺の質問に、そいつは少し間を置き、こう答えたよ。

 名前だけは聞いたことがあるよ。けれどさっきも言ったろ? 俺たちの未来に音楽はなかった。

 なかった? 今はあるのか? 当然の疑問だよな。

 俺が生み出したんだ。楽器は骨董品屋で手に入れたよ。音楽がないと言っても、人間が動けば自然とそこには音が生まれる。一度は終わった文明を研究している人も公式ではないが幾人かはいるんだ。俺は色々な資料を調べたよ。そして心のままに音楽を生み出したんだ。ライクアローリングストーンも同じだ。遠い海の向こうで俺と同じようなことをした奴がいるんだよ。今まさに、俺たちは世界を変えているんだ。

 そいつの話はとても魅力的だった。未来の世界の話。なんだが今とは違う不思議な文化も存在するようだが、俺は全てを信じている。しかし、当然な疑問として、どうしてこの時代にやって来たのかと感じ、言葉にした。まさか、音楽を知るためじゃ? だったら半世紀は時代を間違えたな。

 それは・・・・ なんて言いながら項垂れていたよ。そして懐から紙切れを一枚、取り出した。

 綺麗な女の人だった。鉛筆で描いた似顔絵。俺にはまるでモノクロ写真のように感じられたよ。

 この人を助けて欲しい。俺はそのために、この世界に来たんだと思う。

 だと思う? 全く、そいつの言葉尻はいちいち面倒臭い。

 お前がなんの為にここに来たかなんてどうでもいいんだよ。この子を助けてどうなる? 俺に得はあるのか? お前はそれでどうなるんだ?

 俺はそいつといると、いつもより喋りが多くなるようだ。聞き屋としては失格だな。しかし、そいつと俺は友達だった。俺は初対面からそいつを客だと思ったことはなかったんだ。なんでだろうな? そいつからは、俺を惹きつける雰囲気が溢れていたんだよ。俺はそいつに、惚れていたってことだ。

 それはあんたが調べればいいことだ。とにかくこの人を助けてくれ。

 俺はそいつの言葉に従うことにした。誰かが困っているなら、それを助けるのが俺の仕事だからな。

 それで、この子はどこにいるんだ? 俺としては当然の質問だよな。助けるとするのなら、まずはその相手に会わなければ話が始まらない。

 けれどそれは、俺の勇み足なのか? そいつは平然とこう言った。

 俺にそこまで面倒を見させるのか? お前が優秀な聞き屋だって聞いてここまで来たんだけどな。

 ・・・・俺は言葉が詰まってなんの返事もできなかったよ。するとそいつは、未来の聞き屋のことを教えてくれた。

 聞き屋ってのは、そういう仕事だろ? 俺たち市民の話を聞いて、悩みを解決する。俺の時代の聞き屋はみんながそうだよ。あんたは知らないんだろうな。だが俺は知っている。聞き屋を始めたのは、あんただ。あんたが始めた聞き屋は、文明が崩れて新しく始まった俺たちの文明でも生き続けている。古くから死んでいない文明の一つが聞き屋なんだ。そいつは恥ずかし気もなくそう言ったんだ。聞いている俺が恥ずかしかったよ。その後の詳しい聞き屋の説明は、俺には無意味だった。だってそうだろ。俺が今まで築いてきた聞き屋の形をただ説明していただけだったんだからな。俺の活躍は、未来でも知られていた。そうだな・・・・ 現代でいえば、まるでシャーロックホームズのような存在だよ。まぁ、俺の名前は実名としては伝わっていなかったけれどな。そこは残念だけど、未来の現実なんてそんなもんだ。

俺はそいつの依頼に従い、似顔絵の女性を調べることにした。そいつはその後も二、三度俺のところにやって来た。残念なことに、その女性に対しての情報はほとんどなく、俺に未来の話をしてくれただけだ。俺はそいつに、音楽の話と、ギターの演奏を教えてやった。そいつにギターをあげようかと思うほどに上達はしたが、俺がそう決心する前に、そいつは消えてしまった。まぁ、未来人だからまたいつ来るかも知れない。未来の時間とこっちの時間はまるで別物だからな。五十年後の姿で明日現れても不思議じゃないよな。まぁ、そのときはもうここにはギターはないんだけどな。

 俺は似顔絵を持って、横浜の街を全て歩き尽くした。本当に大変だったよ。横浜っていうのは広いんだ。横浜駅周辺だけで終わりじゃない。みなとみらいだって元町だって、保土ヶ谷もある。みんなは知らないと思うけれど、金沢だって横浜なんだ。市じゃなくて文庫とか八景の方だけどな。

 似顔絵の子は、瀬谷区で見つけることができた。彼女自身は大和市に住んでいたんだけどな。大和市にはアメリカ海軍の基地があるだろ? 厚木基地なんて名前だけど、そのほとんどは大和市だよ。残りは綾瀬市だ。けど不思議だよな。海のない街になんで海軍なんだ?

 似顔絵の彼女は日本人にしか見えなかった。けれど現実は、ベトナム人だった。旦那がアメリカ人だったんだ。ベトナム系だけどな。その旦那は海軍で情報関係の仕事をしていたようだ。残念なことに、俺の能力では立ち入りできない仕事をしていたんだ。国レベルの仕事を調査するのは難しい。ましてや相手は世界の大国だぜ。まぁ、無理をすればなんとかなったかも知れないけれどな。これは強がりなんかじゃないぞ。彼女の危険は、そこまで奥深くはなかったってことだよ。と言ってもそれは、その後の話なんだけどな。事件が解決してもしばらくは、俺は彼女がベトナム人だとは知らなかった。旦那っていうのも、その後の話で、彼女とは幼馴染のようだが、その関係性やら出会いやらは結構複雑で、俺もはっきりとは分かっていない。幼い頃はお互いにベトナムで暮らしていた。彼女は日本に引っ越し、彼はアメリカに引っ越した。そして大人になり日本で再会をした。そんな感じだ。このときはまだ、二人は恋人でもなんでもなかったようだ。旦那は当時から軍隊で働いてはいたが、俺とは無関係だ。当然これから話す事件とも無関係だ。二人が恋に落ちた話に、俺は興味がない。まぁ現実には、ほんの少し、いいや、大いに関わってはいるんだがな。それはまた別の話だよ。ならばなぜこんな序盤でそんな話を割り込ませたのかって思うだろ? 俺も思うよ。なんとなく、彼女の話をするのにさ、ベトナム人であることを伝えたくなったんだよ。なんせここでそのことを話さないと、この先紹介するポイントがなくなってしまいそうだからな。彼女は見た目も言葉遣いもその感覚さえも日本人と変わらない。ほんの少し、ヌクマムの香りが漂うけどな。ヌクマムってのは魚醤のことだ。日本の女の子はさ、醤油の香りがする。まぁ最近ではバター醤油だったり、辛子醤油だったりもするんだがな。どうでもいい話かも知れないが、彼女は少し、この国の女の子とは違っていたってことだ。何度も言うが、俺は気づけなかったんだがな。

 彼女は三ツ境駅の駅前のラーメン屋で働いていた。横浜中を探したけれど、見つからなかった。諦めていたとき、立ち寄った三ツ境のラーメン屋で彼女を見つけたんだ。長い黒髪、大きな瞳、真っ直ぐな鼻筋を基準に左右対称な顔のパーツ。顎の形やオデコの広さ、顔の大きさまでもが完璧だった。俺だけじゃなく世界の理想。まるでオードリーヘップバーンのようだったよ。俺は思わず恋に落ちそうになったが、なんとか踏み止まることができた。なんせ俺にはそのときすでに妻がいたんだから当然のことだよな。

あなたを助けたいんだ。俺はラーメンを食べ終えた後にそう言った。彼女に出会えたことと、彼女のあまりの美しさから感じた興奮を抑えるために黙々とラーメンを啜っていたんだ。

 はい? なんて彼女の声が聞こえたような気がするけれど、現実は曖昧だ。俺は彼女のキョトンとした瞳を見つめ、こう続けた。

 あなたが困っていると聞いたんだ。俺は聞き屋なんていう可笑しな商売をしている。無理にとは言わないが、相談をするのは自由だ。もちろん金も取らない。

 彼女の戸惑いは消えなかった。返事はなく、俺が食い終わったラーメンの器を持って奥に引っ込んでしまった。俺はお勘定を済ませて外に出た。どこか少し離れたところで彼女の帰りを待つつもりでいたんだ。けれどそんな無駄な時間はこなかった。彼女はすぐに、俺を追いかけて外に出てきた。

 あなたがそうなの? 噂は聞いているわ。あの事件も、裏で解決に導いたのはあなただって噂よ。彼の歌は私も好きなの。あなたが本当に横浜の聞き屋なら、私の話を信じてくれるわよね?

 彼女の言葉に、俺はただ頷いた。ちょっとそこで待っていてと言い、彼女は店に戻っていった。ふざけている。ちょっとと言った彼女は、その後二時間は戻ってこなかった。俺はタバコを吹かして立ちん坊状態だよ。待たせたかしらとの彼女の言葉に、イラっときたのは説明するまでもないよな。

 彼女の話は少し、面倒だった。要領だけを話してくれればいいのに、一から説明をするんだ。まぁ、話自体はその方が面白いんだけどな。彼女と会話をしている時間は、ただそれだけで楽しいしな。けれど、事件的には結論だけで十分だった。

 彼女と俺は近くのファミレスに腰を落ち着かせた。いつの時間にだってファミレスには、他人の話に興味を持たない連中が集まってくる。

 彼女はコーヒーとパン付きのハンバーグステーキを頼んだ。俺はなにも頼まなかった。コーヒーはあまり好きじゃない。と言うよりも、アレルギーなんだ。飲んでから数時間すると決まって気分が悪くなる。遅発性ってやつだ。吐き気に襲われたことも、倒れそうになったこともあるほどだ。まぁ、幸いにもいまだに現実に倒れたことはないんだけどな。

 けれど彼女が勝手に、コーヒーを追加した。私一人で食べているとなんだか味気ないじゃない? せめてコーヒーくらい付き合ってよ。天使のような顔でそんな言い方をされては、断ることができなかった。

 ファミレスのコーヒーは、味やアレルギー以前の問題として好きにはなれない。セルフサービスのドリンクバーなんて、ちっとも心が休まらないんだよ。自分でボタンを押してコーヒーを注ぐ。その度に席を立たなければいけない。喉の乾いた夏には向いているかも知れないがな。とは言っても、お金がなくて時間の余っている学生時代にはよく、友達や恋人と溜まっていたもんだよ。

 彼女は席を立ち、俺の分までコーヒーを入れてきた。なんだか少し、お腹がふっくらしている。そう感じたのはゆったりめのワンピースのせいではなかったようだ。俺が彼女のお腹を見つめていると、彼女は手にしたコーヒーカップを二つ、受け皿と一緒にテーブルに置いた。そして椅子に腰を降ろしながらこう続けた。

 妊娠中にコーヒーはあまり良くないのよね。わかっているのよ。けれどどうしてもやめられないの。だからこうして砂糖とミルクをいっぱい入れるのよ。粉砂糖二袋にミルク二カップ。俺の分は用意していない。どうやら彼女は、普段はブラックで飲んでいるようだった。そしてそれが一般的だとも思っているようだ。コーヒーアレルギーの俺だって知っている。砂糖を少し入れると、香りが一層引き立つということを。

俺は仕方がなしにブラックコーヒーに口をつけた。美味くはないが、不味くもなかった。

彼女は食事の前にコーヒーを一杯、飲み干した。妊娠をしていても、一日に一杯から二杯は胎児の健康上に問題はないらしい。聞き屋なんて商売をしていると、そんな話題を耳にすることもある。けれど俺は、彼女にそのことを言わなかった。言わなくても、身体が自然に受けつけなくなる。これは俺の母親から聞いた話だけどな。コーヒーは一日五杯以上、タバコも一日一箱は吸う。いまだに健在で、どちらも量は減っていない。そんな母親でさえ、俺が腹の中にいたときは、どちらもピタリとやめていたそうだ。産後に父親からなにか欲しいものはあるかと聞かれたときには、迷わずにコーヒーとタバコ、って言ったそうだけどな。

 食事が運ばれると、彼女は無言で食べていた。よほどお腹が空いていたのか、結構な勢いだった。妊婦はお腹が空くんだろうと思い、デザートでも頼むか? そう言うと、彼女の目が輝いた。

 あなたも食べる? デザートのパフェを待っている間、彼女がそう言った。俺はなにも答えない。笑顔で彼女を見つめ、首を横に振った。新婚夫婦って、こんな感じなんだよなと考えていたら、彼女はこう言った。

 さっきラーメンを食べていたもんね。餃子にライス大盛り付きで。確かにその通りだけど、それはもう数時間も前の話だった。俺のお腹は、彼女の食欲に圧倒されていたのと、コーヒーアレルギーが騒ぎ出し始めていて、食欲どころではなかったんだよ。

 私を助けるって、誰に頼まれたの? パフェをペロリと平らげた彼女が、ようやく本題の話題を振った。俺はただ、かぶりを振って見せた。

 どうせあいつでしょ? 彼女の言うあいつが分からない。あいつはしつこいのよ。幼馴染なのはしょうがないけど、あいつと恋愛なんて考えられないわ。あいつが俺の知っているそいつとは違うと、俺には分かった。後にそれが誰なのかははっきりしたが、このときは当然知らなかったし、興味もなかった。この物語とは関係のない話だな。まぁ、感がよければわかるだろ? 俺がさっき、ちょこっと口走ってしまったからな。

 誰に助けて欲しかったんだ? 俺がそう言うと、彼女は沈黙した。

俺が誰に助けて欲しいと言われたのか知っているんだろ? だから俺についてきた。そうなんだろ? 俺がそう言うと、彼女の顔がひきつった。

 あいつから助けて欲しいのよ。あいつは私の幸せを壊そうとしているんだから。彼女はそう言いながら、膨らんだお腹を両手で撫でた。

 残念だけど、俺にはあいつが誰なのかわからない。しかし、さっき言っていたあいつとは違うあいつだってことは理解できたよ。

あなたは本当にあの聞き屋なの? なんでも事件を解決してくれるのよね? そんなことを言われも、誤解っていうのは恐ろしいなと感じたよ。確かに俺は聞き屋だ。この頃にはもう、幾つかの事件を解決していた。まだ大学に在籍はしていたが、聞き屋で得た金で生活を始めてもいた。プロの聞き屋の誕生ってわけだ。結婚をしていて子供だっていたしな。長男が生まれ、長女を妊娠中だったよ。当然、俺ではなく俺の妻がだけどな。しかし俺は、そいつからは彼女のことなんてなにも聞いていなかった。名前だって聞いていないんだよ。アルバイト先がラーメン屋だってことすら聞いていなかった。その似顔絵だけを受け取り、後は会えばわかる。そいつがそう言ったんじゃない。俺がそう言ったんだ。バカだよな。せめてラーメン屋の情報くらいは聞き出すべきだったんだ。聞き屋として生活をしていたとはいえ、まだまだ素人だったってことだ。

 それは俺にもわからないんだ。事件があればそれは、いつの日か必ず解決に向かう。俺はただ、それを見守るだけだ。なんだか彼女と一緒にいると、妙にこの口が動き出す。それは今でも変わらない。

本当になにも聞いていないの? 彼女はそっと溜息を零して、それからニコッと微笑んだ。あの人、もういないんでしょう? 信じられないほどに素敵な人だったわ。

 彼女はそれから、そいつとの出会いを語り始めた。俺はようやく、いつものように聞き屋に徹することができたんだよ。

 そいつは彼女の働くラーメン屋の前で、じっと商品ディスプレイを覗き込んでいた。ヨダレまで垂れ流していたらしい。彼女はその姿を見て、なぜだかキュンとした。本人の言葉では、ハッとしたと表現したが、つまりはときめいたってことだ。一目惚れっていうのは、確かに存在する。俺も妻とはお互いに一目惚れだったからな。まぁ、妻以外にも一目惚れはしているし、それは今でも止まっていない衝動だったりするんだけどな。

 彼女はそいつにラーメンをご馳走した。そいつは箸の使い方もわからないようで、割り箸を割らないままに麺をすくって食べていたそうだ。レンゲを使いながら、それなりに綺麗な食べ方だったようだよ。無言で食べ続けていたそいつは食べ終わると、頬を紅潮させながら、こんなに美味くて身体が休まる食べ物は初めてだよと言ったんだ。

 お腹の子どもは男の子? そいつの言葉に彼女はハッとした。そいつと出会った瞬間、彼女はお腹の子どものことを忘れかけていたんだ。

 そいつはお腹の子どもを助けたいとも言ったそうだ。そのためにも君を守らなければいけない。けれど僕には時間がない。ここに居られるのは後あと僅かなんだ。そう言い、その日は姿を消した。

 次の日、そいつはまたラーメン屋に来た。彼女はまたご馳走した。一週間続き、そいつは本当に姿を消した。そして俺が現れたってわけだ。

 そいつがお腹の子どもを助けたいと言う理由は分からず終いだが、お腹の子どもが命を狙われているのは事実だった。彼女はそいつと出会う前の話をしてくれた。

 彼女の見た目は言うまでもないほどに美しい。誰が見たって魅力的なんだ。悪い奴らが寄ってくるのも頷ける。あいつは、俺から見ても最悪だった。金も権力も持っているが、心を持っていない人っていうのも実在するんだよ。

 あいつの父親は、この国の元総理大臣で、今では副総理兼なんとかっていう大臣を務めている。あいつ自身も政治家だ。いずれは父親の地盤を継いで総理大臣になると噂されてもいる。

 そんなあいつが彼女と出会ったのは、偶然なんかじゃなかった。彼女の魅力は、それはもう普通じゃない。店の中だけでなく、外でも声をかけられる。街中の綺麗な人を探せ的なテレビ番組で紹介されたこともあるほどだ。芸能事務所からのお誘いもあったらしいが、興味がないとの一言で断ったそうだよ。俺も同感だ。上っ面の世界には、興味が持てない。俺だって、こんな仕事のせいなのか、何度かは声をかけられている。しかし当然、その全てを断っているがな。

 そのテレビをあいつが見ていた。狙った女はなにがなんでもモノにする。あいつはずっとそうしてきたはずだ。そして彼女を、モノにした。

 俺が彼女から聞いた話は、ラーメン屋で客としてやってきたあいつと出会い、そういう関係になったとだけだ。その他余計なことは、俺の調査によって後に知ったことが混ざっている。

 彼女はなにも知らなかった。あいつがテレビにも顔を出す政治家だってこともだ。知っていたら、間違いは犯さなかったはずだ。

 彼女が妊娠に気がついたその日、テレビでも新聞でも一つの大きな話題が独占していた。あいつが婚約発表をしていたんだ。まぁ、あいつ一人の婚約だったら大した話題にはならなかっただろう。問題は、婚約相手にあった。相手は日本の映画界が世界に誇る大スターだった。俺だって知っている。今の時代にあれほどのいい女はそうはいないだろうな。あいつよりは一回りくらい年上のはずだ。俺よりもそう、同じだな。

 あいつとあの人との出会いはテレビや雑誌での騒ぎを見ればわかることだ。俺には正直、興味がないな。まぁ、悔しさ半分の言葉でもあるんだけどな。つまりあいつは、彼女を弄んだってわけだ。しかも、妊娠までさせてしまった。

 あいつの真実を知った彼女は、すぐに見切りをつけた。あいつに連絡を入れ、さよならと言った。あいつは少し慌てたが、別れを承諾した。ヘタに浮気を続けて世間を騒がせるのは得策じゃない。そう感じたんだろうな。その後の行動がそれを確かなものにしている。

 彼女は妊娠したことをあいつには言わなかった。むしろこの先、誰に言うつもりもなかった。しかしあいつは、それを知ってしまった。偶然なんかじゃなく、調べたんだ。彼女に未練があってラーメン屋を覗きに来たとき、お腹の大きな彼女を見留めた。なんて話じゃなく、自分との関係を漏らされては困ると、探偵を使い、彼女の行動を調査させていた。妊娠相手が誰なのかまで、調べは行き届いていた。

 その後にあいつが取った行動は、政治家らしいと言えばそうなのかも知れないが、やり口が汚らしい。探偵を介し札束を渡し、子供を堕ろせと言ってきた。札束には慰謝料と口止め料の二つの意味があるそうだ。彼女は誰にも言いませんからと、札束を受け取らなかった。赤ん坊のことは産むとも産まないと言わず、もう来ないで下さいとだけ言った。

 そこからの展開が、俺向けだったんだな。彼女は夜、何者かに襲われそうになった。運が良く、巡回中の警察官に助けられたが、その恐怖は頭から離れない。詳しい状況を、彼女は話したがらない。俺は無理に聞いたりはしない。警察からも、情報を得るつもりはない。

 あいつは本気で彼女を殺そうとしている。駅のホームで突き飛ばされそうになったのが、ただの脅しとは思えない。交差点の信号待ちでも誰かに押されたことがあると言っていたからな。

 その後彼女はそいつと出会った。それからの一週間は、不思議と怖い目には遭わなかったという。彼女は特に、そいつに助けを求めたわけではなかった。あいつのことも、詳しくは話していない。ただ、この子を幸せにしたいのと、お腹に手を当てて泣いただけ。

俺は彼女の子供を守ると約束した。当然、彼女自身も守るつもりだ。そうなんだ。俺は今でも二人を守り続け、この先も守っていくんだよ。理由なんてもう、どうでもいい。俺はあの二人を家族同然に感じている。正確には四人なんだがな。例のあいつと結婚をし、新たな命を産んでいるのだから。当然俺には嫌らしい感情はなく、自然な愛がそこにはある。俺の妻も、二人を家族と認めているよ。

俺はまず、あいつを調べることにした。直接会うのも考えたが、あいつのガードは固かった。当然だよな。国民的スターの婚約者。政治家。元総理大臣の息子。なにかに守られなければ生きていけない人間だって存在するってことだよ。

 あいつを調べてわかったことは、なにもない。噂話ばかりで、真実が見えてこない。流石だよな。今から情報管理を徹底している。

俺は一つ作戦を練った。可哀想だけど、彼女を囮にあいつを誘き出した。

 あいつが単純で助かったよ。俺の作戦にまんまとはまってくれた。

 俺は彼女にちょっとだけ怪しい行動をさせたんだ。メールで友達に、今話題のあいつの秘密を知っていることを伝えた。その友達は噂好きだ。すぐに別の友達に伝えると返事を寄越した。メールを使ったのがポイントなんだよ。直接話をすれば深く突っ込まれることもある。そもそも、それほど仲良くはない友達を選んだこともポイントだったんだ。

 その作戦は上手くいった。あいつの探偵はすぐ、動き出したよ。彼女の口を塞ごうと、そういった連中を雇い、脅しではなく、本気で襲いにかかったんだ。俺はそのときを待っていたってことだ。

 俺はこう見えても、腕っ節は強くない。音楽好きっていうのは、大抵が見掛け倒しだ。筋肉っていうのは、見た目が大事なんだよ。体力をつけるのは、音楽を長い時間楽しむためのものなんだな。喧嘩はしても、強くはない。けれど、そこら辺の元ヤン擬には負ける気はしないな。さらには暴漢を仕事にしている殺し屋擬になんて、俺じゃなくても負けやしない。俺は彼女に襲いかかる擬たちを華麗にやっつけ、雇い主の元に殴り込んだ。擬たちの中には、探偵も含まれていた。バカな奴だ。絶対の自信があったんだろうな。擬たちと一緒に彼女を襲おうとしていたよ。

 ようやく俺は、あいつの元に姿を見せることができた。探偵はとても弱腰で、すぐにあいつへと助けを求めた。俺ははっきりと、あいつ一人を呼び出すように指示をした。簡単な連中だったよ。雇った暴漢を簡単にやっつけられたことにビビったんだな。あいつはのこのこと言われた通り、一人で彼女の前に姿を現した。

 あとは簡単だ。あいつが顔を見せればこっちのもんなんだよ。俺は彼女の背後からあいつに姿を見せた。物凄くビビっていたな。まるで街中でヒグマと出会ったおっさんのような顔をしていたよ。

 俺はあいつに彼女にはもうつきまとうなと言った。近寄って髪の毛をつかみ、赤ん坊が誰の子かはきちんと証明するつもりだ。この髪の毛があればできるだろ? これは俺たちの奥の手ってやつだ。今のこの会話も録音している。俺や彼女になにかあったら、生まれてくる子供にもだ、全てがマスコミにばら撒かれる手はずになっている。そんな俺のハッタリに、あいつはなんの疑いも持たずに乗っかった。あいつはすでに弱っていた。俺が彼女をマスコミに連れて行けば、あいつの人生は半分終わる。始末できなかった以上、俺の言葉に妥協するしか手はなかったってことだ。

 俺はあいつと約束をした。あんたが余計なことをしない限り、あんたのことは全て忘れると。あいつは言った。お前を信じると。そして姿を消した。けれど実際には、あいつはいつだって俺の目に入ってくる。結婚をしてさらに政治家としての知名度を上げた。今や本当の時期総理大臣候補になっている。

 あいつの結婚式の日、ここに探偵が現れた。なんていうか、俺とあいつは別の世界の人間だと感じたよ。七つのゼロが書かれた小切手なんて、初めて手にしたよ。というか、小切手自体が初めてだった。俺はすぐにその紙をポケットに入れた。探偵は、言葉もなく消えていった。俺は心の中で、少し笑った。あいつはきっと、大物になる。そう感じたもんだよ。

 その後、彼女は無事に子供を産んだ。俺は父親がわりってことで立会う予定だったんだが、どう言うわけか、そこにはあいつがいたんだ。勘違いをするなよ。後の旦那になった方のあいつがだよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る