【短編】春

森山 風雪

 目覚ましの音が彼の意識を現実に呼び戻す。のっそりと手を伸ばして目覚ましを止めると、彼は再び夢の世界へと飛び立った。

 

 一時間後、結局彼は母の声で目を覚ますことになった。

 明日から新学期、心機一転自分の力で起きれるようになろう、と何度目かもわからない昨日の誓いは一日を待たずして破られることとなり、彼の心は少し暗くなる。

 ドタドタと階段を下りダイニングへ入ると、母のおはようという挨拶を無視し、そのまま洗面所へと足を踏み入れた。

 思春期真っ只中の彼にとって、親というものは鬱陶しいもので、何かと理由をつけては反抗を繰り返す。挨拶の無視は――親にとって悲しいことに――もはや日常になってしまっていた。

 ジャバジャバと顔を洗い、昨日使ったバスタオルで顔を拭う。遺伝なのか体毛は薄く、毎日髭を剃る必要もない。彼にとっては軽いコンプレックスの一つなのだが、彼の体質を羨ましく思う者は多くいるだろう。しかし、人生経験の浅い彼はそのことにはいまだ気づかず、髭がほしいなぁ、などと鏡を眺めながら漠然と思う。

「何やってんの! ご飯食べちゃいなさい!」

 キッチンの方から聞こえる母の声に顔をしかめ、軽く舌打ちをしながら、

「わかってるよ」

と不機嫌な声を出す。

 バスタオルを洗濯機に放り込み、彼は洗面所をあとにした。

 庭の雑草は日に日に勢いを失い、夏の終りを匂わせていた。


 控えめに扉を開け教室に入ると、クラスメイトの視線が一斉に彼を突き刺した。

 「重役出勤ご苦労様。早く席につけー」

 茶化すように言う先生に苦笑いで軽く頭を下げ、彼は自席についた。

(数学数学っと……)

 カバンを開けてノートと教科書を取り出したが、そこで筆箱がないことに気づく。

 しまった、と一瞬どきりとしたがすぐに平常心へ持ちなおり、右隣の女子にペンを借りることにした。

「わり、シャーペン貸してくんね?」

「ん、いいよ」

「サンキューな、放課後まで借りていい?」

「うん」

 こしょこしょと小声で話してはいたのだが、先生の耳にはしっかりと届いたらしく、先生は彼をじとっと見つめた。

 あははー、と再び苦笑いを浮かべてノートを広げると、板書事項を素早く移していく。幸いにも授業は始まったばかりらしく、授業にはすぐに追いついた。

 大方写し終わり、気持ちに軽い余裕ができた彼は、ふと窓の外に目をやった。まだまだ残暑が続く中、校庭でソフトボールをしている姿が目に入る。校庭の隅に目をやると、大きな桜の木が寂しげに一本立っているのが目に映る。

 三度みたび視線を感じ、あわてて黒板に目を戻すと、再び彼はノートをとり始める。

 その手に握るペンはいつもとは違う重みを彼に与える。

 彼は放課後までその重みを手に感じ続けた。


「きりーつ、れー」

 気の抜けた、なんともやる気のなさそうな号令に続き、統一感を全くと言っていいほど感じさせない挨拶が教室中に響いた。

 彼はカバンを肩にかけ帰ろうとするが、ペンをまだ返していなかったことに思いあたり、帰り支度をしていた彼女に声をかけた。

「これ、ペン。サンキューな」

 砕けたお礼とともにペンを彼女へ渡す。

「うん」

 そう言って彼女はペンを筆箱にしまうと、カバン――ではなく彼に顔を向け、

「ねえ」

と背を向けた彼を呼び止めた。

「ん、なに?」

 彼は怪訝な顔で彼女を見るが、なかなか返事が返ってこない。しばらくの間、沈黙が彼らを支配したが、先にそれを破ったのは彼女の方だった。

「……勉強、教えてくれない?」


 放課後の某ハンバーガーショップでは一組の男女が一ヶ月後の試験に向けた対策を行っている所だった。テーブルの上には学校で配布された問題集に演習用のノートが広げられ、その傍らには申し訳程度に残ったフライドポテトとプラスチックカップの炭酸と紅茶が寄り添うように置かれている。

 どうして一ヶ月も前から試験対策なんか、と思う彼だが、ペンを借りた義理もあり今更帰ると言うわけにも行かない。それどころか、この状況はデート、と言えなくもないかもしれない、と彼は思う。

「この極限はまず単位円から切り取った三角形の……」

「で、導関数の定理に従って……」

「これは並列回路とみなせるから、合成容量は……」

 彼はうんうんと頭を唸らせながら、数時間前に言われた言葉を反芻する。

『勉強、教えてくれない?』

(俺が教えるはずだったんだけどなぁ)

 察するに彼女はおそらく学年でもトップクラスの学力を持っているだろう。それなのに彼女はなぜそのようなことを頼んだのか。しかし彼も男であり、

(もしかして俺のことが好き、とか)

と思い上がりにも近い考えが浮かぶが、思春期真っ只中の彼にとってそれは仕方のないことだろう。

(ま、そんなわけ無いだろう)

 心の中で首を振る彼をジッとみる視線が一筋。

「何を急に首を振っているの?」

 どうやら体も動いていたらしい。いやぁ、ははは、と視線をそらして誤魔化す彼を怪訝な表情で伺う彼女だったがすぐに興味がそれたのか、手元の問題集に目を移す。

 その様子を見た彼は安心したかのようにふっと息を吐くと、再び彼女に視線を戻し、ぼんやりと思う。

(どうして……誘ってくれたんだろうなぁ)

 フライドポテトに手を伸ばすと、指先に暖かく柔らかいものを感じ、それが彼女の手であることが分かると、慌てたように手を引っ込め、謝罪の言葉を口にした。

「あっ、わ、悪い」

「ううん、それ、食べちゃっていいよ」

 心なしか少し顔が赤くなる彼とは対象的に、彼女の顔は冷静沈着そのもの。

(一人だけ舞い上がって馬鹿みたいだな、俺)

 前髪をくるくると手でいじる彼女を横目に、フライドポテトを口に放り込むと、おもむろに机の上をかたし始めた。

「悪い、俺そろそろ帰るわ」

 鞄を肩にかけると、返事も待たずに席を立ち店を離れていった。

 彼の姿が見えなくなると、彼女はペンを置き、ふぅっと息を吐いた。

 机の上では桜の花びらで彩られたシャープペンシルが蛍光灯の光を浴び、生き生きと輝いていた。


 玄関の戸を開け家の中に入ると、母の声が家中に響き渡った

「おかえりー」

 その言葉を無視し、階段を上って自室へと向かった。

「ちゃんと手、洗うのよー」

「あーもーわかってるよ!」

 舌打ち混じりの不機嫌な声でそう答えると彼は部屋の扉を閉め、ベッドへ倒れ込むようにして寝転がった。

(……今日は何だったんだろう)

思い返されるのは彼女のあの台詞であった。

『……勉強、教えてくれない?』

 彼女はなぜ自分を誘ったのだろう。どれだけ頭をひねったところでその問の答えは得られない。彼の心にモヤモヤとしたものが生まれ始めると、

(ま、どうせなんとなくなんだろうな)

と無理矢理結論を出し、彼女を頭から追い出そうとしたが、彼の心にはいまだ彼女が居座り続ける。

(どうしてあの時、あの場から逃げ出したのだろう)

 終わらない自問自答――主に自問ではあるが――は、夜眠りにつくまで続けられた。

 その夜は残暑の影響からか非常に寝苦しく、彼が眠りについたのは横になって二時間が経ってからであった。


 翌日、始業の五分前に教室につき自席へ鞄を置くと、彼は友人と談笑を始めた。

 学校中にチャイムの音が鳴り響き、彼は他の人と同様、自席へとついた。

 ふと昨日のことを思い出し、チラと彼女を伺うと――偶然か否か――彼女と目があった。突然のことに目をそらせずにいると、彼女は

「おはよう」

と、彼に声をかけた。

「お、おはよう」

 少々どもり気味に返事を返すと、それっきり二人の間に会話は流れなかった。

 窓から見える桜の木は、寂しそうに佇んでいる。


 授業中、またふと思い出し、彼は横目で彼女の様子をうかがった。

 彼女の手に握られたペンは、昨日借りた例のペン。

 彼の心にひとひらの花びらが舞う。ペンに描かれた桜は、それに呼応するかのように踊り始めた。

 そして放課後、彼は彼女に声をかける。

 夕焼けが照らす二つの影の間に季節外れの花びらが舞った。


 今日も桜の木は、グラウンドの隅に一人佇んでいる。しかしその姿からは不思議と寂しさは感じさせず、暖かな春の陽気が溢れ出していた。

 彼はいまだ、思春期の真っ只中にいる。

 

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