リベリオ
よしたつ
第1話 星空インパルス
その日、星空が落ちてきた。
けたたましく朝を告げる目覚まし時計を、私は右手でむんずと掴み、そのまま床へ叩き付けた。数瞬前まで元気に生きていた目覚まし時計は、ど派手な音とともにその天寿を全うした。享年、二週間。南無。
というわけで、私は再び深い眠りについた。
次に私が目を覚ました時、けたたましく鳴っていたのはインターホンの音だった。しかも一度や二度ではない。三度四度、ついには両手で数えられなくなるほど何回もインターホンが鳴らされる。初めのうちは耳を塞いで抵抗していた私も、繰り返し訪れる不快感に吐き気を催し、泥の様に重い体を起こして玄関へ向かった。
目覚めたばかりなので、視界がやたらとショボショボしている。何度か目を擦りつつ、玄関のドアの覗き穴から外の様子を窺う。
真っ暗だった。
は?
もう一度覗いてみる。
やっぱり真っ暗だった。
瞬間、私は後ろに飛びのきドアから距離を取る。その動きはまさに、背後にキュウリを置かれた猫もかくやというほどで、俊敏さで私の右に出るものはいないのではないかと錯覚させるほどには素早い動きであった。
そんな、生ごみよりも価値のない冗談を考えてしまうくらいには、私の頭は混乱していた。ドアの覗き穴が真っ暗という事は、考えられる可能性としては二つ。一つは、外が夜で暗すぎるという場合。そしてもう一つは、外にいる人間が「外から中を覗こうとしている」場合だ。薄ぼんやりとした私の記憶では、先ほど目覚ましのアラームを聞いた気がする。とんでもない破壊音も聞こえた気もしたが、それはそれ。問題は今、恐らく高確率で夜ではないという事だ。
だとすれば可能性はもう一つしか残っていない。誰かが私の部屋の中を覗きこもうとしているのだ。まあ当然のことながらレンズの関係で外から中を覗くことは原理的にほぼ不可能ではあるのだが、そんなことは「一般的な常識」だ。誰でも知っているし、やろうとは思わない。
だからこそ、私は身の危険を感じたのである。
そんな行為をやるような人間が、まともな人間であるはずがない。
私は息を殺して、なるべくゆっくりとした動作でドアから距離を取る。抜き足差し足、忍び足。比喩の重用が激しいが、その姿はまるで獲物に迫る猫のようだった。皮肉にも今の状況では獲物は私なわけであるが。
外にいる何者かは、未だにインターホンを鳴らし続けている。ピンポン、ピンポンと鳴り響く嫌な高音が、私の鼓膜をがりがりと引っ掻いていた。心臓の鼓動は速さを増し、体の中からも不快な音が私を苛み始める。うるさいうるさいと、私は両手で虚空を振り払った。
静かに歩いてようやっと、私はリビングまで戻ることが出来た。1Kの部屋で、玄関からリビングまで二メートルくらいしかないのに、やたら戻るのに時間を食ってしまった。体感にして一時間くらいかかってしまったような気もするが、実際は数分なのだろう。体感時間の相対性理論というやつだ。
危険から距離を取ったことで、私の精神には幾ばくかの余裕が生まれていた。そこから生まれるリソースを、私は全て思考の方に回す。
ドアの外に待ち構えている人間を仮想敵として、この状況での最適解を模索する。現状、玄関は塞がれている。どういう逃走方法を取るにしても、玄関から逃げ出すというのはほぼ不可能に近い。私は非力なひきこもり女子高生だ。仮に初撃でドアを思い切り開けて敵の鼻にカウンターを決めることが出来たとしても、ひるませる程度のダメージしか与えられないだろう。もし上手く玄関から出られたとしても、私は足が絶望的に遅い。数メートルも逃げないうちに、私は難なく捕まってしまうだろう。もう少し運動をしておけばよかった、とこんな状況になって悔やんでしまう。
さて、真正面から立ち向かうのは不可能というわけだ。であれば、残りの逃走経路はベランダということになる。しかしここは地上四階、飛び降りでもしようものなら私は地面に柵一輪の彼岸花となってしまう。自己保身のために思わず綺麗な表現にしてしまったが、実態は車に轢かれたヒキガエルのような無様な姿になってその一生に幕を下ろすことになってしまうだろう。それは勘弁願いたい。
であれば、残された手段はたった一つ。
ベランダの両端にある緊急避難用の薄い壁を蹴破って、隣のお部屋にお邪魔するしかない。こんにちはと笑顔で挨拶して事情を説明すれば、きっと理解してくれるだろう。
私は一度大きな深呼吸をして、心を決める。小さく屈伸をして足をほぐし、準備運動をしつつベランダへ出る。
涼しく心地の良い風が、私の頬を撫でた。滝の様に流れていた冷汗も引き、少しばかりの爽快感で心に更なる余裕が生み出される。
うーん、良い「夜風」だ。
後から冷静に考えてみれば、この時点で「自分の携帯電話を使って警察に連絡する」という選択肢を完全に失念していることに何故気付かなかったのか。そして、徹夜を経た睡眠からの二度寝は、時に夜まで寝入ってしまうこともあるという可能性を、なぜ私は無視したのか。私はしょっちゅうこういうミスをしでかす。重要な時に、致命的なミスを連鎖的に引き起こしてしまうのだ。例え一つ一つは小さなミスでも、連鎖してしまえばそれは最終的に取り返しのつかない事態を引き起こす。
私の頬を撫でた風が夜風だと気づいた時にはもう遅かった。
遥か後ろの玄関から、「早く逃げろ」と叫ぶ声がする。あの声は、隣に住む大学生の声だ。
私の視界いっぱいに広がる夜空には、たくさんの星が煌めいていた。
それはそれは、たくさんの星が、眩しいくらいに、光を放って。
まるでそれは、街灯の様にあからさまな光。
思わず目を細めてしまうほど、過剰な光。
そして星々は、ほれぼれするほど真っ直ぐに、ただひたすらに真っ直ぐに、私たちの住むこの地上へ。
その日、星空が落ちてきた。
リベリオ よしたつ @xxusodakedo
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