幕間

麻生慈温

幕間

 ひとつの恋が終わった時、芝居が終わったといつも思う。


 物語には終わりがある。主人公の人生が切り取られて描かれ、そして恋が実りめでたしめでたしとなって完結する。実らなくて終わる場合もある。恋に破れた主人公が打ちひしがれて終わる物語は、どこか救いがないようでもあるが、実際に現実は違う。人生は死ぬまで続くのだ。実ったはずの恋がやがて終わりを迎えたり、打ちひしがれた主人公が新しい希望と恋に恵まれたりする。人生そのものがドラマであり映画であるのだ。最初の章が終わっても、命がある限り、次章が用意されているのである。


 生まれてからこれまで何度も出会いと別れを繰り返してきた。もちろん色恋沙汰だけではなく、友人であった人、ただの知り合いだった人とも新たに出会ったり別れたりしてきている。恋をする度にこれが最後の恋だと思い、夢中になって燃え上がり、やがて冷めて終わる。そして次の出会いがあり、新たな章の幕が上がるのだ。


 私はそんなことを考えながら、エスプレッソを飲み、新しい章のヒロインとなるべき相手を待っている。つい最近、完成したばかりであちこち木の匂いのする、洗練された最新の劇場として生まれ変わったその建物のロビーにある、妙に洒落たカフェで、壁を背にした居心地のよいソファ席を確保している。


 新しく建てられたその劇場は、市の公共劇場で、ネオ・ルネッサンス風という巨大な洋館だ。正面玄関から入ると、幅広い階段を中心に一階のロビーがあり、三階まで吹き抜けになっている。天井にはステンドグラスがはめ込まれ、陽光を通して色鮮やかな影がロビーの床に落ちるはずなのだが、今、ロビーには大勢の人がごった返しているのでその影は見えない。人々はロビーのあちこちに散らばって談笑したり、入り口のすぐ脇のクロークにコートやマフラーやショールやら預けたりしている。二階と三階の廊下が、ロビーを取り囲むように円形に突き出し、奥に客席への出入り口と長い回廊があるが、そこに、市の公共施設だからと、市民から一般公募して選び抜いた絵画や彫刻が飾られているらしかった。その廊下に、客席へ入ろうと大勢の人が並んでいるのが見えた。


 カフェスペースには、私が陣取っている壁際のソファ席の他に、丈の高いスツールと丸いテーブルの席が、散らばるようにいくつか配置されている。ワインやビールなどのアルコールも頼めるので、多くないテーブル席はほとんど埋まっていた。あまり若くない、黒い髪をきちんと夜会巻きにした女のバーテンダーが、ひとりでカウンターの内側に入り、手際よく客の注文をさばいている様子が見ていてなかなか爽快だった。客のほとんどがカップルや友人連れだったが、私と同じように待ち合わせなのか、ひとりでぽつんとソファ席に座っている若い女もいた。先ほどから所在なさげに、コーヒーカップの中をスプーンでかき回しているが、中身は空っぽのように見えた。と、その女がつとソファから立ち上がり、コーヒーカップを持ってちょうど客の途絶えたカウンターに近付いた。その女のすらりと伸びた、黒いタイツに包まれた足がぼんやりと目に入った。女はバーテンに何やら話しかけた。バーテンは笑顔で応えてカップを受け取ると、新しいカップにコーヒーを淹れて差し出し、代金を受け取った。


 もうすぐ開演時間なので、カフェにいた人達も立ち上がって客席へと向かっていった。リニューアルされたばかりの劇場のこけら落としで、今もっとも人気の高い俳優の主演で上演中の芝居に、大勢の人が押し寄せている。当然だが周囲の客はみな、その芝居の話に夢中になっている。


 私は正直、芝居にもその人気俳優にも興味はなかった。私の興味は、もうすぐ現れるはずの相手にすべて注がれていた。私が彼女とふたりきりで逢うのは、今日で二回目だった。これから新たに始まる季節に、劇場はふさわしい場所であると思う。恋愛そのものを芝居と見立てれば、劇場はまさに恋が始まり、そして終わりを迎えるすべてを舞台上で魅せてくれるのだから。


 エスプレッソを飲み干して腕時計を見る。待ち合わせの時間はとっくに過ぎていた。ゆうべの電話で、彼女は仕事がいつ終わるか読めないのだと言っていた。それで直接、劇場のロビーで待ち合わせることにしたのだ。開演までには行けると思うから、と。


 今日、この芝居を観に来たのも、彼女がこの主演俳優を好きだと話していたからだ。事務所にこの芝居の招待券が二枚、届いた時、私は即座に彼女を誘った。彼女はとても喜んで、この芝居を観るのを楽しみにしていた。もうすぐ現れるだろうとは思うが、携帯にメールも入らないのは少し心配だ。その招待券は前もって渡してあった。先に席についてくれても構わないからと言われて、それでも時間ぎりぎりまでロビーで待っているつもりだったが、やはり落ち着かなかった。他の客は続々とホールの中へ流れていく。私の周囲から潮が引くように人がいなくなっていった。そして開演を告げるベルが鳴り響いた。


 私は迷った末、席につくことにして立ち上がった。彼女は遅れて途中から入ってくるかもしれない。全三幕にも及ぶ長い芝居なのだから。


緞帳が下りた。客席の照明がついて、十五分の休憩を告げるアナウンスが流れる。観客はいっせいに立ち上がり、ホールから出て行った。出入り口に人が群がり、ざわめきが高い天井に響いた。私は立ち上がれなかった。上演中、ずっと空いている隣の席のことが気になって、せっかくの話題作だと言うのに、役者達の熱演もまったく頭に入らず、疲れてしまった。


 客席には、私と同じように立ち上がらず、座っている人もちらほら見えた。舞台のパンフレットに読み入ったり、携帯をチェックしたり、また眠りこけている人もいた。


 私は、ぼんやりと客席に残った人達を見るともなしに眺め、それからゆっくりと立ち上がって出入り口へ向かった。トイレには行列ができ、ロビーは人で溢れていた。私が開演前に座ったカフェにも人が集まっていた。壁際のソファ席に座る若い女の、長い、黒いタイツに包まれた足先が、パンプスが踵だけ脱げて、爪先でぶらぶらさせていた。その若い女に見覚えがあった。私の今日の待ち合わせの相手ではない。先ほども見かけた、このカフェで私と同じように人待ち顔で座り込んでいた女だった。まさか、上演中もずっとここにいたのだろうか。


 その時、私の前を、長い栗色の髪をなびかせた女が通りかかった。私の待っている相手に似ていた。だがよく見ると連れの男がいて、そちらに向き直った横顔はまるで違う人だった。私はがっかりしてカフェのカウンターに近付いた。休憩は終わりに近く、人々はホールへ戻りつつあった。


 先ほどの女のバーテンダーは、テーブルに置かれたグラスや皿を集めて回っていたが、カウンターに立った私に気づいて急いで戻ってきた。私はビールを注文した。ついでに、レジカウンターの横に並べられているチョコレートやクッキーの中から、ポテトチップスの小袋を取った。ビールはハイネケンの缶を開け、グラスに注ぐだけだが八百円もとられる。それでも、グラスの上部に泡をきれいに残すその注ぎ方は、やはり女であってもプロのバーテンという気がする。昔はきちんとしたバーとかで働いていたのだろうか。グラスを手渡してくれた時、マニキュアも塗られていない短く切り揃えた爪の、左手の薬指にくすんだ金色の指輪があった。


 ビールとポテトチップスの代金を払った時、休憩が間もなく終わることを報せるアナウンスが流れた。ロビーにいた人々はいっせいにホールへ戻っていく。私はグラスを片手に、開演前に座ったソファ席にゆっくりと腰を下ろした。例の若い女と、バーテンダーが同時に私をちらりと見た。私は気にせずビールを飲んでチップスをつまみ、携帯を見た。彼女からの連絡はない。私からメールしようかとも考えたがやめておいた。やめたほうがいいような気がした。係員が席へお戻りくださいと声を張り上げていたが、やがて劇場内へ入る重たい扉が、まるで再び開くことはないかのような重厚な音を立てて、ゆっくりと閉ざされた。


 人気のなくなったロビーは、水底に沈んだような心地良い静けさに包まれた。女のバーテンダーがカウンターの内側で洗い物をしているらしい水音が、いっそう静寂を引き立てた。私はビールをちびちび飲みながら、待ちぼうけを食わされているらしい若い女をちらりと見た。相変わらず、すらりとした脚を組み、爪先でパンプスをぶらぶらさせている。着ているミニスカートのワンピースや、長く、まっすぐにブロウされた黒髪と、その佇まいからモデルとか女優かなと思った。声をかけてみたい気もしたが、今夜はやめておこうと思った。もしかしたら、私の待ち合わせの相手が現れるかもしれないという儚い望みを、まだ捨て切れていなかった。


 どんなに静寂に包まれているように見えても、やはり劇場の中は熱気が漂っている。その空気の中で、何やらわけのありそうな若い女が隣にいることで、ふつふつと身の内から湧きだすものを感じた。私はいつも持ち歩いている小さなメモ帳ノートとボールペンをジャケットの内ポケットから引っ張り出し、忘れないうちに書き留めた。そろそろ、新作について考えなくてはならなかった。


 思いつくままボールペンを動かし、ひと段落したところでノートを閉じて温くなってしまったビールを飲み干した。女のバーテンダーがそっと近寄ってきて、よろしかったらどうぞ、と個包装の小さなチョコレートをひとつくれた。私はお礼を言って受け取った。バーテンダーは、隣の女にもチョコレートを渡した。女はハスキーな声で礼を言い、コーヒーのお代わりを頼んだ。それにつられて、私もビールのお代わりを頼んだ。バーテンダーは優しくうなずいた。隣の女がちらりと私のほうを見たので目が合った。女は少し首をかしげるようにして会釈をしてくれた。私も笑顔を返し、やっと女の顔をまとも見ることができた。はじめ、モデルかと思ったが、女の顔立ちに派手さはなくごく平凡な目鼻立ちで、化粧も薄めだった。女優かモデルというのは考えすぎで、普通の少し可愛い女の子といったところだ。


 バーテンダーが、私のビールと彼女のコーヒーを運んできた。その場で代金を払い、私はビールのグラスを隣の女に向けて掲げてみせた。女もうっすら笑ってコーヒーカップをv持ち上げた。その、どこか寂しそうな笑顔に引き込まれそうになった。これは、新しい芝居の始まりなのだろうか。いや、芝居は今、我々の外で上演中のはずだ。


 女が声をかけてきたので我に返り、慌てて訊き返した。女は苦笑いで舞台は観ないのかと訊いてきた。私は返す言葉がなく、ビールを飲み、そちらこそ観なくていいのかと質問で返した。


 私、お芝居を観に来たわけじゃないから。女はぼそりとそう言った。


 お芝居を観に来たわけじゃないから。人に逢いに来たんです。誰に? 咄嗟にそう訊いてしまった。人に逢いに劇場へ来るというより、上演中の舞台へやって来たことが信じられなかったからだ。彼女は私のぶしつけな質問に嫌な顔もせず、といって返事もせず、コーヒーを飲んだ。


 あなたは? 観なくていいんですか? とまた訊かれた。僕は人を待っているんです、と正直に答えた。人を待っているんです。来てないけど。言ってしまってから、ずいぶん寂しい言葉だなと思った。人を待っているんです、来てないけど。


 時折だが、会話の中で人の発した言葉や、自分の口にした言葉を反芻してしまうくせがあった。頭の中で勝手にリフレインされるのだ。無意識に人の会話を「せりふ」として捉えてしまうのかもしれない。自分に言われたことなのに実感が伴わない時もある。


それだから、友情はともかく、恋愛関係が長続きしないのかもしれないと思う時がある。これまでで一番、女から言われて痛烈に刻まれた「せりふ」が、あなたはそこにいるのに、まるで実体がないみたい。大道具とか背景の一部とか、三次元コピーみたいで、血が通っているように見えないのよ、だった。

ひどいな、と思ったが、言い得て妙とも思えて、反論できなかった。因みに相手は恋人でもなんでもない、顔見知りの舞台女優だった。


 STAFF ONLYと書かれたドアの内側が勢いよく開き、ふたりの男が、声をひそめてはいるが何やら激しい口調で言い合いながら出てきた。片方は中年だが細身のジャケットを着たスマートな身なりで、もうひとりはずいぶん若く、黒いTシャツとチノパンを身に着け、明らかに目下と分かった。ふたりともIDカードらしきものを首から下げている。中年の男が早足で歩きながら、今さら照明に文句つけても仕方ないだろう、と苛立った口調で言い、若いほうが、でも今日は確かにブルーが調子悪くて、と言い訳めいたことを返していた。だからって、となおも言いかけて、ロビーに佇む私達に気づいて、中年の男は口をつぐんだ。客に内部の、裏方の問題を知られるのはまずいと思ったのだろう。と、こちらを見た男の目が大きく見開かれ、狼狽の色が浮かんだ。何か信じられないものを見たような表情だった。私とこの男は一面識もない、向こうが私を知っている可能性はあるが、こんなに驚愕する相手ではないはずだ。ということは、この、私の隣に座っている若い女の知り合いなのだろうかと思い、そっと女の様子を窺うと、女は何の動揺の色もなくバーテンダーのくれたチョコレートをつまんでいる。しかし、男の目は女から離れない。一体どうしたのだろうと思っていると、男は部下らしい若い男に促され、ロビーの隅を横切って非常口と書かれたドアへ入っていった。


 穏やかに凪いだ海の表面に、一陣の風が吹いてさざ波が立ったような、ほんの短いざわめきが去り、ロビーはまたしんと静まり返った。


 女がつと立ち上がり、ソファ席から離れてゆっくりと階段を昇っていった。あの男を追いかけたのかと思ったが、それなら同じドアへ向かうだろう。どういうことか考えているうちにトイレに行きたくなった。席を立ったついでに携帯を見たが、やはり彼女からの連絡はなかった。カウンターのほうを見ると、女のバーテンダーはロビーに背を向けて、じっとうなだれているように見えたが、何かの作業に熱中しているようで、我々にまったく注意を払っていないように見えた。


 トイレで手を洗い、ふと思い立って階段を昇り二階の回廊へ行ってみた。重い二重扉で閉ざされた向こうの空間では、あるドラマが、あるひとつの人生が上演されている。私のいるこの回廊にその声や様子はまるで聴こえないが、舞台特有の息遣いが感じられた。演者と観客の熱気か、舞台上に宿る神々しさか、あるいはその両方の魂がぶつかり合って、音なき音を産み、劇場の外の空気に漂っている。うなりを上げている。人間の声はしないのに、大きなざわめきを感じることができるのだ。


 回廊を歩いていても現実味がなくて、足元が妙にふわふわして落ち着かない。三階の様子も見たくなり、少し駆け足で階段を昇った。やはり、同じ息吹きに満ちていた。奥へゆっくり進んでいくと、あの若い女が立っていて、何かにじっと見入っていたので驚いた。彼女のほうも私を見て驚き、慌てた様子で私の横をすり抜けて小走りで去ってしまった。


 呆気にとられていると、芝居の最後の休憩が入り、出入り口から人がどっとあふれ出てきた。彼女の姿も人波に呑み込まれて見えなくなった。手すりから下を覗くと、人混みに紛れて下へ降りていく彼女の長い黒髪が見えた。ふと思って、彼女のいたところに戻ってみると、そこにはブロンズ像が飾られていた。小さな、猫の彫刻だった。一匹の猫がしっぽまで丸めて眠っている姿だったが、胴体に長い線が入っていて、明らかに傷痕のようだった。だとすると、これは眠っているのではなく、死んだ猫ということだろうか。


 二回めの休憩は先ほどより早く終わるらしく、早くも休憩の終わりを告げるアナウンスが流れ、人々が客席へ戻り始めた。私は、そのまま回廊の他の絵や作品を見て歩いた。市民からの一般公募とはいえ、なかなかの力作揃いだった。絵画の合間に、彫刻作品も、先ほどの猫のブロンズから、立体のなかなか立派なオブジェまでいろいろ飾ってあった。私は階段をゆっくり降りて、二階の回廊の絵も見て回った。なかなかハイレベルな出来映えの作品ばかりだったが、どこか息遣いまで感じなかった。私は二階はひと回りだけして、また三階へ戻った。あの猫のブロンズ像をまた見たくなったのだった。深い絨毯が足音を吸い込み、しんと静かだった。その時、芝居の熱気でも、絵にこめられた魂の熱気でもない、人間の息遣いを感じた。そっと見ると、やはりあの女が同じように猫の前に立ち、じっとそれを見つめていた。彼女がその猫を見つめる目は、ただ気に入った彫刻を見ているそれではなかった。もう邪魔はしたくないと思ったので、私はそっと引き返して階段を降りかけ、気が変わり、そのまま座り込んだ。携帯を見ても、やはり何の連絡も入っていない。私は膝に肘をついて両手で顔を覆い、じっとうなだれた。こうすると、より劇場の空気を肌で感じることができる。初めて劇場という空間へ足を踏み入れた子供の頃に戻ることができる。中学生になって初めてひとりきりで芝居を観た、あの興奮と幸福を取り戻せるのだ。高校生になって、つき合った女の子が一緒に行きたいと言うから、頑張ってふたり分のチケットを買うためにアルバイトに精を出し、晴れてふたりで行ったのに、その子は連れて行ったシェークスピアの古典劇の第一幕めの途中からぐっすり寝入ってしまい、つまらなかったなどと言うから喧嘩になった思い出がある。そう言えばあの子はどうしているだろう。もう、あれから何年たったのだろうか。


 昔のことを考えているうちに、また私の内側からふつふつと湧きだしてくるものを感じた。そうだ。私にはやらなくてはならないことがある。新しい劇場の匂いと、古い劇場のそれとの違いを、その息遣いを、記しておかなくてはならない。あの死んだ猫の彫刻が見る者の心を揺さぶるように。私は、まだ自分の伝えるべき事柄を描き切ってはいないのだ。


 大丈夫ですか、と声をかけられて驚いて飛び上がった。カフェの女バーテンダーが、階段の二、三段下から心配そうに私を見上げていた。びっくりさせてごめんなさい、と続けて言われ、私は慌てて首を振り、大丈夫ですからと言った。下から、あなたがうずくまっているのが見えたんです、気分でも悪いのかと思って。バーテンダーは恥ずかしそうに言った。わざわざ持ち場を離れて様子を見に来てくれたようだった。私は急いで立ち上がり、心配かけたことを謝った。そのやりとりが聞こえたのだろう。あの若い女も階段のところまでやって来た。私達は顔を見合わせ、ごまかすように笑い合った。それをきっかけに、なぜか三人で階段を降り、またカフェに戻った。バーテンダーはカウンターに入り、私は女に、よかったらコーヒーのお代わりをしないかと言ってみた。女は、今日はもうコーヒーを飲み過ぎたからと笑い、アイスティーにしますと言った。私もつられて笑い、カウンターに行ってバーテンダーにコーヒーとアイスティーを注文した。バーテンダーも先ほどよりずっと親しみのこもった優しい笑顔で迎えてくれた。


 代金を支払うと、お持ちしますから、座っててくださいと言われ、私は若い女の座るソファの隣の席に腰を下ろした。すぐにノートとボールペンを取り出し、先ほどの続きに取りかかった。自分でも驚くほどペンが進んだ。本当に待っている相手にはふられたようだが、そう悪くもない夜だ。女のバーテンダーが私のコーヒーと彼女のアイスティーを運んでくれた時、私は熱中していて顔も上げなかったが、バーテンダーは何かを察してくれたようで、私には何も話しかけず、離れてくれた。若い女も、私をちらりと見たようだったが、やはり邪魔はせず、放っておいてくれた。私はコーヒーが冷めるのも構わず書き続けた。


 ようやくひと息ついて顔を上げる。集中して執筆した後はいつもそうなのだが、一瞬、自分が今どこにいるのか分からなくなってあちこち見回した。ロビーは相変わらずしんと静まり返っており、隣の若い女はアイスティーを半分以上飲み終えて、紙ナプキンを広げて何やら折り紙をしていた。バーテンダーはカウンターを拭いていた。また隣に目をやると、若い女は私の視線に気づき、やや得意げに、なかなか精巧にできたねずみを掲げて見せた。私は少し楽しくなって、ノートからまっさらのページを一枚破り、思いつくままに象を描いてみた。隣の女が好奇心をもって見ているので、完成したその自信作を見せてやった。女は私の描いた象を見て笑った。硬さが少しだけとれて、自然な、柔らかい笑顔になっている。それで嬉しくなって、あの猫の彫刻は見事なものですね、と言ってしまった。彼女の笑みが少し硬くなったのでしまったと思ったが、あの猫は、あなたが造った作品ではないのかと訊いた。彼女は髪をかき上げて残りのアイスティーを飲み、気を取り直したように微笑んで違います、と言った。違う? あたし、あの猫を造った人を知っているんです。ああ、そういうことかと合点がいった。作者ではなく、作者を知っているのか。確かにあの猫と向き合っている彼女は、懐かしい人が遠くからやって来るのを待ち受けているような表情を浮かべていた。あの猫を見るために来たのかと訊ねると、あっさりうなずいて見せた。あの猫に逢いたくて通っているんです。逢うために通っている。彼女が、あの猫ではなく、あの猫を造った作者に逢いたくて来ているのだろうことはすぐ分かった。だから、あの猫の作者とは、恋人同士なのかと訊いてしまった。彼女はまたもやあっさりうなずいて、そうでした、と言った。

 

このやりとりを自分の中で反芻してみて、またずいぶん寂しい言葉だなと思った。


 あの猫は、あたしがモデルなんです。彼女が髪をかき上げてぼそりと言った。あの猫が?そう、あれあたしなんです。傷を負った猫。あたしね、ここに傷があるんです。彼女はそう言って、黒いタイツに包んだ長い右足の膝下を指でなぞった。濃いタイツに包まれて足の素肌はまったく見えなかったから、想像することは難しかった。


 ここに傷があるの。彼がそれ見て、お前は猫みたいな奴だからって言って、あの猫を造ったんです。彫刻家って、ほんと何を考えているのか最後まで理解できなかった。


 彼女はそれきり口をつぐんだ。その恋人という彫刻家は今どうしているのか、なぜ猫に逢いに来ているのか、さすがにそこまでは訊けなかった。

非常口と書かれたドアが開き、先ほどの中年の男が、今度はひとりで現れた。意を決したようにつかつかとカフェに歩み寄り、隅のソファ席にくつろぐ私と若い女を見つけ、一瞬ためらってからカウンターに近づいた。女バーテンダーは落ち着いてはいるが、どこか身構えるような表情でその男がやって来るのを見つめている。男は傍目にもわかるほど緊張で背中を固くしていた。


 男はためらいがちに、君がここにいるとは知らなかった、と言った。女バーテンダーは曖昧に微笑んでみせたが、先ほどまでの接客用の笑顔とは明らかに違っていた。親密で秘密めいた女の顔になっていた。私の隣に座る女も、カウンターにさりげなく視線を向けている。


 ロビーには人気がなく、しんと静まり返っていたから、男の声は小さくても私達のいるところまで届いた。男は先ほどの、部下に対して横柄な態度をとっていた男とはまるで別人のように、縮こまって見えた。


 加藤さんは、どうしている? と男が訊いた。バーテンダーはそれを聞いて怪訝そうな表情になり、加藤さんは亡くなりました、と答えた。三年前に亡くなりました。それで私も店を閉めたんです。


 亡くなった? 三年前に? どうして知らせてくれなかったのかと男がバーテンダーに詰め寄った。バーテンダーは戸惑ったふうに、電話しましたと言った。奥さまにお伝えしました。


 男は愕然としていた。知らなかった、俺は聞いていない……。


 それで、お葬式も来なかったんですね、と言うバーテンダーの声も、男の耳に届かないほど、彼は打ちひしがれているように見えた。俺は聞いてない。何も知らなかった。どうして女房は教えてくれなかったんだ。加藤さんとは、結局あれきり逢えなかった。


 そうね、きっと奥さまは私達がまた顔を合わせるのが嫌だったんでしょうね。

 何だと? 男はきっと顔を上げた。あいつ、そんなことを気にしたのか。くだらない。俺は加藤さんを恨んだ。あれ以来ずっと恨みながら生きてきた。もう一度話をしたいと思っても、どんな顔をして逢ったらいいか分からなくて悩んだ。それなのに。


 奥さまを責めないで、くだらないことじゃないわ。バーテンダーは言いながら、カウンターに寄りかかるようにして立っている男の手に、自分の手を伸ばしかけ、私達のほうを見てはっとしたように引っ込めた。私は慌ててふたりから目をそらした。


 ねえ、まだ仕事中だから、後でゆっくり話しましょう。もうすぐお芝居もはねるでしょう? 男は力なくうなずいて、何か冷たいものを出してくれと言った。あなたも仕事中でしょう? アルコールじゃなくていい。女バーテンダーはうなずいて、冷蔵庫からコーラの瓶を出し、銓を抜いて男の前に置いた。男はカウンターに寄りかかったままコーラを飲み、自分が今携わっている芝居や、これから上演予定の芝居の話を始めた。男は演出家らしかった。もしかしたら、名前を聞けば知っているかもしれない。このふたりの話す加藤さん、というのがどこの誰なのか、これ以上は話してくれそうになかった。


 その時、私の携帯がバイブ音を発した。急いでみると、今さら、待ち合わせの相手からのメールだった。いろいろ書いてあったが、要するに今夜はもう行けない、ということだったが、おそらく今夜に限った話ではないのだろう。私はため息をついて携帯をしまった。


 がっかりしつつも、どこか安堵した気持ちだった。隣から、彼女ですか? と声が飛んできた。待ち合わせなんでしょう? もうお芝居終わっちゃいますよ。ええと、ああ、そうですね、来ないみたいです。と軽く言うと、隣の女は余計なことを訊いてしまったというような、気まずそうな顔になった。

 

 私も何となく申し訳ない気持ちになった。私自身はちっとも落胆してはいないからだ。少なくとも驚いてはいない。こうなることが最初から分かっていたような気さえする。しかし、隣の女にそんなことを説明するつもりはなかった。恋人の面影を探して彫刻に逢いに来るような事情と比べたら、私の話など取るに足らない、ありきたりな陳腐なものだ。私のことより、彼女の話を聞きたいと思った。それから、もう若くはないがどこか色香を漂わせるあの女バーテンダーの話も聞きたいと思う。結婚しているようだが、彼女の夫とはどんな人物だろう。「加藤さん」とは何者なのか。あの男もただ者ではなさそうだ。この人達はどんなドラマを生きてきたのだろう。

 

 その男は、腕時計に目をやるとコーラを飲み干し、小さくげっぷをして、もう行かないと、と言って瓶をバーテンダーに返した。後で電話する、何時になるか分からないが、と言いかける男を、バーテンダーは分かっているというふうに遮って、大丈夫だから、と言った。男は、やっと少し落ち着きを取り戻したようだった。

 

 カウンターを離れてロビーを横切る時、男は私を見て会釈をした。やはり私のことを知っていたようだ。私も会釈を返すと、バーテンダーと隣の女が怪訝そうにこちらを見た。知り合いだったのか、という顔だ。私は知らん顔でコーヒーの残りを飲んだ。

 

 私がコーヒーを飲み終えるのを待っていたかのように、隣の女が腕時計を見て、芝居が終わる前にもう一度、あの猫に逢ってきます、と言って立ち上がり、何か言いたげに私を見た。彼女は、私に一緒に来てほしいと思っているのだ。そう思い私も立ち上がった。

 

 立ち上がって横を見ると、女バーテンダーも見守るような優しい眼差しでこちらを見ている。私はゆっくりと彼女の後を追って階段を昇った。昇りきった時、回廊の空気が熱を帯びて揺れているのを感じた。カーテンコールだ。先を歩いていた女がそっと私を振り返った。

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幕間 麻生慈温 @Jion6776

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