第11話正面橋(揚げ幕)明日に向かって走れ

主題歌 吉田 拓郎 「 明日に向かって走れ 」


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大学時代の友人、藤原真冬から久し振りにラインで連絡があったのは、八月の下旬の昼下がりだった。

丁度田上夏美は、スマホで偶然真冬のフェイスブックを見ている時だった。

「ナツミカン、おひさー⁉今何してるん」

ナツミカンとは、夏美の大学時代のあだ名である。

本名が「夏美」→「ナツミ」→「ナツミカン」とあだ名の方が字数が多いのである。

これは珍しい。

夏美はすぐに返信した。

「明日から、新しい仕事に行きます」

すると真冬からもすぐに返信が届いた。

「何の仕事するの」

「あげまく!」

「揚げる?まくを揚げる?お惣菜屋さんで働くのん?まくて何?お魚?それとも練り物なのかなあ。どっちにしても美味しそう!」

人一倍食いしん坊らしい真冬の言葉に、夏美は一人で小さく笑った。

(そうか、世間は、揚幕やってますと云っても通じないんだ)

改めて明日からの南座・揚幕係の仕事に一抹の不安を覚えた。

揚幕とは、花道の出入り口の、鳥屋口(とやぐち)に架かる黒い幕を開閉する係である。

元々、夏美の祖父、田上龍太郎が、先月までやっていた。

龍太郎は、昨年に、高齢を理由に、やめたいと南座に申し出ていた。

しかし、昨今の人手不足で、中々募集しても人が集まらない。

来てもすぐにやめる。また募集する。またやめる。その繰り返しだった。

龍太郎が、夏美の事を紹介した時、南座の藤川支配人は最初難色を示した。

元々、歌舞伎公演で裏方に女性が入るのは、御法度であった。

ほんの、二十年ほど前までは、裏方は全て男だけであった。

歌舞伎が、男だけで演じる長年の歴史から、案内係を除いて全て男の世界だった。

しかし、時代は、女性の様々な世界、分野での進出が活発になり始めた。

それは、劇場の裏方の世界も同様だった。

今では、小道具、照明、音響、衣装、床山、楽屋番等に女性が進出している。

照明に至っては、センタースポット係は全て女性である。

最初、経営・興行元の竹松も藤川支配人同様、難色を示した。

しかし、人手不足なのだから仕方がない。苦渋の判断で、

「一度試しにやってみましょう」

と判断が下された。

夏美は、かいつまんで揚幕の説明を書いてラインを真冬に送った。

「何かようわからんけど、頑張ってね!そのうち、見に行きます」

と返信が来た。

夏美の家は、鴨川に架かる五条大橋と七条大橋の間に架かる、正面橋の西側にあった。

昔小さい頃、よく祖父の龍太郎に、

「なあ、おじいちゃん、正面橋って、何が正面なん?」

と聞いたものだ。

「今は、正面橋の東側は、豊国神社やけど、あそこは、元々秀吉さんがこさえはった方広寺と云うお寺があったんや」

その方広寺には、奈良の東大寺を上回る規模の大きな大仏があったと云う。

今の、七条の京都国立博物館の北側辺りである。

秀吉は、この方広寺と、西本願寺とを一直線で結ぶ道を、正面橋を架けて整備した。

その西本願寺と方広寺との間に、どんと邪魔するように、作った寺が、東本願寺である。

これを指揮したのが、秀吉亡き後、天下を取った徳川家康であった。

そう云う経緯があるので、西本願寺は世界文化遺産だが、東本願寺はそうではない。

世間の人は、よく京都人は、「イケズ」と云われるが、最大のイケズは、徳川家康なのである。

京都人でも、「正面橋」の歴史を知っている人は、年々少なくなって来ている。

翌日、夏美は自転車で南座を目指した。

京都は、坂が少なく、街が碁盤の目になっているので、自転車移動しやすい街である。

さらに街の東には東山がある。

道に迷っても、東山が東なので、自ずと方角が見当がつく。

東京は、山も見えないし、街が碁盤の目でないから、不安になる。

夏美は、東京へ行くと落ち着かないのは、そのためだ。

京都の住所は、北方向が上がる。南方向が下がるだ。

現実に京都駅から、北大路まで緩やかに上がっているのだ。

その落差は、約五十メートルと云われている。

京都駅前の東寺の高さぐらいの高低差がある。

車では、わからないが、徒歩か自転車で真っすぐに上がってみればわかる。

「おらおらおら」

突然、夏美の背後から一人の中年男が、自転車で走りながらそう叫んだ。

車ではなくて、自転車のあおり運転だ。

その中年男は、夏美を追い越す時に、

「ちんたら走るな!」

と捨て台詞を吐いた。

「気分悪い」

夏美は、朝からこの出来事で最悪の気分となった。

南座の楽屋口で、龍太郎が待っていてくれた。

初日なので、各セクションの挨拶回りについて来てくれた。

まず楽屋口係の前谷美代子を紹介された。

「前谷美代子です。よろしくお願いいたします」

美代子の甲高い声が夏美の耳に飛び込んで来た。

「田上夏美です。よろしくお願いいたします」

次に事務所に行った。

丁度藤川支配人がいた。

「藤川です。よろしくお願いいたします」

上半身の身体を二つ折りにして、深々とお辞儀した。

余りにも丁寧な対応に、夏美は驚き、躊躇した。

次に一階の案内所へ行った。

「こっちが案内チーフの藤森理香さん。べっぴんさんやろう」

「はい、綺麗です」

夏美の(綺麗)の言葉に、いち早く敏感に反応して、顔に笑みを浮かべた理香だった。

「夏美、この人幾つに見えるか」

夏美は、理香をじっくりと見た。

色白の、皴のない張りのある肌。黒髪はセミロングでどこまでも艶やかである。

立ち上がると身長は百六十五センチで、均整の取れた体形だった。

「三十歳ですか」

一瞬の間。

「そうねえ、そうそうなのよ、三十歳なの」

理香は、一瞬目が泳いだが、すぐに平静に戻った。

龍太郎は、肩を震わして笑っていた。

「そうや、永遠の三十歳や」

「夏美さんは、幾つなの」

「二十五歳です。だから理香さんとあまり変わりません」

「そうねえ、そうよねえ」

どこまでも、三十歳を突き通す理香だった。

「こんなに綺麗、べっぴんさんやのに、独身や。何でや」

と龍太郎が笑いながら聞いた。

「どうしてですか」

夏美も同じ思いだった。

「なあ何故でしょう」

理香は微笑んだ。

京女は、余程の事がない限り、本心はさらけ出さない。

「田上夏美です」

「よろしくお願いいたします」

理香も丁寧だった。

後日理香が本当は、三十歳ではなくて、四七歳だと知った時は、上半身の身体がのけ反った。余りにものけ反ったから、数日腰が痛かった。

(世間には、あんなに綺麗な四七歳がいるんだ)と感心してしまった。

女性の年齢は、わからない。

もし理香が合コンに出て、

「はい三十歳です」

と云っても恐らく男どもは、全員信じていただろう。

「二階上がろか」

「次はどこ行くの」

「調光室」

「調光室?何それ」

「舞台の照明を調整するところや」

二階席の後ろのロビーにある、調光室は舞台照明の心臓部とも云えた。

ここの調光卓で、舞台の光が瞬時に変わり、暗転も明転も出来る。

夏美と龍太郎が行くと、丁度岩倉椿(つばき)がいた。

「椿ちゃん、お早う」

「田上さん、お早うございます」

「揚幕のニューフェイス紹介しとく」

「田上夏美です。よろしくお願いいたします」

「田上?」

「そう。わしの孫娘や。今日からや」

「田上さん、本当にやめるんですか」

「そう。孫にバトンタッチ。椿ちゃんは、岩手県の出身で、酒がめっぽう強い。一升飲んでもへっちゃら」

「そんなに飲むんですか」

「田上さん、一升ではないです。二升です」

椿は、きっちりと訂正した。

「に、二升も!」

二升とは、一升瓶二本分である。

「夏美さんは、お酒は飲むんですか」

「たしなみ程度です」

「たしなみ程度ねえ。それが一番怖いなあ。今度裏方の女子会やりましょう」

「はい喜んで」

「照明控室の笠置さんとこは」

「これからや」

「そう」

岩倉椿は、笠置の事で何か云いたそうだった。

椿は、一瞬龍太郎の方へ視線をやり、

「また女子会で」

と言葉を区切った。

「はい」

次に隣りの音響室を覗く。

色の黒い、イケメン男性が作業していた。

「新川さんお早う」

「オッス!」

龍太郎が紹介した。

「こちら音響の新川真由子さん」

「真由子・・・あのう女性なんですか」

少し遠慮がちに夏美は質問した。

「そう去年までは。今は立派に男に成長しまして・・・って違うやろう!」

真由子は、ひとりボケ・突っ込みを見せてくれた。

「はあ・・・」

「おいおい、そのリアル意気消沈顔は。ほんまに男と思ってたやろう」

「はい、イケメン男子だと、てっきり」

「新人さやのに、物おじせず正直でよろしい」

「これ夏美!」

「すみません」

「いいのよ」

さらに顔を近づけた。

まさに夏美が好きな男のタイプだった。しかし残念ながら、男ではなくて女だった。

「次は三階や」

「今度はどこへ」

「まあついておいで」

夏美らは、三階席の上手側(舞台に向かって右側)の照明器具がぎっしり並んだブースに行った。

ここは、通称、上手フロント室と呼ばれている。

いわゆる上手サイドフォロースポットライトがあるエリアだ。

ここから、花道鳥屋口から、役者が揚げ幕が開かれると、同時にライトを当てるセクションなのだ。

「しーちゃん、お早う」

「田上さん、お早うございます」

中から、髪が真っ白の男が出て来た。

「揚げ幕の新人さん紹介しとく。孫の夏美や」

「田上夏美です」

「へえええ、お孫さんですか。川口繁です」

「よろしくお願いいたします」

「夏美さん、ラインか、フェイスブックやってるの」

川口がスマホ片手に聞いて来た。

「はいやってます」

「ちょっと電話番号教えてくれるかな」

川口は、胸ポケットから老眼鏡を取り出して打ち込み出した。

「しーちゃん、ようやるなあ。夏美、この人幾つか知ってるか」

「五十歳ですか」

「五十歳。いいね、いいね。今度一緒に飲みに行きましょう」

「違う。七十三歳や」

「うそおおおお!若い!」

「いいねえ、いいねえ」

川口は、どこまでも陽気だった。

地下に降りて、大道具部屋へ行く。

「こちらが、京都タツミ舞台の棟梁の沢田三治さん」

頭は角刈りで、目つきの鋭い太った反社会勢力の若頭が出て来た。

上方喜劇女優の藤川直美が、沢田と初めて出会った瞬間、

「若頭、お早うございます。お務め終えられて、あっちから出てきはったんどすか」

といきなり、直美節が、直球で炸裂した。

「へえ、まあ」

沢田が、にっこり微笑み否定しなかった。

「京都タツミ舞台の若頭!」

藤川直美の命名がこの時、成立した。

それ以来、この業界では、沢田の事は、「若頭」で通っている。

東京の舞台監督や、演出家、舞台美術家が、

「若頭さんおられますか」

と電話して来る。それで通じるのだ。

打ち合わせで、東京へ行くと、一日で警察官の職務質問を最低五回は受けた。

多い時は、二十回もある。

用事でたまたま、警視庁の前を通っただけで、三人の警察官に取り囲まれた。

「田上夏美です」

「夏美ちゃん・・・ナツミ・・・カンか」

「はい、あだ名がそうです。よくわかりますね」

「おっちゃんは、何でも知ってるのよ」

とここで豪快に笑った。

笑うと、目じりのしわが増えてお茶目な表情に変わった。

出来る事なら、ずっと笑っていて欲しかった。

最後に照明控室に行った。

「これ、今日から揚げ幕係の田上夏美や。こっちが、照明課長の笠置さん」

「田上夏美です。よろしくお願いいたします」

一礼して頭を上げて正面で見た。

「あっ!」

夏美は小さく叫んだ。

今朝の正面橋付近で、自転車暴走して来た男だったからだ。

「どないしたんや」

龍太郎が尋ねた。

「いえ別に」

「田上さん、やめるんですか」

笠置は、夏美への暴言の一件は、何も気づかない様子だった。

「そうや、引退や」

「同じ苗字て、そしたら」

「そう、わしの孫や」

「お孫さんですか。可愛いですねえ」

今朝の「ちんたら走るな」と暴言を吐いた人物とは思われない言動だった。

「笠置です。お茶目なかっさんと呼んでね」

の後、何が可笑しいのか、笠置は一人大きく笑った。

夏美は笑わず、じっと見ていた。

「あれっ?」

笠置は、夏美も一緒に笑ってくれると思ったらしく、すべった感丸出しの自分を露呈した事に対して、照れ笑いを浮かべてリアクションした。

「そしたら夏美行こか」

「はい」

夏美と龍太郎は、これから自分の職場である、揚げ幕、鳥屋口(とやぐち)に向かった。

地下の階段を上がると、鳥屋口についた。

三畳くらいの広さの小さな小部屋である。

「ここが鳥屋口や。芝居が始まったら、花道での役者さんはここで、待機するんや」

「意外に狭いんやねえ」

夏美は、祖父、龍太郎が揚げ幕をやっていた事もあり、何回か歌舞伎を見た事があるが、知識については、素人同然だった。

「歌舞伎の世界は大変や。劇場用語も覚えやなあかんしな」

「そうですねえ」

「何か質問あるか」

「役者さんが出る時に、揚幕開けるんですよね」

「そうや」

「どの切っ掛けで開けるんですか」

「それは役者さんが云うてくれる時もあるし、稽古の時、切っ掛け覚えて自分で開ける時もある」

「じゃあ反対に入って来る時はどうやって開けるんですか。モニターテレビかあるんですか」

「夏美、ええ質問や。こちゃ来てみい」

龍太郎は、揚幕に近づいた。

「この、幕、ここ見てみいや。亀裂が入ってるやろう」

龍太郎は、揚げ幕の中央部を指さした。

布地に、縦七・五センチほどの長さの切れ目が入っていて、内側から覗けば、外の花道の様子がわかる仕組みだった。

「ほんまや。パッと見い、わからんかった」

「この亀裂から見て、役者さんが今、花道のどの辺り歩いているかが、わかるんや」

「へええ、知らんかったあ」

「この縦長の亀裂は、京都タツミ舞台の佐々本さんがミシンでこさえたんや」

「佐々本さん?」

「そう。男やで。ミシンで縫うのも早いが、女にも手が早いから気をつけや」

「はい気をつけます」

初めて知る事だった。

「この鳥屋口はなあ、揚げ幕で仕切られてるだけやから、喋ったら客席によう聞こえるんや。しやから黙ってる事」

「はい」

「しやから私語厳禁やで」

「わかりました」

「稽古の時は、お爺ちゃんついとく。役者さんへの挨拶まだやしや」

「有難う」

「それからな夏美」

「何?」

「この世界、佐々本を初めとして、手の早い連中ばっかしや。わしはそれが一番心配なんや」

「大丈夫。誰も私みたいなもん、声かけて来ないて」

「いや、夏美は可愛いからな」

「それはお爺ちゃんの贔屓目。そんな事ないから心配せんでもええ」

夏美は思った。

南座には沢山の部署があると思った。

今まで何気なく芝居を見て来たが、一つの芝居を支える表方、裏方には様々な職種の人達が働いているんだと痛感した。

そして、その職種の中に、(揚げ幕)が入るのだと。

「夏美、これで全部と違うで」

龍太郎が釘を刺した。

「えっ全部と違うのん?」

「全然。まだ小道具、舞台操作盤、切符売り場、事務所でも営業、業務、監事室、会計と色々ある。歌舞伎公演始まったら、イヤホンガイド、番頭席、長唄、義太夫、義太夫三味線、頭取、衣装、床山、大向こう等まだまだ沢山あるからな」

「うへえ、大変や」

「そう大変や。けど一歩ずつ歩き始めたらええんや」

「一歩ずつね」

「そうや。焦る事はない。一歩ずつ着実に歌舞伎の山を登ったらええんや」

夏美にとって、歌舞伎山は、今日まさに、突然目の前に現出した。

頂上を見ようとしたが、霞がかかって見えなかった。

まさに遥か先のものだった。

あそこまで一人で登れるのか、一抹の不安があった。

「夏美が滑落せんように、今日からお爺ちゃんや、今日紹介した皆がサポートしてくれるから心配せんでもええから」

「はい」

こっくりと夏美は、大きくうなづいた。


    ( 2 )


歌舞伎の稽古に、「舞台にて総ざらい」なるものがある。

これは、通し稽古(ゲネプロ)の一つ手前のもので、ほぼ通し稽古なのだが、役者はかつら、衣装は身に着けず、稽古着の浴衣で臨む。

この日、夏美と龍太郎は、鳥屋口である役者を待っていた。

有田鯨蔵(有田屋)である。

今、歌舞伎界で一番の人気役者である。

毎日百回は、更新するブログは、先月から英語バージョンをアップし出してから、毎日世界から一億回の「いいね」、プレビューがある。

鯨蔵は、弟子の蛸蔵、鮫蔵、海豚(いるか)の三人を従えて奥のロビーに通じる観音扉を開けて入って来た。

公演が始まると、原則閉まっているが、役者が早替わりなので、ロビー通過から花道出する時は、開けられる。

「有田屋、お早うございます」

龍太郎が、深々とお辞儀した。

「ウイース!」

鯨蔵は、スマホ片手に、高速打ちしながら返事した。

鮫蔵が素早く折りたたみ椅子を広げた。

鯨蔵はすぐに座る。

海豚が背後に素早く回り、鯨蔵の肩を揉み出す。

次に蛸蔵が、手元に岡持ちを差し出す。

岡持ちとは、出前の岡持ちを随分小さくしたもので、長さ三十センチ、幅十五センチの大きさである。

その中に、手鏡、化粧道具、お茶、水ペットボトル、のど飴、台本、ティッシュケース、汗拭き、そして鯨蔵には、スマホの充電器がある。

この岡持ちは、特製で京都タツミ舞台の佐々本が作ったものである。

もちろん、有田屋の替え紋のクジラが、潮を吹く絵も特製で岡持ちに彫り込んである。

鯨蔵が、以前この岡持ちをスマホで写真に撮り、ブログにアップしたので、大反響を呼び、佐々本に注文が殺到していた。

佐々本は、大道具の仕事は、今一だったが、手先が器用で、役者の岡持ち、手製バッグ、トートバッグ、ベルト通し付きの様々な小袋入れ、財布、小銭入れなどを作っていた。

暇を見つけては、楽屋に出向き、営業をかけていたし、役者が使う東側のエレベーター前には、陳列ケースを自前で作り、様々なアイテムを飾っていた。

タツミ舞台からの給料よりも、これらの報酬の方が多かった。

多い時は、一か月百万円は稼いでいた。

注文した役者、長唄、義太夫三味線連中は、価格とそれ以上の祝儀を佐々本に渡していた。だから稼ぎが多いのだ。

佐々本は、京都南座で働いていたので、東京へは行けない。

しかし、「京都」「南座」、この二つのブランドが、佐々本の作る商品に付加価値をつけて、東京歌舞伎座を中心に東京中に広まっていた。

それに何より、鯨蔵のブログで紹介されたのが大きかった。

三人の息のあった連携プレイを夏美はぽかんと口を開けて見ていた。

(本当にこんな世界があるんだ)

「若旦那、揚げ幕係の新人さんを紹介したいと思います」

「新人?」

ここで初めて鯨蔵は、顔を上げて夏美と龍太郎を見た。

「田上夏美です」

夏美の声は、少し擦れていた。昨日からこの言葉を何回云ったか。

「田上・・・」

「ええ、うちの孫です」

「じゃあ龍太郎さんはどうするの」

「もう引退、隠居ですわあ」

「えっ、やめちゃうの」

「はい」

「本当にやめちゃうの」

「やめます」

「そうかあ」

ここで鯨蔵は、背後で肩を揉んでいた海豚に向かって、

「おい、海の豚野郎」

とつぶやいた。

「はい」

「はいじゃないよ。早く出せよ」

鯨蔵の突然の要求に、海豚が、うろたえていると、

「若旦那、これですね」

鮫蔵が、懐からポチ袋を差し出した。

「そう。全く海の豚野郎は気が回らないんだから」

「すみません」

鮫蔵は、にやりとして海豚を見下した。

「田上さん、ご苦労様でした」

鯨蔵は、立ち上がり深々とお辞儀して差し出した。

「いやあ、こんなん貰ったらもう」

「いいから取っておいて」

「すんまへん、有難く頂戴します」

「夏美ちゃん、ちょっとこっち向いて」

鯨蔵がスマホを向ける。

「顔出しOKだよね」

「いや、私、そうのう」

と口ごもってる間に、写真を撮り、鯨蔵は、高速打ちして早速ブログを更新した。

「南座に、新人の揚げ幕係さん参上!かなり可愛いです!(笑)」

の一文と共に、夏美の黒子姿の写真がアップされた。

こうして、夏美が南座で、揚げ幕係をしているのが、全世界に広まった。

「夏美ちゃん、紹介しとくね、こちらが鮫蔵さん、こっちが蛸蔵さん。以上です」

背後から海豚が、

「あのう」

少し遠慮がちに声をかけて来た。

「何だ、びっくりした。お前いたのか」

大げさに鯨蔵は、振り返り答えた。

「ずっといましたよ」

「こいつは海豚」

「海豚です」

「夏美ちゃん、イルカって漢字でどう書くか知ってる?」

「いえ、知りません」

「海の豚と書くの」

「ああ、それでさっきから海の豚野郎って云ってはったんですね」

夏美は得心した。海豚のお腹は、双子が二組入るぐらいはちきれていた。

海豚が夏美を見た。

「すみません」

「イルカって思い出せなくても、海の豚って呼んでもいいから。ご覧の通り、丸々と肥ってますから」

鯨蔵は、海豚のお腹をぺしっと叩いた。

「痛っ!」

大げさに海豚は、顔をしかめた。

「お前、また太ったなあ。腹出過ぎだろうが」

鯨蔵は、太った人間が大嫌いのはずだが、いじる材料が欲しいのか、海豚を弟子につかせていた。

「わかりました!海の豚さん」

海豚が恨めしそうに、夏美を見た。

「面白い!夏美ちゃん」

舞台総ざらい稽古が始まった。

鯨蔵が花道から登場する。

「はい」

鯨蔵が笑いながら、夏美に切っ掛けを云った。

夏美は緊張しながら、揚げ幕を横に引っ張る。

「チャリン!」

揚げ幕の上部に、丸い輪が八か所あり、細いパイプに入っている。

手元に引くと、軽快な音が鳥屋口と場内に押し出した。

鯨蔵が出て行く。


歌舞伎の稽古には、昼休憩はない。各自がそれぞれ舞台進行を見ながら合間に、食事をとる。

夏美と龍太郎は、コンビニ弁当を西側ロビーで食べていた。

「有田屋さんも変わったなあ」

感慨深げに龍太郎がつぶやいた。

「何が変わったん」

「昔はあの鯨蔵は、若いくせに横柄な所があってな・・・」

龍太郎の昔話が始まった。

鯨蔵が南座に出ると決まった時から、憂鬱のどんよりとした雲が、こころを侵食した。

と云うのも、鯨蔵は花道の出の切っ掛けを云う時と、云わない時があった。

おまけに、云う時も、切っ掛けは、「口笛を吹く」だった。

「それも聞き取りにくいやつやあ」

擦れる時もあり、時々聞き漏らす時があった。

「じじい!早く開けろよ。語り(義太夫)か、音色(義太夫三味線)覚えろよ」

一言、捨て台詞を吐いて出て行く。

「反対に切っ掛け、云わない時は、どうしてたん」

「さあそれやがな。こっちが切っ掛けで開けるとなあ、きっと大きな目開いて、睨んでやがるのよ。それで、勝手に開けるなと云いやがって」

「逆切れってやつ。最低。で鯨蔵はそれまで何をやってたん」

「スマホや。自分のブログの更新やっとった」

鯨蔵は、直前までやって、出る時は、弟子にスマホを預けるのだ。

「で、鯨蔵はいつ、あんな風に穏やかに変わったんですか」

「やっぱり祇園事件からやな。夏美、祇園事件って知ってるか」

「うん知ってる。祇園のクラブで、鯨蔵がぼこぼこに殴られたんでしょう」

「そうやがな。年末の南座の顔見世の出演も決まってたし、まねき看板も掲げられてたんや」

毎年、京都の冬の風物詩としても名高い、顔見世。

南座の表玄関の上部に、勘亭流で書かれた出演する歌舞伎役者のまねき看板が掲げられる。

喧嘩で重傷を負った鯨蔵は、顔見世出演取りやめ。さらに謹慎処分として半年間、歌舞伎公演への出演が取りやめになった。

「人生って不思議なもんで、有頂天になってる時に、必ずそう云う事件が起きる」

「そうなんやねえ」

「夏美もこれから大変やけども、頑張りや」

龍太郎は、そう云いながらさっき鯨蔵から貰ったポチ袋を開けようとした。

袋の裏に「一」と書かれていた。だから一万円だと思った。しかし、それにしては、いやに分厚い。

中から一万円札が複数出て来た。数えると十枚。

「うへっ、あいつ十万円もくれよった」

「これまでのお詫びを含めてでしょう」

「そうやなあ」

夏美と龍太郎は、顔を見合わせて笑った。

西側ロビーには、「番頭席」がある。ここは、各役者の番頭が座る。

御贔屓筋は、ここで切符を貰う。

二階から女性が下りて来た。

「あっ丁度よかった」

龍太郎は、そう云って立ち上がった。

「田上さんお早うございます」

この世界は、昼間、夜に会っても「お早うございます」なのだ。

「紹介しとく。こっちが揚げ幕の新人さんや」

「田上夏美です。よろしくお願いいたします」

「有田屋の番頭の野田悦子です」

悦子は名刺を渡した。

「田上さんって」

「わしの孫や」

「じゃあ田上さんは」

「わしはもう引退です」

「夏美さんが二代目なんですね」

「そうや。二代目や。何やったら襲名披露やりましょか」

悦子は笑った。

「揚げ幕の女子って珍しいですねえ。東京にもいませんよ」

「京都は、古い街やけども、新しいもんもすぐに取り入れる街でして」

「そうですね。昔は番頭は皆、おじさんばかりでした。当時は私もすごく奇異な視線で見られました。同じ女性として応援します」

また一人、夏美の応援団が増えた瞬間だった。


     ( 3 )


南座の一日の朝の始まりは、各セクションでの掃除とチェックから始まる。

案内は、客席の座席の乾いたハンドモップかけ、大道具は舞台を掃除する。

夏美は、花道をカラ拭きする。もちろん土足厳禁である。

今月は歌舞伎公演なので、イヤホンガイドの人が、イヤホンを耳にはめながら、子機を持って場内をくまなく歩き、きちんと放送が入るかチェックしていた。

舞台では、照明が、全ての明かりがついているか、また客電の球切れもチェックしていた。

花道の端にあるライトの入り切りは、照明の調光室が担当していた。

昔、大阪道頓堀中座では、揚げ幕係が壁にあるスライドスイッチでやっていた。

つまり、揚げ幕を開閉しながら同時にスイッチの入り切りをしていたから、難しい。

夏美は、朝のこの時間帯は揚げ幕開閉の練習時間でもある。

揚げ幕を何度も引っ張る。

「チャリン」

と音がする。

この音と同時に花道のライトも同時につく。

調光室から、直接揚げ幕の開閉を見る事は出来ない。

モニターテレビが設置されているので、それを見るか、切っ掛けが決まっているので、それでライトをつけている。

公演が始まって数日後、鯨蔵が、長男勇人を連れて来た。

来年小学校に入る。まだ幼稚園児だ。

鯨蔵は、よく劇場に連れて来る。

勇人は二年前、歌舞伎デビューしている。

常日頃、歌舞伎の世界を肌で感じさせるための、歌舞伎英才教育と云えた。

鯨蔵が花道から出る時も、鳥屋口までついて来る。

勇人のお相手は、海豚であり、蛸蔵だった。

鮫蔵は、苦虫を食い潰したような顔で接するので、相手にされない。

「おい海の豚野郎、こっちだ」

父親の鯨蔵の口調を真似して、馬乗りになって来る。足で蹴って来る。

出る直前まで、うるさい。

「静かにね」

夏美が云っても全然云う事を効かない。

「勇人、静かに」

鯨蔵が云う。少しは口を閉ざして黙る。

しかし、一分後には、海豚の背中に乗っている。

「すみません」

海豚は、大汗をかいて、四つん這いのまま、ひたすら夏美に謝っている。

「いいんじゃないの。大汗かいて少しは海豚くんも、痩せるでしょう」

早速鯨蔵は、スマホを取り出して、写真に撮り、ブログにアップした。

「イルカに乗った少年です!(笑)」

「昭和懐メロ歌謡曲の題名!わからない人は、ユーチューブで検索!」

昼の部、鯨蔵は「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」で、助六の役を務めていた。

歌舞伎十八番の演目の一つで、有名な歌舞伎の出し物である。

舞台総ざらい稽古では、浴衣姿だが、本番では、頭に紫色の鉢巻き、黒の着流し、緋色の襦袢、腰には脇差、印籠、何故か尺八をさしていた。

鮫蔵が、出る直前まで、鯨蔵の持ち道具の紺の蛇の目傘を持っていた。

出る直前まで、鯨蔵は、息子の勇人とじゃれ合う。

その時、股から真っ赤なふんどしが、ちらっと見える。

夏美は、そのちらっふんどしを見て、一人興奮した。

こうしてまじかで、助六に扮した鯨蔵を見ていると、本当にこの人は、江戸時代からタイムスリップして来たのかと錯覚させる、説得力、存在感が半端じゃない。

女性観客が、熱を上げて応援する気持ちがよくわかった。

現代のどんなイケメンが束になっても、とても到達、太刀打ち出来ない、幾重にも折り重なったオーラが、身体全体からにじみ出て、発光していた。

これに、何とも言えない、舞台化粧のいい匂いが、狭い揚げ幕の中にたち込めて、夏美の鼻孔をくすぐり、高揚させた。

夏美は、右手で揚げ幕の右端を持つ。左手は、反対側から開かないように抑える。

顏は、揚げ幕の真ん中の切れ目を見る事もあれば、役者の顔を見る事もある。

花道を出る切っ掛けは、役者によって違う。

一拍間を置く役者、拍手の始まりで出る役者、拍手の波が収まった後に出る役者。

出る切っ掛けを云わない役者は弟子や付き人にお任せの人もいれば、夏美に丸投げの役者もいる。

切っ掛けを云う役者は、大体が、

「はい」

と云う。

数年前の鯨蔵のように、口笛を吹く役者は珍しい。

口笛を吹く方が、面倒くさい気がするが、こればかりは本人の性格でもある。

基本的に揚げ幕は、

「チャリン」

と音を立てる。

これは、前の舞台を見ている観客を花道から出る役者に気付かせる役目を担っている。

しかし狂言(演目)によっては、全く音を立てずに静かに登場するものもある。

そのため、ライトも花道の端にあるものも、点灯せずに、上手フロントからの、サイドフォローもしない。

そーと音もなく出る。

花道際の観客の中には、余りにも突然の登場に悲鳴を上げる人もいる。

その悲鳴を聞いて、他の観客は失笑する。

花道を出て行く父、鯨蔵を見送る勇人。

「バイバイ。行ってらっしゃい」

まるで自宅の玄関先で、取り交わされる光景である。

夏美も思わず口がほころぶ。

小さな手で降る勇人が愛らしいのか、鯨蔵の顔にも笑みがこぼれる。

役者の花道の出の前にこんな親子劇があるなんて、誰も想像しないだろう。

それを生で見られるのは、揚げ幕係の特権である。

夏美自身、揚げ幕係の仕事を始める前なら、きっと同じように思いもしなかっただろう。

次の支度に備えて海豚、蛸蔵、鮫蔵が慌ただしく降りて行った。

勇人は残った。

「もっと見たい。あの隙間から見せて」

勇人は、揚げ幕の真ん中の切れ目を指さした。

東京歌舞伎座でも同じ事をしているのだろう。

勇人は、揚げ幕の切れ目の存在を知っていた。

弟子三人がいなくなったので、夏美が抱っこして切れ目に目が行くようにした。

「どう見えた」

「見える、凄くが見える」

「それはよかったねえ」

「この幕が欲しい」

「これを持って帰ってどうするの」

「家でお父さんと揚げ幕、花道ごっこ出来るから」

「でもこの幕は、南座のもので、持って帰れないよ」

「でも欲しい」

「困ったなあ」

「じゃあ作ればいいじゃん」

「無理よ」

「作ってよ」

花道七三で立ち止まった鯨蔵には、多くの拍手が巻き起こる。

「有田屋!」

「待ってました!」

「日本一!」

盛んに大向こうがかかった。

拍手の波は、打ち寄せては、引いてまた打ち寄せる。場内の隅々にまで浸透して行く。

その拍手の波に、大向こうの声が覆いかぶさる。

舞台中央に、大きな桜の樹木。その周りに、五本のぼんぼりがある。

中には、#31の色に巻かれた40Wのシリカ球がある。

照明プランナーの笠置は、30W、40W、20W、40W、30Wと五回変更して、6回目に40Wにまたまた変更した。その度に照明ステージ係は右往左往する。

そんな相手の苦労さなんか、何とも思わない気性は、鯨蔵と酷似していた。

笠置が、鯨蔵を崇拝して同じ坊主頭なのは、こころのどこかで、相通じるものがあるからなのだろう。

舞台中央奥、上手下手と前面に吉原の花街(かがい)の華やかな店の情景が描かれたバックがある。

バックには、上、真ん中、下段の三段に七二八個の赤い提灯の絵が描かれている。

その一つ一つの提灯の後ろに、寸丸球が仕込まれて、明かりを放っている。

照明係が、徹夜で仕込んだ労作だが、そこまで気づく観客も演劇評論家も誰一人いない。

しかし、照明に限らず歌舞伎とは、そう云う誰も気づかない細部にまで、こだわったものの集大成とも云えた。

「お父さん、恰好いい」

「うん、恰好いいねえ」

やがて鯨蔵は、本舞台入りした。

夏美は抱っこをやめて、降ろした。

「お姉さん、有難う」

「よかったねえ。幼稚園では何が好きなの」

「かくれんぼ」

「どっち。鬼?隠れる方」

「隠れる方」

「そうなの」

「僕、隠れるの得意なんだよ」

「どう得意なの」

「皆が見落とす所に隠れる」

「例えば、どこなの」

「皆が普段見てるところに隠れる」

「そうかあ、奥まった所には、隠れないんだ」

「そうだよ」

もっと話したかったが、ここで蛸蔵が呼びに来た。

「坊ちゃん」

「はーい。お姉ちゃんまたねえ」

勇人ともう少し話がしたかった。

事件は、それから数日後に起きた。

昼一回公演だった。

例によって勇人は、楽屋で走り回っていたらしい。

機嫌が悪かった鯨蔵が、

「かくれんぼう、しよう」

と云い出した。

「どっちが鬼なの」

「お父さんが鬼になる。だから勇人は隠れておいで」

「はーい」

「南座の外に出たら駄目だぞ」

「南座の中でね」

「そう、中でだ」

それが勇人を見た最後だった。

昼の部の最後の芝居が始まる。

出番を済ませた鯨蔵が、

「おい勇人は」

と云い出した。そこで三人の弟子、鮫蔵、蛸蔵、海豚が探し始めた。

楽屋、舞台、揚げ幕、どこにもいない。

鯨蔵から、監事室を通して大道具、照明、舞台操作盤、音響、案内などの各部署へ捜索願の連絡が回った。

終演後、本来なら舞台を回すが、万が一奈落周りに隠れていたら、大変危険なので急遽取りやめになった。

各部署は、それぞれの管轄を探して、対策本部のある事務所に報告しに行った。

南座の藤川支配人は、管理に云って、南座の二つの出入り口である楽屋、地下事務所の防犯カメラを解析した。

やはり勇人は、外に出ていなかった。


       ( 4 )


大道具の棟梁、「若頭」こと、沢田がひょっこりと隣りの照明控室に顔を出した。

丁度、夏美もここにいた。

調光室担当の岩倉椿は、自家製の弁当を食べていた。

「おい、正直に云え。お前が勇人くんを隠したんやろう」

開口一番、パソコンに向かっていた照明課長の笠置に云った。

笠置は、夏美が南座初出勤の時に、自転車で追い抜きざま暴言を吐いた男だ。

「隠してませんよ」

口を半開きにして笠置は、引きつった笑いをした。

何故か笠置は、沢田に弱い。

「正直に出せ。今なら許す。なあ」

沢田は、夏美の方を見て笑った。

「夏美ちゃんの自転車に向かって悪さした奴や。今度の事件の犯人もお前や。お前に違いない。正直に白状せいや」

「違いますよ」

「今なら黙っといてやる。缶ビール三ケースで許したる」

と云って沢田は大笑いした。

沢田が云い切ると、本当に笠置がやったように夏美は思えて来た。

「犯行動機は、何ですか」

素朴に夏美は聞いた。

「この男は、稽古で鯨蔵にいじめられたやろ。夏美ちゃんも見てたやろ。その腹いせに本人に復讐せんと、か弱い息子にやりよった。弱いいじめの、かっさん(笠置)やからな!」

夏美は、沢田が口にした、舞台稽古を思い出していた。

歌舞伎芝居「鳥辺山心中」大詰の舞台稽古。

場面は、京都鴨川の四条河原。

ここで、宴席でささいな事から、二人の侍が決闘する。

台詞で、月が雲の切れ間から出たり入ったりするので、月そのものは、バッグの背景画には描かず、Bマックスと呼ばれる特殊な照明器具で、背景画に丸い月を投影する。

鯨蔵が、大詰の稽古の前にこの月を見た。

前日の道具調べの時は見ていなかった。

「照明さん、この月だけど・・・」

鯨蔵が、背景画に映る月を指さした。

「やっぱり一つは寂しいですよね、増やします」

客席にいた照明プランナーの笠置が走って舞台に上がり、先走ってそう云った。

「調光さん、もう一つの月出して」

本番中の球切れを心配して、予備にもう一つ「月」を仕込んでいたのだ。

「笠置さん、本当に出すんですか。月は普通一つでしょう」

調光室の岩倉椿の金切り声が、笠置の持つハンドレシーバーから漏れ聞こえた。

「何でもええから、早よ出せや」

「有田屋に怒られても、知りませんから」

パンと調光卓のボタンを叩きつける音がした。

背景画に二つの月がくっきりと浮かんだ。

「月が・・・二つ・・・」

さすがの鯨蔵も絶句した。

「これでどうですかねえ。何ならあと二つぐらい増やしましょか」

追い打ちをかけるかのような笠置の言葉は、怒りの導火線に火をつけた格好となった。

「笠置!てめえ、俺を馬鹿にしてるのか!月が二つなわけねえだろうが。お前馬鹿か!死ね!この野郎」

怒りの余り、鯨蔵の口、身体が震えていた。


「そんな勇人君をいじめてなんかしてませんよ」

「いいやお前ならやりかねん。夏美ちゃんといい、勇人くんといい、弱い奴ばっかし狙っとる。最低な男や。ギャハハハ」

沢田の豪放磊落な笑いに、つい夏美もつられて思わず笑ってしまった。

「勇人君は、将来の鯨蔵、岩寿郎になる有田屋の御曹司や」

「そうですねえ」

「お前とこの照明チームは、管轄探したんかい」

「探しました」

「探しました云うても、部下に云うだけでおのれは、動かんとパソコンに向かってモーハン(モンスターハンター)ゲームしとったんやろう。ギャハハハ」

「それは沢田さんでしょう」

「そうや。何で知ってるんや」

照明捜索管轄のエリアは、南座に点在している。

舞台、上手・下手フロント、シーリング、調光室、センタースポット室、地下倉庫、機関室倉庫、破風倉庫、屋上上手・下手ギャラリー、屋上倉庫などである。

「沢田さんとこも大変ですね」

「俺とこか。皆一生懸命やっとる。一人だけ除いて」

「誰ですか、一人て」

「わかるやろう、南座で鞄、岡持ち、革製品販売の佐々本や」

佐々本は、エレベーター前で一人ミシン作業していた。

勇人にプレゼントする物を作っていた。

それが何か決して云わない。


~各部署の捜索範囲~

大道具・・・舞台、吊り物を収納しているスノコ、奈落

小道具・・・小道具部屋

舞台操作盤・・舞台、スッポン(花道のセリ)乗り込み口、奈落

揚げ幕・・・鳥屋口、スッポン周囲、拵え場(こしらえば)

楽屋口係・・・地下、三階、四階全ての楽屋、屋上、お社周囲

案内係・・・客席(一階、二階、三階)、ロビー、女子更衣室

清掃係・・・地下、客席の全てのトイレ

切符売り場・・切符売り場

事務所・・・事務所、応接間、金庫、貴賓室(一階から二階への階段の踊り場)

監事室・・・舞台回り全般

管理・・・機関室、屋上

音響・・・音響室

頭取・・・頭取部屋

警備員・・・警備室

各テナント・・・各店内、厨房、冷蔵庫・保管庫の中


各部署は、それぞれのエリアを捜索。その結果を事務所の「勇人捜索対策本部」の本部長を務める藤川支配人に報告した。

藤川支配人は、何故か消防訓練の時のように、一人だけヘルメットをかぶっていた。

各部報告を受けると、机いっぱいに広げた南座平面図に、捜索した個所を赤マジックで斜線を引いていく。

事務所に各セクションの代表者が招集された。

「お忙しいところ、申し訳ありません」

まず「勇人捜索」対策本部長の藤川支配人が簡単に挨拶して、会議が始まった。

「これで全てのエリアを捜索しましたが、まだ勇人君は見つかってません。他にどこか探し漏れの個所、また何かご意見ございましたら、ご自由にどうぞ」

皆、下を向いたままだった。

「あのうちょっといいですか」

遠慮がちに夏美が手を上げた。

「はい、田上夏美さんどうぞ」

「勇人君、かくれんぼが得意と云ってました」

そこで、揚げ幕で交わした会話を再現した。

「つまり、奥まったところではなくて、よく目につく所ですね」

「そうです」

「具体的にどこですか」

皆の視線が夏美に集中した。

「例えば・・・正面玄関横の可動式受付台の中とか」

南座には、正面玄関入ってすぐの所に、開演してから案内係が座る可動式の受付台がある。幅一メートル、奥行き五十センチばかしのキャスター付きの台だ。

終演後、扉を全開放する時は、動かして隅に収納するのだ。

「案内チーフの藤森理香さん、そこは探しましたか」

「いえ、探してません」

「今すぐ、見て来て下さい」

「はい」

理香は出て行った。しかし、すぐに戻って来た。

「見つかりませんでした」

深いため息が、会議室を覆い、空気がさらに重くなる。

同じ頃、女番頭の野田悦子も大捜索に参加していた。

探しながら、

(もし万一、勇人に何かあっても有田屋には、もう一人の御曹司がいる)と思った。

祇園お茶屋「ときわ」の常盤理恵との間に生まれた慎太郎である。

勇人がいなくなれば、否が応でも慎太郎がさらに注目されるだろう。

(駄目駄目!こんな事考えては駄目)

顔を左右に激しく振って、ロビーを駈け抜けた。

勇人失踪の第一報を受けて、義太夫三味線の矢澤竹也は、自分の楽屋にあるスーツケースを開けていた。

「師匠、どうしたんですか」

弟子の矢澤梅子が、楽屋の暖簾越しに聞いた。

「有田屋の勇人坊ちゃんが失踪したから、探しているんや」

「そんな小さなスーツケースの中に隠れたりしないでしょう」

「わからんでえ、相手はまだ幼稚園児。子供はこう云う小さい所に隠れたりするもんなんや」

「そんな犬みたいな事しますかあ」

「します。ワンワン」

竹也は、吠えた。

「阿保くさ」

梅子はつぶやいた。

「ほんまにどこ行ったんやろう。師匠わかりますか」

「わかりません」

と云いながら、義太夫三味線を取り出した。

「梅子」

「はい何でしょうか」

「今思いついた!」

「何がですか」

梅子は、そう云いながら竹也の前に座った。

「勇人くんの一日も早い発見を祈願して、お贈ります」

「ひょっとして、新作浄瑠璃ですか」

ぱっと梅子の顔に、赤みがさし、嬉しさに輝いた。

竹也は無言でうなづき、義太夫三味線を弾き始めた。

いつもの重低音の三味線の音色が、竹也のいる楽屋から、さらに誰もいない廊下、他の楽屋へと、ひたひたとゆっくりと漂い、しっとりと憂いを込めてまとわりついた。

竹也は、義太夫三味線を弾きながら、この音色を聞いて、出て来て欲しいと願った。


~~♬ 創作浄瑠璃 「勇人君失踪の段」♬ (矢澤竹也 作)~~


どこだどこだよ 勇人君

どこだどこだよ 見つけたか

皆が血まなこ  南座で

捜し求めて   時が過ぎ

焦る気持ちが  芽生えても

こころ豊かに  突き進む

皆の衆よ    まかせたぜ

勢い込むは   父鯨蔵

「おい、見つかったか」

「いえ、残念ながらまだでございます」

「ええい、どいつもこいつも目が節穴か」

「もう少しお待ちくだされ。必ずや見つけいたします」

「さっきからのその台詞。もう聞き飽きたわい」

鯨蔵やおら   立ち上がる

「若旦那様、どこへお行きなさいますか」

「居ても立っても居られぬ。俺も捜索に参加するのじゃ。ついてまいれ」

「はははあ」

部下従え    進み出す

はやるこころに 不安増し

今宵は徹夜   覚悟して

もし見つけたら 両手で

抱きしめたいな 力づく

勇人勇人よ   どこ消えた

親の思いは   永遠(とわ)つづく


即興で、創作浄瑠璃「勇人君失踪の段」を義太夫三味線で弾く竹也だった。

「師匠、最高です!」

梅子は、一人興奮して手を叩いた。

「師匠、今度の町家ライブ、この外題(げだい)で行きましょう」

「行けるかな」

にやっと笑い、満更でもない様子の竹也だった。

「行けますとも」

「梅子、時々思うんだけども」

「何がですか」

「私って天才かなあ」

「はい、もちろん。あっ、でもさっきの「勇人君失踪の段」の創作浄瑠璃、一つ欠点があります」

「何や」

「創作浄瑠璃の物語としては、ここはやはり、勇人君が、結局最後はどこに隠れてて見つかったか、それを語らないと」

「それもそうやなあ。目出度し、目出度しにならんもんな。私らも本気出して捜そうか」

「はい、わかりました」

梅子は、満面、笑みを浮かべて答えた。


南座劇場二階にある音響室にいた新川真由子は、探し物の手を休めた。

「あっ誰か楽屋で、三味線弾いてる」

しばらく、突っ立っていた。

「あの音色は、長唄三味線と違うなあ」

劇場二階と、楽屋四階はかなり離れている。

通常の人間には決して聞こえない。でも聴覚が、他人よりも何十倍もよい真由子は、それが感知出来た。

「あれは義太夫三味線やなあ。矢澤竹也師匠、この非常事態に呑気に三味線なんか弾きくさりやがって、もう!」

例によってぶつくさ独り言の神様が、真由子に降臨した。

「昼一回で、早よ帰れると思っていたのに、あの勇人ガキめ。くだらんかくれんぼせんと、出て来い。もう仕事が立て込んでいる時に。こっちの方がかくれんぼしたいわい」

念のために、うずくまって下を覗く。

誰もいなかった。

その代わりに動きの鈍いゴキブリがいた。

真由子は無言で、手のひらで、パーンと叩いて処理した。

さすがに耳がよい真由子だったが、勇人の声はこの場からは聞こえなかった。

「少なくとも、この二階、一階にはいません。断言します!」

頭取の鴨田も捜索に参加していた。

鴨田は、頭取部屋の冷蔵庫の中も見た。あと隠れる場所はない。

自主的に、つけ打ちの尾崎や福岡も捜索に参加していた。

この日、たまたまつけ打ち評論家の小林伸子もつけ打ちの地下の楽屋にいた。

地下のつけ打ち部屋を捜索。でも見つからなかった。

「見つかりませんね」

福岡がつぶやいた。

「見つからない」

同じように尾崎もつぶやく。

「そもそも、本当に南座の中なんですか」

福岡が疑惑の眼差しで二人を見た。

「出入口二か所の防犯カメラ巻き戻したら、勇人君の姿は映ってなかったらしいよ」

「根拠の薄い論理ですね」

「じゃあ、どういう推理」

伸子は姿勢を正して聞いた。

「何らかの方法で外に出て、勇人君はさっさとホテルに帰った」

「ブー。すでにホテルも捜したけどいなかったです。これ頭取さん情報です」

「それに、そもそも有田屋は、南座の中でかくれんぼしようと云ったらしいよ」

ジュラルミンケースからつけ板とつけ析を取り出すと、尾崎はつけ打ちの部屋の畳の部屋でつけ打ちを打ち出した。

このつけ音を聞いて、勇人君が出て来て欲しいとの、願いのつけ打ちでもあった。

畳の部屋で、つけ打ちの連打、打ち上げをやった。

つけ打ちの音が部屋に充満した。

その音はくすんだ、広がりのないものだった。

「やっぱり音が広がらないわねえ」

つけ打ちの音を代弁するかのように、伸子の声も曇っていた。

「音が畳に吸い込まれてますね」

畳の目を見ながら福岡が云った。

「わかった!」

伸子が声を張り上げた。

「何がわかったんですか」

尾崎が伸子を見た。

「勇人君の居場所」

「どこですか」

「子供はねえ、大人が思いもつかない場所に潜り込むんです」

「で?」

尾崎と福岡は、伸子の次の言葉を待った。

「定式幕の中!」

「でもいなくなったのは、定式幕が開いている、芝居が始まってる時間ですよ」

「だから、開演中のその上手端の定式幕を丸めたところ」

「でも、芝居の終わりは、再び定式幕を閉めますから、幕のたまりはなくなりますよ」

冷静に尾崎は分析した。

「だから、途中まで別の場所に隠れてて、そこから定式幕の中に入って、再びどこかへ消えた」

「じゃあ今はいないじゃないですか」

「いえ、今は再び戻っているのよ」

「無理やり、盛り込みましたね」

尾崎は苦笑した。

「あっ今、尾崎さん笑った。じゃあ賭けようか」

伸子は挑む目つきで、尾崎を睨みつけた。

「賭けませんよ。私が賭けてるのは、このつけ打ちの仕事ですよ」

尾崎は、つけ析を両手に持った。

「よっ!尾崎屋、恰好いい」

福岡が掛け声かけた。

そして、

「タンタン、タンタン」

つけ音が、控室に響く。

「これは一大事。早く知らせないと」

「て云うか、そんなに定式幕にこだわるんなら自分で見て来たらいいじゃないですか」

「ついて来てよ」

「はいはい、わかりました」

三人は立ち上がった。

定式幕が留めてある、上手袖に行く。

伸子は、巻かれてある定式幕を下から、パタパタ端を掴んでやった。

空気は出て来たが、勇人は出て来なかった。

「伸子さん、賭けなくてよかったですね」

福岡が、にゅっと歯を見せて笑った。

「でも触ってみて、幕の中は温かった。さっきまで勇人君がいたのよ」

「今日はやけに、食い下がりますね」

「私達に気付いて、逃げ出したのよ」

伸子は負けじと、意地でも「定式幕説」を押し通そうとした。

「たんに、照明の明かりのせいだと思うんですけど」

どこまでも、冷静沈着に判断する尾崎だった。


もちろん、弟子の鮫蔵、蛸蔵、海豚も必死だった。

改めて屋上、楽屋、舞台を探し回った。しかし見つからなかった。


知らせを受けて、大向こうの小林耕三は、万が一の事を考えて南座横の鴨川の遊歩道を中心に勇人を捜していた。

防犯カメラを何らかの方法で、かいくぐって外に出たとしても幼稚園児の足だから南座近辺に違いない。それに、かくれんぼなのだから遠くへは行かない。そう確信した。

しかし、全て徒労に終わった。深いため息が出た。

「勇人お坊ちゃま!有田屋!」

鴨川に向かって大向こうした。

遊歩道に座ってるカップルが、一斉に振り向いて反応した。

しかし、鴨川からも、勇人からも反応はなかった。


再び事務所会議室。

「楽屋口番の前谷美代子さん、楽屋の部屋は全て探されたとか」

藤川支配人の乾いた声が、重く湿った会議室に突き刺さる。

藤川支配人は、一人だけヘルメットをかぶっての会議参加は、さすがに目立った。

実は誰にも云ってないが、防災ヘルメットをかぶるのが、藤川支配人の唯一の隠れた趣味だった。

年二回、実施される南座消防訓練は誰よりも一番張り切って防災ヘルメットをかぶる。

笑いをこらえるために、案内の藤森理香は終始うつむいていた。

「はい全部見ました」

「楽屋の冷蔵庫、洗濯機、乾燥機の中も見ましたか」

藤川支配人は、鋭い質問をした。

「いや、そこまでは」

「今すぐ、探して下さい」

「はい」

美代子は、慌ただしく出て行った。

「勇人君は、まだ六歳の小さな子供です。大人が入るのは無理でも小さなお子さんなら入れる、そんな所が、この南座にあるはずです。皆さんご足労ですがもう一度探して下さい」

「はい」

夏美だけ返事した。

他の者は、黙っていた。楽屋口番の帰りを待っていた。

美代子が走って戻って来た。

「藤川支配人、大変です!」

あの甲高い声が会議室に響いた。

「見つかりましたか!」

「四階の西側の408号室の!」

一同は立ち上がった。

「408号室ですね!」

幾分か顔が興奮の余り、紅潮する藤川支配人だった。

「408号室の冷蔵庫の中から」

「冷蔵庫の中から出て来たんですね!」

「風呂敷が出て来ました」

一同、ずっこけ、照明の笠置はこけて机の角で頭を打った。

その反動で、隣りにいた大道具の沢田は、肘を打った。

音響の真由子は、こけて畑下に覆いかぶさり、畑下は床に転んだ。

売り場の沢田華子は、しりもちをついた。

いつもは、どこまでも冷静なはずの案内の藤森理香までこけていた。

会議室将棋倒しだった。

恐るべし楽屋口番・前谷美代子の天然ボケ、勘違いだった。

「何故風呂敷なんでしょうかねえ」

片手でぶらぶらと、緑色の風呂敷を揺らしていた。

「美代子さん、その詮議は後にしましょう。今は勇人君を見つけて下さい」

一時解散となった。

今日は、勇人を見つけるまでは帰れない。

せっかくの昼一回公演で早く帰れると思っていたのに。

そんな思いをする者もいた。

(そんな奥まった所には、隠れないよ)

(普段、目にするところだよ)

鳥屋口で交わした勇人との会話を何度も夏美は、反すうしていた。

「でも皆でもう探したしなあ」

揚げ幕、鳥屋口に戻った。

ひと気のない舞台に鯨蔵が、一人立っていた。

「勇人!かくれんぼは、おしまいだ。お父さんの負けだよ。もう出ておいでよ」

誰もいない客席に向かって叫んでいた。

不謹慎だが、その叫びは夏美のこころの空洞に、何度も反射しながら交差した。

いいひとり芝居を見ているようだったからだ。

舞台の左右の奥で、蛸蔵、海豚、鮫蔵がうろついていた。

(どこだ、普段目にするところって)

夏美は何げなく、揚げ幕を見ていた。

数日前、必死で真ん中の切れ目から、花道を見ていた勇人の姿が脳裏を横断した。

(揚げ幕)

(切れ目)

(家に持って帰る)

(作ればいい)

夏美は勇人との会話を何回も頭の中で、再生を繰り返していた。

そして・・・

稲妻の光が、夏美の身体を突き抜ける。

次の瞬間、夏美は南座勤めをしてから初めて、場内を走った。走ってあの場所に向かっていた。

(おそらく、あの場所に違いない!)

(そして、その場所こそ勇人君がいる!)

南座地下の東側のエレベーター前まで来た。

佐々本が、まだ熱心にミシンを踏んでいた。

「まだ出来上がりませんか」

夏美の声にはっとして、目の前のものを身体を倒して隠した。

「夏美ちゃん」

「佐々本さん早くして下さい。もう皆さん待ってますから」

「待ってるって・・・」

「正確には、勇人君が一番待ってると思うんですけど」

「な、な、夏美ちゃん、俺が作ってるもん、わかったんか」

「はい。たぶん、私の推理であってると思います」

「何や云うてみいや」

「チャリン!揚げ幕のミニ版です。そして勇人君は佐々本さんの座ってる台の中」

その台は、中が空洞で丸見えである。しかし、佐々本がずっと座っていたので、足が邪魔して一見、見えないのだ。

佐々本は、勇人を隠すために、わざとミシン台から離れなかったのだ。

後でわかった事だが、勇人は云った。

「もし僕がここにいる事告げたら、揚げ幕ミニ版の話はなかった事にするから」

佐々本は、金欲しさに、その要求をのんだ。

夏美は、しゃがんで佐々本の座っていた台の中を覗いた。

「みいつけた!」

「お姉ちゃん、見つけるの遅いよ。僕じっと待っていたんだから」

「ごめんねえ」

夏美は云って、しっかりと勇人を抱きしめた。

「ああ、俺も抱きしめて欲しい」

二人のやり取りを見ていた佐々本は、つぶやいた。

夏美は黙って、佐々本の頭を叩いた。

勇人の顔に涙が浮かんだ。

無事に勇人は出て来た。

しかし、頑としてどこに隠れていたか白状しなかった。

夏美も黙っていた。佐々本を悪者にしたくなかったからだ。

鯨蔵は、そこまで追求しなかった。

翌日、佐々本は鯨蔵の楽屋を訪れた。

「坊ちゃんに、これ差し上げて下さい」

佐々本は、鯨蔵の手元に一枚の布を置いた。

鯨蔵は、それを広げた。

揚げ幕のミニ版だった。ちゃんと真ん中に切れ目が入っていた。

座紋は、竹松ではなくて、有田屋の紋である岩と鯨の絵柄も入っていた。

勇人が楽屋に入って来た。

「お兄ちゃん出来たの」

「うん、出来た。これ」

「わーい、やったあ!これで家で揚げ幕、花道ごっこ出来る」

「花道ごっこだって」

鯨蔵にはまだ理解出来ないようだ。

勇人は、ミニ揚げ幕を顔に当てる。

「お父さん、そこ歩いて」

云われるまま、鯨蔵は部屋の中を歩く。

「僕はここから覗く。これ揚げ幕」

「なるほどねえ。これいいねえ。よく出来てる、うちの紋も入ってるし。うちの事務所から売ろうかなあ」

早速、スマホに撮って、すぐに自分のブログにアップした。

「佐々本さん、色々と面倒かけたねえ」

佐々本に手間賃、祝儀合わせて五十万円払った。

途端に佐々本の顔がくしゃくしゃになった。

(新しい遊び!花道&揚げ幕ごっこ)

このブログも瞬く間に話題になった。


翌朝。照明控室にコーヒーカップを持って佐々本が入って来た。

「お湯下さい」

「はいどうぞ」

と笠置が云う。

そこへ夏美が入って来た。

「夏美ちゃん、もうちょっと待ってやあ。あと少しやから」

「はい」

「夏美に手を出したら、承知せんぞ」

背後でドスの効いた声がした。沢田だった。

「夏美に何を作っているんや」

「鞄を作って貰ってます」

佐々本の代わりに夏美が答えた。

「それはええけど、金取ったらあかんぞ」

沢田が、ぐいと佐々本を睨みつけた。

「ほんまに、揚げ幕ミニ版一つこさえて、鯨蔵から百万円もふんだくりよってからに」

「百万円違いますよ。五十万円です」

ぺろっと佐々本は、真実を吐露した。

「五十万!」

照明控室にいた笠置、岩倉椿、川口繁、夏美が同時に叫んだ。

「へえーへえー羨ましいなあ」

酒代などで、五百万円借金がある川口は、心底云った。

「佐々本さん、裏方女子に晩御飯とお酒ご馳走して下さいよ」

これは、岩倉椿の言葉だった。

その眼力に負けて、佐々本はすぐに照明控室を出た。

沢田は、次にパソコンに向かったままの笠置に近づいた。

「おい、月が二つ出てるおじさん、元気か」

「何をまた蒸し返して」

笠置は、くすっと半笑いした。

「お前が住んどる大津は、月が二つ出るんけ。俺とこの山科は一つやけどな」

「一つです」

笠置は小さく返事した。

「久し振りに、舞台稽古で笑わしてもろたで。笠置の七不思議のひとつやな。この前の五条橋が、真っ赤に染まったのも笑うたけどな」

「所作事の(五条橋)ですね。あの時、私は一応忠告したんですけどね」

笑いながら岩倉椿が答えた。

「なあ、椿ちゃんが、ちゃんと上司の事を思って忠告してたのに、お前はそれを土足で踏みにじった。ほんまに鬼みたいな奴や。椿ちゃん、ようこんな冷酷無残な仕打ちをする男の下で、率直に働いてるなあ。ほんまに椿ちゃんは偉い。それに引きかえ、この月二つ男は。おい、何とか云わんかい」

沢田は、ぐいっと笠置に顔を近づけた。

一日、数回沢田は、照明控室に来て笠置をいじる。これは日課にもなっていた。

「ええ、まあ緊張してたんです」

「緊張にもほどがある。なあ夏美ちゃん」

「はい」

「わしも長い事、大道具の仕事やっとるけど、歌舞伎で月が二つ出た場面見たんは初体験やったわあ。ギャハハハ」

「笠置さんは、緊張すると頭の回路がショートするんです」

岩倉椿は、ケラケラ甲高く笑いながら説明した。

「もうええ、ちゅうねん」

「ええ事ない。今日はとことん追求する!なあ夏美ちゃん」

「はい、喜んで!」


その夜、照明控室でささやかな宴が開かれた。

沢田が、焼き餃子、乾きもの、缶ビール、ジュースを差し入れた。

「お前も出せ」

と云われた笠置は、渋々、机の引き出しからビール券二十枚出した。

「仰山、ため込みやがって。そらあ大津に笠置御殿が建つはずじゃ」

「そんな事ないです」

「ほんまに夏美ちゃんの歓迎会や云うのになあ」

沢田は、夏美の方を見て笑った。

「有難うございます」

十五人も集まればいっぱいになる照明控室に、照明、大道具、小道具、舞台操作盤、音響の新川真由子が集まった。

「そしたら勇人君の無事発見と夏美ちゃんの入社歓迎を祝して乾杯!」

沢田の乾杯の音頭で始まった。

「で、結局勇人君はどこで見つかったんですか」

餃子を食べながら、岩倉椿は素朴な質問をした。

「さあどこでしょう。わしは知ってる。けど云わない。なあ夏美ちゃん」

「はい」

「えっ夏美ちゃんも知ってるの」

「はい。一応」

「おい、月二つのおじさんの笠置、お前云う事あるやろう」

早速沢田が、絡み出す。

「何がですか」

「お前、夏美ちゃんに暴言吐いてまだ謝ってないやろう」

「あっ忘れてました」

「ほんまにそう云う心構えやから、鯨蔵に月を二つにしましょかと云うんや」

「まだ云いますか。夏美さん、この前はどうもすみませんでした」

笠置は、立ち上がってぺこりと頭を下げた。

「いえ、もういいです」

夏美は慌てて返事をした。

「笠置の月二つ事件は、俺は云う。ずっと云う。お前が、竹松を退職するまでずっと云ってやる。ギャハハハ」

沢田がここまで云うと、再び豪快に笑った。

夏美は思った。

今回の事件の解決のヒントは、揚げ幕だった。

普段何気なく見ているものでも、気をつけて見るべきだと思った。

宴が終わり、南座の楽屋口を出た。

月が出ていた。

鴨川の川面は、月の光で所々反射して、光の模様を映し出していた。

風が微かに、吹いていた。

九月の風は、先月までの湿った重いものではなくて、どこか身体を軽やかにさせるものだった。

夏から秋への季節の入れ替わりを告げていた。

「おい、笠置、月は二つか」

沢田はそう云って、にやりとした。

「まだ云いますか、しつこいなあ」

笠置は呆れかえった。

夏美と笠置は、自転車で川端通りを下ろうとした。

「おい、月二つのおじさん、ちゃんと夏美ちゃんを送れよ」

「わかってます」

「口説いたら承知せん」

「しませんよ」

「いやわからん。月が二つ見える男やからな」

「沢田さん、今夜はとことん云いますね」

「どこまで帰るんですか」

夏美は聞いた。

「京都駅までです」

二人は自転車をこぎ出す。

夏美は、月を見ながら当分は、沢田の言葉と笠置の顔がセットで思い浮かぶだろうと思った。

でもそれは嫌な事ではなかった。

どちらかと云うと面白い。

ふとにやけた。

「あれっ」

何を勘違いしたのか、笠置もにやけた。

「月二つおじさん、行きますよ!」

夏美は立ち上がってこいで、加速した。

鴨川の夜風が、酔った少し火照る頬を通り抜けて気持ち良かった。

同時にこころの中に、新しい風が生まれた。

夏美の南座物語は、自ら大きく揚げ幕を開けて、スタートラインに立ったばかりだった。


     ( 終わり )





















































































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