第3話渡月橋(楽屋口番)「 北山杉 」
主題歌 ばんばひろふみ 「 北山杉 」
( 1 )
京都に長年住んでいながら、名所旧跡を訪れた事は少ない。
京都タワーもここ三十年登った事がない。京都タワーのマスコットキャラクター「たわわちゃん」が出迎えてくれる事は、新聞でしか知らない。
清水寺も金閣寺も銀閣寺も二十年訪れていない。
昨今の京都ブーム、インバウンド(訪日観光客)の大波が、年々大きくなって押し寄せる京都。
昔のあの静かな京都を知っている前谷美代子は、いつも苦々しく思っていた。本音は、
「もうこれ以上、来んといて!」
「あの静かな京都を返して」だ。
昔から何度か京都ブームはあった。
1970年代の「アンアン族」「ノンノン族」、数年前のJR東海のCM「そうだ京都、行こう」など。
でもそれは日本人だけのものだった。
今は日本人に加えて、その数倍多い外国人観光客が押し寄せる。
外国人の話す声は何であんなに、けたたましく大きいのか。
あの会話のトーン、ボリュームの大きさが、喧騒の渦を拡張し、幾重にも取り巻く要因にもなっていた。
今、美代子は三十数年ぶりに嵐山の渡月橋を歩いていた。
桜が開花したと思ったら、すぐに新緑の季節を迎える。
昔はもっと季節の移ろいがゆっくりだったと美代子は思う。
今は季節が数珠つなぎで、一瞬その季節の顔が見えるがすぐに、次の季節にとって代わる。日差しは日増しに強くなって来た。
しかし、まだ川面からの弱い風は湿気を含まず、柔らかな手で、美代子の髪を、頬を、首筋を撫で上げて通り過ぎて行く。
渡月橋の北側は、保津川である。亀岡から、ここ嵐山終点の保津川下りが有名であり、乗船する人の九割が中国人観光客である。
都会近くで、自然を満喫出来るのが好評であるようだ。
それと青空。日本なら当たり前だが、中国の都市部は酷いスモッグで青空を見られない。
中国の子供は、空を描く時、灰色のクレヨンを持つ。日本に来て青空を見て、
「あの青い布は、どうやってかけているの」
と親に聞く。
京都は不思議な街である。川の名前や地名が、場所によって変わると云う特異な性格を持つ。
保津川も渡月橋の手前で「大堰川(おおいがわ)」となり、渡月橋を境に南側は「桂川」となる。
北野天満宮のそばを流れる紙屋川は、北野天満宮を境に、天神川となる。
出町柳の賀茂川と高野川は、一つに合流すると、それ以降「鴨川」となる。
南座近くの「縄手通り」は、四条通りを境に、南側は「大和大路(やまとおおじ)」と名前を変える。
京都駅を縦断する堀川通と云う片道二車線の広い通りがある。
北から南へ走行して「京都駅」までは「堀川通」である。しかし京都駅の線路高架下をくぐり、南へ抜けると「油小路」となる。
まだカーナビが発達してない頃、他府県から来たドライバーは、
「えっ」
と驚く。一瞬にして違う通りに入ってしまったからだ。
これはガード下で微妙に曲がり隣りの通りに入ったのである。
長年京都に住んでる美代子にとってそれらの事は当たり前と思っていた。
しかし他府県の人から見ると、どうやらそれが不思議でしょうがないらしい。
「どうしてそうなるの」
と質問されても上手く答えられない。
住所にしても「正式住所」と「通称住所」の二つがある。
南座の「東山区四条大橋東詰」の住所は、通称住所である。
正式な住所は「東山区仲之町」であり、世間的には通称住所がまかり通っている。
社員が持つ名刺も新聞広告も全て「通称住所」である。
通称名は、住所、通り、川ばかりではない。
嵐山に乗り入れている「嵐電」がそうである。
嵐電は通称名で、正式名称は京福電鉄であるが、京都人は誰もそう呼ばない。
東京の人に、
「京福電鉄の乗り場はどこですか」
と聞かれて、
「京福電鉄?さあ知りまへんなあ。嵐電やったら知ってるけど」
と京都人が返答した笑い話がある。
表示も嵐電(京福電鉄)となっている。正式名称が( )扱いとなっている。
本当に不思議な街だ。
平日なのに、渡月橋の両側の歩道は、人、人でごった返している。
着物姿のカップル、団体が橋の途中で立ち止まり、嵐山と大堰川の川面を背景に写真を撮っていた。
日本人かと思ったら中国人、韓国人である。
日本人と違うところは、着物姿なのに、サングラスをかけたり、中には下駄をはかずに、靴のままの人がいる。
嵐山を訪れる観光客の八割が外国人である。人混みに紛れながら、美代子は先程訪れた法輪寺を思い出していた。
渡月橋の西詰の小高い山の上に建つ寺で、本尊は虚空蔵菩薩。
京都人にとってここは、「十三(じゅうさん)まいり」(三月十三日から約二か月間)で有名である。
数え年の十三歳(満十二歳)の時に、ここへ母親と叔母と三人で訪れた。
美代子が、小学校六年生の時だ。
ここへお参りした後、今歩いている渡月橋を渡る。
その時、後ろから叔母や母親が声を掛けても決して振り向いてはいけない。
そんなルールになっていた。
振り向くと、法輪寺で授かった知恵が台無しになってしまう云い伝えだった。
「ええか美代子、これからこの渡月橋今から渡って行きよし。途中でお母さんや叔母さんが後ろから声かけても絶対振り向いたらあかんええ」
母親がじっと美代子の目を見て云った。
「何で振り向いたらあかんの」
姉のお古の着物だったが、悉皆(しっかい)屋さんで綺麗に汚れを落として新品同様の着物を着せられて可愛かった。
「何でもそう。昔から京都では決まってるし」
美代子が何か質問すると、母親は、「昔から決まってる事」の決まり文句を云っていた。
京都では、その決まってる事が、あまりにも多すぎる。
食べ物、季節、風景、風習、祭、行事など多岐にわたる。
美代子が歩き出してすぐに、叔母が、
「美代子ちゃん」
猫なで声で自分を呼ぶ。美代子はむっと口をつぶり、スタスタ歩く。
「美代子、ちょっと待ちなはれ」
今度は母親が声を掛ける。それをも無視して歩き続ける。
渡月橋の真ん中ぐらいまで来た時だった。
「く、く、苦しい!美代子助けて!」
母親の苦しそうな声が、背中に突き刺さる。ここで美代子は立ち止まり、振り返ろうかと一瞬迷う。
「美代子ちゃん、大変お母さん倒れてる!」
さらに大きな叔母の声でついに振り向いてしまう。
「あーあ」
美代子の振り返った姿を見て母親と叔母は大きな落胆の声を上げた。
「あれ程振り向いたらあかんて云うてたのに」
「けどお母さん倒れてる云うて、振り向けへん子供ていてるか」
少しむっとして美代子は母親に小さな抗議をした。
「あんたのお姉ちゃんは、振り返らなかったええ」
「美代子ちゃんは、性格が優しいからなあ」
叔母は笑いながらかまってくれた。
「お姉ちゃんは、うちが苦しい死ぬうううって絶叫しても振り返らなかったええ」
母親は未練がましく、帰途の道すがら、何回も姉の事を引き合いに出して比較した。
銀閣寺近くの双ヶ丘(ならびがおか)の自宅に戻った。
母親から、美代子の渡月橋渡りが、失敗した事を聞いた、四つ上の姉の宏子は、
「あかんなあ、性格が優しいと云うより、約束が出来んかっただけ」
とばっさり厳しく云い捨てた。
姉の宏子は、法輪寺で授かった知恵をそのまま持ち続けたせいか、その後京都大学に現役合格。卒業後、東京の商社に勤めている。
一方の美代子は、京都の短大を卒業。今は亡き父親のつてで、竹松に入社。その後長らく京極の映画館で働いた。
映画館が閉鎖されると、京都南座の楽屋係に配属された。
南座の楽屋係りは、入り口の「楽屋口係」通称「口番」と、四階の「楽屋係」の二つに大別される。
四階はアルバイトに任せて、美代子は、もっぱら「楽屋口係」である。
ここは頭取との連絡、事務所からの通達、そして来訪者への対応など重要な職務がある。
楽屋への来訪者が、
「○○さんにお会いしたい」
と云ってもすぐには、楽屋に通さない。
以前そのまま通したら、とんでもないストーカーだったと云う話があった。
安全管理の上でも、名前を聞いて内線電話してお弟子さんか、本人に確認する。
「約束してます」
と云っても必ず確認する。
あの十三参りの時は、とてつもなく大きく広く長く感じた渡月橋だった。
あの時は、人もまばらで、あまりいなかった。だからあんな小芝居も出来たのだ。
今はとてもそれは出来ない。もしやったらたちまち外国人観光客が一斉に写真を撮るだろう。日本の子供の着物姿は、大変可愛くて人気があるのだ。
渡月橋の真ん中を過ぎた時、
「前谷さん」
と呼ぶ声がかすかにした。
あの十三参りのトラウマで振り向くのが怖くてずんずん突き進む。
「前谷さん」
今度は、はっきりと聞こえた。でも美代子は恐怖から逃れるかのように、歩みをさらに加速して突き進む。
渡月橋を渡り終えた時、目の前の信号が赤になり立ち止まった。
美代子が振り向くのと、肩を叩かれるのが同時だった。
「ああ、びっくりした」
「前谷さん!」
目の前に南座楽屋係のアルバイトの佐合友美がいた。
「どうしたんですか、声を掛けても全然無視して」
「ごめんねえ、ちょっと考え事してたの」
「どこへ行くんですか」
「これから嵐電乗って、車折(くるまざき)神社へお参りしようかと」
「あら私と同じ。一緒に行きましょう」
美代子は実は自分のためではなくて、ある人の頼みで車折神社へ向かうのである。
嵐電嵐山駅構内は相変わらず、外国人観光客で溢れていた。休憩所の周りには、様々な店が軒を連ねる。生ビール、アイスクリーム、うどん、焼き鳥。
嵐電「車折神社」駅は、車折神社の鳥居のすぐ目の前にある。
嵐山からだと、降りて踏切を渡り、向こう側に行く。
入り口は、石で出来た玉垣が道の側にずらりと並ぶ。
「金壱百圓○○」と書かれている。
祇園、大阪新地、役者等の名前が見受けられる。
ここの最大の呼び物は、芸能社がある事だ。
車折神社=芸能社ではなく、末社である。
その拝殿の周りには、朱色の板で、人名は黒の墨文字で書かれた玉垣がぎっしり寸分の余地なく並べられている。
現代版玉垣である。昔の石で作られたものは、簡単に入れ替えが出来ないが、これなら容易に交代出来る。
ここには、現在テレビで活躍する役者、歌舞伎役者、タレント、宝塚、吉本、芸人がこぞって奉納した玉垣を見る事が出来る。
参拝者は、ここをじっくり見て回り、お気に入りのタレントの玉垣を見つけると写真を撮る。アイドルタレントの名前もある。
美代子は社務所で黄色の袋に入った祈念石とお札二つ購入した。
祈念石と云っても大きさは一センチにも満たない小粒で、決して袋から出さずに自分の目線よりも高い所に祀り毎日拝む。お札は鞄などに入れていつも肌身離さず持ち歩くのである。
友美も同じく二つ購入した。
「わざわざ、お金払わなくても、あそこに仰山石が転がってますよ」
友美が指さした。
小石が積まれて小さな山を築いていた。
「あれは違うの」
「どう違うの」
「あれは、社務所で買った祈念石を持って帰って願いが通じたら、自宅の近くで石を拾って持って来て、お礼の言葉を書いて収めたもの」
「じゃあ祈念石はどうするんですか」
「願い事が叶ったら、古札納所へ返すの」
「へーえー前谷さん詳しいですね」
「うんよく頼まれるから」
車折神社への代参はよくある。
南座で楽屋口番をしていると、色々な役者から頼まれる。
今はスマホがあるので、写真に撮り、ラインかメールに添付して送ってあげれば、証拠にもなる。もちろん何がしかのお駄賃は貰える。
美代子は両手にお札、祈念石を挟んで神妙に拝む。
「技芸が上達しますように」
心の中で拝んだ。
この様子を友美に頼んでスマホで写真に撮ってもらう。
本殿で拝んだ後、芸能神社で二人で拝んだ。
「前谷さんは、今回誰に頼まれたんですか」
「それは秘密」
「教えて下さい」
「代参する者は、そんな口の軽い事では駄目なの」
出口に向かおうとすると、南座の楽屋の男子大学生アルバイトの飯村が本殿で拝んでいるのが見えた。
拝み終わるのを待って美代子は声掛けした。
「飯村君」
「あっ美代子さん、友美さんまでどうしたんですか」
「それはこっちが聞きたい台詞よ。何で君は車折神社で拝んでいるの」
「僕が車折神社で拝んだら駄目ですか」
「駄目じゃないけど、京都には沢山神社あるのに、何でよりによってここなの」
同じ疑問を友美も持った。
「まだ先ですけど、前期試験が上手く行くよう頼んでました」
飯村は京都大学文学部の学生で二浪して入学して今は三回生だった。
「学問だったら、北野天満宮でしょう」
友美がすぐに反応した。
「ええ、幾ら関東の人間でもそれぐらいはわかりますよ」
少しはにかみならが、飯村は答えた。飯村は群馬県熊谷市の出身である。
「友美さん、ここは芸能社があるから。そうでしょう飯村くん」
「さすが、察しがいいですね」
「えっ飯村くん、大学やめて役者になるの!」
友美は時として突拍子もない発想をする。
「違いますよ。バイト先が南座なんで、それにちなんでここに来ました」
「ここは芸能関係が有名やけど、それ以外の勉強でもええのよ。ここまで来たら飯村くん、嵐山の法輪寺さん行って来たら」
美代子が提案した。
「法輪寺ですか」
美代子の言葉を聞きながら、飯村は素早くスマホで検索していた。
「ああ、ここいいですねえ。十三まいりかあ。でも十二歳なら時すでに遅しですね」
「あなたは、十三参りせんでも、京大に受かったんやから、ええのよ」
「そうそう」
友美もうなづいた。
三人で、帰り道もう一度入り口に近い、石で出来た玉垣を一つずつ丁寧に見て回った。
「あっこんな所に犬之助の玉垣」
最初に見つけたのは友美だった。
「三代目三河犬之助。三代目と云うのは先代と云う事ですね」
飯村が玉垣を見つめながら確認した。
「そう今の犬翁さん。ああ懐かしい」
思わず美代子は声を上げた。
「知ってるんですか」
友美が聞いた。
「知ってるも何も。この玉垣奉納式典の時、私ここに来ました」
「へえ凄い」
「あの公演は、色々とあったのよ」
「ぜひ聞きたいです」
「僕も聞きたいです」
二人の要望で、場所を代えて嵐山の保津川べりのカフェで話す事にした。
「一体どこから話せばいいのかなあ」
ぼんやりと保津川を眺めながら、美代子のこころは、一気に二十年前に飛んでいた。
( 2 )
三代目三河犬之助主演の、桓武天皇の平安京造営を描いたスペシャル歌舞伎「ミヤコカケル」(建国篇)が南座で上演される事になり、その大入り祈願をするために車折神社で玉垣奉納式典が行われた。
スペシャル歌舞伎第一弾「ミヤコカケル」(建国篇)は、東京新橋演舞場で初演、上演された。
今までの古典歌舞伎とは全く違う要素で成り立った。原作は京都学の権威の桜原たかし。初稿は、400字詰め原稿用紙五千枚にも及んだ。とてもそのまま上演出来ないので、犬之助が脚色した。それでも新橋演舞場の初日は休憩を入れて六時間もかかった。
照明吉村澄三、装置金山武夫、舞台美術晩倉卒、音響安納真司と云う当代の一流のスタッフが集結。
台詞は現代語、音楽、音響もコンサート顔負けの特設タワースピーカー百台設置。照明もムービングライト234台、その他の灯体大小合わせて876台吊り込んだ。仕込みだけで連日徹夜で二週間かかった。
犬之助の徹底ぶりは、観客にまで及んだ。開演直後の入場は厳禁。遅れたら第一幕終了まで観客は中に入れず、ロビーに特別に設置された大型モニターテレビでの鑑賞となった。
当時、平気で開演に遅れる商業演劇の観客が多かった。
初日は、一階から三階まで延べ二八七名が中に入れなかった。劇場事務所にも苦情の電話が殺到した。劇場側は、新聞、雑誌で告知。劇場前看板、館内放送でその旨を告知。電話予約する際にもオペレーターが遅れたら一幕は見れない事を云った。
二日目から遅刻する観客は大幅に減った。
当時、この犬之助の処置にマスコミが取り上げて話題となった。
当然賛否両論が湧き上がる。
「金を払った客なのに、中に入らせないのはやり過ぎ」
の声が上がる。一方で、
「よくやってくれた。本当、今まで途中入場の客はうっとおしかった。犬之助の英断に拍手!」の声もあった。
犬之助は、非難の声にひるまず、
「私は最高の状態、状況で芝居を見せたい」
と語った。
特に犬之助が嫌がったのは、途中入場すると、客席の扉が開き、外光が入り演出の妨げになる事だった。
上演当初は、演劇評論家から、
「こんなものは、歌舞伎ではない」
「宙乗りなどケレンを重視して、歌舞伎ではない」
「本来の古典歌舞伎を勉強すべき」
「大衆に迎合すると命取りになる」
「犬之助は歌舞伎を壊そうとしている」
「断じてこれは歌舞伎ではない。受けを狙った大掛かりな学芸会」
等、酷評が続いた。
しかしこれが一般大衆、それも今まで一度も歌舞伎を見た事がない若者を中心とした人達に熱狂的に受け入れられた。
早々にチケットは完売。
急遽、昼一回公演のみだった日を五回夜公演を追加。それも瞬く間に売り切れた。
今回の南座公演も、東京公演で見れなかった人達が、流れて来て、こちらも早々と売り切れとなった。
以後犬之助はスペシャル歌舞伎二十本作り上げたが、初期の「ミヤコカケル」(建国篇)(冒険篇)(確立篇)の三部作は、絶大な人気を誇り、今でも四代目がさらに改良を加えて再演を重ねている。
関係者としては嬉しい限りだったが、それにしても犬之助を始めとして白川支配人も何故か浮かない顔つきだった。
その原因を美代子は後で知る事となる。
犬之助の玉垣奉納と公演成功の祈願祭は、無事滞りなく終了した。
帰り道白川支配人が、
「前谷さん、ちょっといいですか」
と声を掛けて来た。
「はい」
「打ち合わせを南座でやりましょう」
何の打ち合わせかそこまで云わなかった。
地下の事務所会議室には、白川支配人、業務の大林、案内チーフの藤森理香、犬之助、犬之助のマネージャー金田、そして楽屋口番の前谷美代子が集まった。
冒頭白川支配人がこの会議の開催趣旨説明をした。
「先日、裏鷲屋(うらわしや)、三河犬之助さんのストーカー裁判の最高裁の判決が下りました」
その件なら、連日ワイドショーで取り上げられていたので、美代子も知っていた。
ストーカー女、西紀子は、犬之助の一か月公演の時は、昼夜全ての公演を観劇、その席はいつも一番前で、じっと見ていた。時折、
「私がついています!」
「もっと近づいて!」
等と意味不明の言葉を上演中つぶやいた。
他の観客からの通報で、案内係が何回も注意しに行くが一向にやめない。それどころか、
「無礼者!私を誰だと思っているの!」
と叫び逆切れされた。
さらに犬之助が宿泊するホテルと同じホテルを予約。
犬之助の部屋の前を何度も通り過ぎる。何度もドアをノック。中に入ろうとした。部屋の前で夜中ずっと座り込み、歌を歌っていた。座り込んでいた。
ホテルのフロントには、
「私は、犬之助の妻です」
と名乗り困らせていた。
また各劇場の番頭席の「裏鷲屋(うらわしや)」(犬之助の屋号)の所に立ち、ご贔屓筋の人に、
「いつも主人がお世話になっております」
と挨拶して正妻かのような振る舞いを繰り返した。
そのため、西紀子を本当の妻だと誤解する人もいた。
巡業にまでずっとついて来て、付きまといがエスカレートした。
今まで我慢を重ねて来た犬之助は、金田と相談して裁判を起こした。
これが有名な、芸能人ストーカー裁判第一号だった。
裁判は、最高裁までもつれ込んだ。最高裁判決は、
「犬之助の半径三五〇メートル内への近づき、接見の禁止。及び電話、ファックス等電子機器を使用しての送信も禁止。慰謝料五十万円の支払い」だった。
この三百五十メートルの数字の根拠は、当時世界最大のホテル「アメリカングレードホテル」に同宿出来ない、同じ新幹線に乗れない、同じ飛行機に搭乗出来ないものだった。
続いて業務の大林が、資料を配りながら説明した。
「今、お手元にありますのは、最高裁の判決文のコピー、二枚目が今回のチケット番号のコピー、三枚目が少し鮮明度に欠けますが、ストーカー女、西紀子の顔写真です。最高裁で、接見、近づきの禁止は下されましたが、切符購入に関しては禁止されませんでした」
「そこが片手落ちやったかなあ」
白川支配人がつぶやいた。
「でもねえ支配人、いくら本人の切符購入を禁止しても、友達か家族に頼めばいい話ですから」
横から金田が説明した。
「つまり防ぎようがないと云う事か」
「その通りです」
大林の説明は続いた。
先月東京新橋演舞場公演では、本名「西紀子」で電話予約して来場しようとした。切符番号から西紀子と判断して、事務所で話して引き取って貰ったそうだ。
「その際、切符代金は返金しました」
「で、このチケット番号が、今度南座に来る時のものやね」
「そうです」
「しかし何で本名で電話予約するんかなあ。そんなんしたら、すぐにばれるのに」
「さあ、それはわかりません」
と大林は返事した。
「支配人、西紀子は未だに自分がストーカー女だとは、はなから思っていないんですよ。だから堂々としてるんですそれにもう一つあります」
そこで金田が言葉を区切った。
会議室にいる一同の視線が、金田に注がれた。
「もう一つ?」
一同の思いを代弁する形で白川支配人が、聞き返した。
「こそこそ隠し立てせずに、正々堂々と劇場正面から入場したいんですよ」
白川を始め、一同は、大きくうなづいた。
「新橋演舞場で断られたのに、本当に東京からわざわざ新幹線乗って来るかなあ」
白川は、半信半疑で視線を金田に注いだ。
「支配人、皆さん奴は絶対に来ますよ」
金田が一同を眺め渡しながら断言した。
「おばちゃん、しつこいなあ」
今まで沈黙を貫いていた犬之助が、会議の席上で、初めて言葉を口にした。
「それにしてもこの顔写真、写り悪いねえ。もっとましなものなかったの」
「すみません、ファックスで送られて来ましたので」
この時代、まだパソコンもメールも充分に整備されていなかったのである。
「絶対に劇場の中に入れては駄目です」
金田が、再び力説した。
「この中でストーカー女の顔を知らないのは、手を挙げて下さい」
白川支配人がぐるっと見渡した。
楽屋口番の前谷美代子、案内チーフの藤森理香、業務の大林が、恐る恐る手を挙げた。
「私は実物見てないけど、この写真は東京で見ました」
と白川支配人が云った。
「正面玄関、楽屋口の代表者が見てないのはつらいよねえ」
金田は、大きなため息をつきながら云った。
楽屋口は、特に要注意するのは皆の一致した意見だった。
偽名を使えば幾らでも入れたからだ。
「前谷さん、くれぐれも来訪者はすぐに中に入れないで。必ず内線電話で知らせて下さい」
「はい」
緊張した顔つきで美代子は返事した。
「僕か、付き人が確認しますから」
金田が念押しした。
「わかりました」
「もしこの切符を持って来られたら、そこで入場ストップですね」
今度は案内チーフの藤森理香が最終確認した。
「開場時は、私が正面玄関にいます。もしその切符を持ったお客様が来られたらすぐに、白川支配人、金田マネージャーに知らせます。そして地下事務所で話して帰って戴きます」
大林は、力を込めて云った。
「もし帰らなかったらどうするの」
白川支配人は大林を見た。
「その時は縄手交番に来て貰います。すでに事情は説明しております」
大林は今回の一連の裏鷲屋のストーカー事件を受けて、所轄の祇園署、最寄りの縄手交番にも出向いていた。
「連絡したら、祇園署、縄手交番の警察官が駈けつける段取りになってます」
「警察沙汰にはしたくないなあ」
白川支配人がつぶやいた。
「それから、もう一つ追加説明しときます。ストーカー女、西紀子は左利きだそうです」
「左利きですか」
美代子は繰り返した。
「最後に犬之助さん何かありますか」
金田が発言を促した。犬之助は金田を見てすくっと立ち上がった。
「皆さんご苦労様です。私的な事で手を煩わせます、すみません」
ここでまず一礼した。
「今回の騒動を通じて感じる事が一つあります。それは熱狂的ファンとストーカー行為は紙一重だと云う事です。西紀子は根っからの極悪非道の悪人ではないと思います。私を好きと云う感情の発露が他人より数倍大きかったのでしょう。でも油断は禁物です。どうか皆さんの力でこの裏鷲屋、三河犬之助をお守り下さい」
最後は深々と頭を下げた。一同もそれにならい、立ち上がってお辞儀をした。
美代子は楽屋口に戻るとアルバイトの田中修、森垣藤太に写真のコピーを見せた。
「分かりづらいですね」
「とにかく、裏鷲屋さんに面会は、絶対にすぐに通したら駄目!駄目!駄目!」
美代子は両手は握りこぶしを作り、上下に激しく振り、金切り声を上げた。
「前谷さん落ち着いて下さい」
「ああもう、落ち着かない」
一人盛り上がる美代子だった。
そして当日。来るとしたら昼の部である。
開場時、大林、案内チーフの理香が切符の半券をもぎる担当をした。
その後ろに金田マネージャー、白川支配人が控えた。
一方その頃、楽屋口にはいつもは美代子一人だけだが、もう一人田中がいた。
何かあった時は、やはり男の力が必要と思われたからだ。
十時半になり、昼の部が開場した。
そわそわと美代子は楽屋口を行ったり来たりした。
「前谷さん、少しは落ち着いて下さい」
「これが落ち着いていられますか」
とこの時、扉が開きかけた。
すわっと美代子は飛び込んで勢いよく扉を開けた。
荷物を持った黒犬の「カワト宅配便」の人がなだれ込んだ。
「うわっ!」
宅配便の人は、いきなり美代子の顔が迫って来たので身をのけ反った。
「カワト便です」
「何だ、カワトさん、もう紛らわしい!」
「紛らわしいって、何かあったんですか」
「い、い、いえ何も」
「そうですか。これ三河犬之助への荷物です」
「犬之助!差出人は」
「裏鷲屋事務所です」
「じゃあ受け取ります」
美代子が受け取り伝票にサインしていると、内線電話が鳴った。
「口番です。はい、はい、わかりました」
「どうしたんですか」
「支配人が呼んでますから、ちょっと行って来ます。くれぐれもお願いよ」
「わかってます」
美代子が地下事務所の会議室に顔を出すと、そこには白川支配人、大林、金田マネージャーの三人が一人の女性を取り囲んでいた。
白川支配人が手招きした。その女性の真向かいに座った。
「と云う事で、最高裁の判決文が出たのをご存じですね」
「はい」
「あなたと、犬之助さんとの半径三百五十メートル内での接近、接触の禁止と判決文に書かれています」
「はい」
西紀子は始終うつむいたままだった。
「わかってるのに、何故来たのですか」
まるで南座の会議室が、警察の取調室に様変わりしていた。
大林は刑事のように振舞った。
紀子はしばらく無言だった。そして重い口を開いた。
「犬之助さんに会いたかっただけです。犬之助さんの芝居を見たかっただけなんです」
「それは無理です。日本は法治国家です。西さんは法律を守って下さい」
ここでドアがノックされて、切符売り場の沢田華子が入って来た。
小銭を置く小さなお盆にお金が乗っていた。それを大林に渡すと去った。
「もう今までのような事はしません。だからスペシャル歌舞伎(ミヤコカケル)を見させて下さい」
「駄目です。切符代はお返しします」
机の上にお金を置いた。
これが、犬之助と最高裁まで争ったストーカー女なのか。
今、美代子の目の前にいる女は小柄で、朴訥でとてもそんな大それた事をする女には見えなかった。
そもそも本当に西紀子なのか。誰か確かめたのだろうか。
金田は実際に見たから間違いないのだろうけども、その他の美代子を始めとする大林、白川支配人は、実際の本人を見てない。
紀子はさらに話し出す。
「私は、単に裏鷲屋さんのファンなだけです。ただ情熱な舞台を見たい、興奮する宙乗りを見たい。それだけです」
「あなたは、開演中一番前の席で、ぶつくさつぶやいていましたね」
「それは、たまたまこころの思いが言葉に出ただけです」
何故か紀子の口調はどこかゆっくりとしたものだった。
紀子は時折左手首を見て、次に右手首に視線を移した。右手首には、腕時計をはめていた。
開演時間を気にしてるのだろうか。それも気になる紀子だった。
「番頭席の前に立って、正妻を気取ってましたね」
「それは少々出過ぎた真似でした」
「裏鷲屋が泊まるホテルに、同じ様に泊まって夜中犬之助の部屋のドアを何回もノックされてますね」
「同じホテルに泊まったら駄目なんですか」
「最高裁の判決文が出るまでは、それは自由でした」
「でしょう」
この日初めて紀子は勝ち誇った顔をした。
「とにかく、お引き取り下さい」
「ちょっと待って下さい。私はこのお金は貰いません」
「あなたは、観劇出来ないのですから、返金は劇場側として責任もってお返しします。それに今、この時点で判決文の半径三百五十メートル内の接近禁止にすでに触れてますよ」
「もっとよくお確かめになった方がよいと思いますけど」
紀子はうつむいたまま、にやっと笑った。
「何を今更調べるんですか」
今まで丁重に接して来た大林もさすがに、ここへ来て言葉遣いが荒くなった。
「あっ!」
美代子は叫んだ。
「どうかしましたか」
白川支配人の視線が美代子に注がれた。
「やっとわかりました、支配人!」
「どうかしたの、前谷さん」
大林が聞く。
「この人、ストーカーの西紀子じゃないです」
「何を今更。西紀子ですよね、金田マネージャー」
「いや実は僕も今、その事で悩んでいたんだよ」
「でも新橋演舞場からの写真見ても似てるし、金田さんが間違いないと云ったし、何より西紀子が電話予約した切符を持ってますよ」
大林が興奮して早口で喋ってる間、西紀子は顔に笑みを浮かべて黙っていた。
「あなたは、西紀子じゃありません!」
美代子が宣言した。
「前谷さん、ちょっと落ち着いて」
大林の制止を無視して、美代子は話を続けた。
「本物の西紀子は左利き。確かにあなたは、右手に腕時計をはめて、左利きを装ってます。でもあなたは、時計を見る時、いつもの癖で、つい左手首を見てしまう。あなたは本当は右利きで、左手首に腕時計をしてますね」
美代子は紀子の左手首を高々と持ち上げた。
「皆さん見て下さい。この人は、左手首の腕時計をはめる所だけ色が白いでしょう」
「本当だ」
金田が叫んだ。
「一体あなたは誰ですか」
「さあ誰でしょう」
「大変だあ」
美代子はさらに叫んで、その場を離れようとした。
「おいどこへ行くんだ」
「裏鷲屋が危ないです」
美代子は楽屋口に向かって走り出した。その後ろを大林、金田マネージャーが続いた。白川支配人は残った。
「前谷さん、説明してくれるかな」
美代子の後ろから走って追いかけながら大林は、質問を投げかけた。
「大林さん、まだわからないの、あの女は単なるオトリ。本物の西紀子は、楽屋口から入ったかもしれません」
楽屋口に田中がいた。
「田中君、誰も中に入れてないでしょうねえ」
「さっきカワト宅配便の人が楽屋に行きました」
「そんなわけないでしょう、カワトさんは、私がいる時、さっき来たのよ。それ、偽物よ。女の人でしょう」
美代子は、田中に視線を突き刺した。
「はいそうです。すみません」
内線電話が鳴る。四階楽屋のアルバイトの森垣だった。
「前谷さん大変です!すぐ屋上に来て下さい!」
一同は屋上に向かった。
そこには・・・
お社の奥の所で、羽交い絞めにされた犬之助とストーカー西紀子がいた。
紀子の手には匕首が握られていた。
「遅かったかあ」
森垣の話によると、たまたまお社にお参りしていた犬之助にいきなり近づいて匕首を突き付けたらしい。
金田マネージャーは事情を察してすぐに下に降りた。騒ぎを聞きつけて田中もやって来た。
「あなた、私たちが偽物の西紀子と接している間に、楽屋口からカワト宅配便の業者を装って入ったんでしょう」
「正解ね、名探偵楽屋口番さん」
ここで紀子はキャップと白マスクを外した。
犬之助は浴衣姿だった。大林は腕時計を見た。
楽屋廊下モニタースピーカーから、回り(開演五分前)を知らせるブザーと析頭の三つの音が鳴っていた。
「あなた、犬之助さんが大好きなんでしょう」
「大好きよ」
「じゃあ何故そんな事するのよ」
「犬之助は私だけのものよ。誰にも渡さないわよ」
「紀子さん、もうすぐ昼の部が始まるのよ。犬之助さんも支度があるから、解放してあげて」
「もう公演はないわ」
「中止って事?」
「そうじゃないの。もう永遠にないの」
「つまりそれって」
美代子は絶句した。
「これから二人で空中散歩するの」
紀子は、鴨川と対岸の東華菜館の建物を指さした。
じりじりと後ずさりした。
もうこれ以上は出来ない。その後ろは低い塀があるだけだ。
「裏鷲屋さん、今度の宙乗りは迫力満点よ。邪魔なワイヤーがないから、眼下の鴨川べりが一望出来るから」
一同は全く手出し出来ないでいた。
案内所にいた案内チーフの藤森理香は、斜め向かいの監事室のドアが開いて、監事室の根山がこちらに来るのを見た。
根山の顔色は普段から青白いが、さらに青ざめていた。
その顔色を見て理香は、何か重大な出来事が南座で起こったと察知した。
根山は、片手にコードレス電話機を持っていた。
「開演が遅れます。遅れの原因などを云う放送分は、こちらで書いて指示しますから」
「はい、わかりました」
その時白川支配人が走ってやって来た。
「どうでしたか、支配人」
「まだ膠着状態やなあ」
「最悪、公演は中止ですか」
「いや、それだけは避けたい」
すでに昼夜とも切符は完売している。もし二回とも中止となれば、二千万円近くの損失となる。劇場側としては、大きな損失で、それを避けたい支配人としての白川の立場であった。
金田も駆け付けた。
「支配人、警察へ連絡は」
「いやまだです」
「しますか?」
「いや、もうしばらく待ちましょう」
白川支配人の苦渋の決断だった。
大林は、腕時計に視線を走らせた。
すでに十一時十分になっていた。
昼の部は、十一時開演なので、すでに十分の遅れとなっていた。
「お客様にお知らせします。機械設備の点検のため、少々開演が遅れております。 もうしばらく、お席にてお待ち下さいませ」
楽屋廊下のモニタースピーカーから、場内アナウンスが繰り返し放送されるのが、一同の耳に入った。
「紀子さん、あなた犬之助さんの親切な心遣いが理解出来ないの」
「心遣い?」
「そう云う鈍感な人を私は許しません」
美代子は一歩前へ踏み出した。
「それ以上来ないで」
「ここから飛び降りるわよ」
「そんな事は、南座の神様がさせません」
と叫んで美代子は突進した。
紀子は、匕首を振り下ろそうとしたが、犬之助がくるっと身体を交わして手首を押さえた。さらに屋上から飛び降りようと、上半身を塀の外に出そうとした。
犬之助と美代子の二人で阻止した。同時に大林と田中が加勢して飛びついた。
「前谷さん、危なかったですよ」
「裏鷲屋さん、お怪我はなかったですか」
「いやあ京おんなは強いと聞いていたが、やはりそうでしたね」
犬之助は笑った。
「裏鷲屋さんの心遣いを踏みにじるなんて、許せなかったんです」
「何ですか、心遣いって」
「大林さんまだわからないの、この匕首、模擬刀。お芝居で使うもの。裏鷲屋さんは、それを承知でお付き合いされたのよ」
「そうだったんですか」
「またとない機会ですから」
「もうびっくりさせないで下さいよ」
大林は大きなため息をついた。
正気に戻った美代子は、震えが出た。
「ほ、ほ、本当は怖かったです」
ガタガタ震え出して、思わずぺたんとその場に座り込んだ。
ここまで話し終えると、美代子は注文したアイスコーヒーを飲んだ。
「それで、公演はどうなったんですか」
飯村が聞いた。
「その日は、三十分遅れで無事に幕が開きました」
「で、ストーカー女、西紀子は、どうなったんですか」
「もちろん警察に連絡しました。でも屋上での出来事は云わなかったんです」
「どうしてですか。例え模擬刀でも、立派な犯罪ですよ。殺人未遂じゃないですか。もはやストーカーうんぬんの話じゃないでしょう」
友美は一人憤慨した。
「それはねえ、犬之助さんが云ったのよ。(それは許してあげましょう)と」
「優しい!」
飯村と友美が同時に叫んでいた。
そして、現代の南座。
南座は、毎月八日が月次祭(つきなみさい)である。
この日は、八坂神社から宮司が来て、舞台の大入りと安全を祈願する。
現在の南座のお社は、屋上に一つだけだが、平成三年改装前は、屋上の東と西の二か所。奈落二か所、楽屋口と合計五か所もあった。それが屋上一つに合祀された。
その月次祭の準備をする仕事も楽屋係りの仕事だった。
初日に幹部役者から奉納された日本酒があるが、それを祭壇の両端に置き、さらに買って来た供物を並べる。
公演中は、毎日水、塩、米なども祭壇に並べられる。
供物は野菜は大根、人参、胡瓜、茄子。果物はリンゴ、ミカン、バナナ等、他に乾物類としては、高野豆腐、昆布、椎茸、春雨、するめ等である。
宮司が来ると榊を置くので、そのスペースもいる。
参拝に参加するのは、支配人、副支配人、監事室、業務である。
楽屋係は参加せず、広さ、一畳もない四階の階段下の空間で待つ。
祝詞、参拝が終わり、宮司が引き上げると早速、片付けが始まる。
友美と飯村がてきぱきとやってくれるので、美代子は助かる。
三人は片付けを終えると、鴨川べりを見た。
「二十年前の犬之助人質事件は、この辺だったんですね」
と飯村は、指さした。
「そうこの辺り」
「毎日、お社の水換えでここに来ますけど、二十年前そんな活劇ドラマがあったなんて初めて知りました」
飯村が云った。
「今は平和よねえ。その後西紀子は、どうなったんですか」
「全く全然音沙汰なし」
「犬之助さんの心遣いと美代子さんの説教が効いたんですよ」
「僕もそう思います。いやあ本当にいいお話でした。美代子さんて単なる楽屋口番じゃなかったんですね」
「褒めても何も出ません」
義太夫三味線の矢澤竹也がやって来た。
気を利かして友美と飯村は屋上から出た。
「昨日はどうも」
今朝の楽屋入りの時は、皆の目があるので渡せなかった祈念石とお札を渡した。
「これ、代参のお駄賃」
竹也は素早く小さなポチ袋を美代子に渡した。その時一瞬手が触れた。
「有難うございます」
「それにしても朱色の玉垣すごいねえ」
代参の時、玉垣、車折神社の写真をラインで送った。
「一つ一万円で有効期間は、二年だそうです」
「やってみようかなあ」
「それ以上義太夫三味線上達してどうするんですか」
竹也の義太夫三味線は、おそらく日本一であろう。
さらに毎月創作浄瑠璃義太夫三味線の会を開いている。
「いや、芸道に終わりはないよ」
「すごいですねえ。今月は創作浄瑠璃の会はやらないんですか」
「その事で前谷さんに云おうと思って。やっとやる事にしたよ」
「どこでやるんですか」
「新門前町の和風町家居酒屋でね。来てくれるか」
「もちろん行きます」
「会費は三千円。南座昼一回公演の後だから、始まりは五時ぐらいかなあ。また決まったらラインするから」
「有難うございます」
本当は一人で行きたかった。
しかし竹也は、自分のフェイスブックで告知したため、当日は友美も飯村も参加していた。
縄手通りを北に上がり、白川に架かる大和橋を渡り、新門前通りに入る。
白川沿いは、今は片側は広い歩道になっているが、戦前までは両側にお茶屋が並んでいた。
太平洋戦争末期、京都も空襲を受けて火事が燃え広がるのを食い止めるために、強制疎開、強制立ち退きが行われた。もちろん立退料なんて支払われていない。
あの広い堀川通も御池通りも同じ方策で広げられた道路である。
道路に面して二階建ての町家である。
瓦屋根が道路に平行に作られる。屋根の中央に魔よけの鐘馗(しょうき)さんが飾られている。
町家の二階で行われた。床の間を背にして、竹也が座り、浄瑠璃三味線の会が行われた。もう美代子は何十回となく出席していた。
十二畳の部屋に二十人ばかしの人がいた。
こよなく京都を愛する竹也は、例え東京で仕事をしていても、とんぼ返りで京都で会を開いていた。
「もちろん、美代子さんを見たいためです」
「それは後付けでしょう」
美代子は知っていた。竹也の京都好きを。
「その内、近いうちに東京の自宅は処分して、京都に二件家を持つ」
と云っている。
「どことどこにですか」
「岡崎とあとは、嵐山か宇治だな」
「岡崎は値段高いし、あの辺りは別荘地帯で、町家はないです。京都御所の西側も閑静でいいですよ」
生粋の京都人の美代子は、アドバイスした。
「そうなの。また町家買う時は相談に乗ってよ」
「はい。それと嵐山も宇治も、平安貴族の遊び場でしたよ」
「そうかあ。じゃあ私も風流、優雅に和歌でも詠まないとね」
「竹也師匠は無理。ずっとお三味線の稽古してはるでしょう」
美代子は冷静に判断していた。
この人は、根っからの稽古好きで、何より義太夫三味線、浄瑠璃を人一倍愛しているのだ。
今回、初めて会に出席する飯村は正座して緊張していた。
「飯村くん、こんなとこ出ててええの。試験対策は」
皮肉交じりで美代子は聞いた。
「ほんまやあ。勉強せんと神頼みはあきまへんええ」
友美も云った。
「大丈夫です。今日だけ息抜きです」
とにっこり笑った。
会の冒頭、竹也は、
「どうか皆さん、気軽に聞いて下さい。正座が苦手、膝が悪い人はどうぞ、ご遠慮なく足を投げ出して下さい」
と云った。美代子は正座のままで大丈夫だった。
創作浄瑠璃の会が始まる。
竹也の義太夫三味線はどこか哀愁があり、男の色気がある。
「どこに色気」
と聞かれると返事に窮する。言葉で云い現わしにくい。
義太夫三味線のあの低音も高音も好きだ。
あの音響の響きとまとわりつく残響と云うのだろうか。
そして竹也の細長い白い指先に、色気を感じる。
浄瑠璃三味線は何故あんなにも人のこころに訴えるのだろうか。
弾き語りが始まる。
創作浄瑠璃 「 哀愁之別離 」(あいしゅうのわかれ) (矢澤竹也 作)
♬
永遠の誓いを 決めたのに
愛する人は どこへやら
紫陽花のつゆ 濡れし身に
吹き抜ける風 受け止めし
手からこぼれて 去りゆくは
明日の身の上 寂しきか
胸の痛みは 今宵もか
去り行くあなた 一言を
去りし身の上 言葉なく
「あなたのいない、日々なんて考えられませぬ」
「これからは、お互いよい伴侶を見つけて生きてゆけよ」
「そんな生活は、いりませぬ」
その時だった 胸元の
匕首を抜いて 迫りくる
「おい、何をする!馬鹿な真似はよせ」
「あなた、一緒に死んで下され」
きらりと光る 死の誘い
ひらりひらりと 身をかわし
叩き落として 手を掴む
「命を粗末にするんじゃない」
「あなたのいないこれからの日々は死んだも同然でございます」
「そんな寂しい事を云うて下さるな」
指先そっと 涙なぞる
「そんな空虚な言葉は、何の力にもなりませぬ」
匕首のどに 突き立てて
死の旅立ちを 行うか
「ええい、ごめん!」
みぞうち突きて 気絶させ
匕首持ちて そば離る
去り行く男 残る女(ひと)
地べたに座り 身体冷え
途方にくれて 涙出て
霞行く目に 消えて行く
明日の身の上 寂しきか
何故か美代子は泣きたくなった。
美代子の座る斜め前に着物を着た今まで会に出ていなかった新顔の後姿の女性がいた。小柄な顔の白い、白さを通り越して青白い女性だった。どこかで見た事のある面影だった。肩を小さく揺すり、泣いていた。
(あの人も泣いているんだ)
同じこころの人がいるのを見て美代子は安心した。
会が終わると、竹也が美代子を呼んで、その女性の前まで連れて行った。
「前谷さん、紹介しとくよ、こちら私の女房です」
「梅川久美です」
「あっ西紀子さん!」
美代子は一気に再び二十年前の出来事が蘇った。
「お久しぶりね、美代子さん」
にやっと不敵な笑みを浮かべた。
「何だ久美、美代子さんを知っていたのか」
「そうなの、深いお付き合いよね」
久美はそっと美代子の手を握った。
竹也が他所のグループに挨拶に行った。
「名前が、変わったんですね」
一番聞きたい事を美代子は、まず口にした。
「そう、京都と同じよ」
久美は、うっすらと口元に笑みを宿した。
と同時に美代子は、二十年前の出来事が降臨して、背中と脇に冷や汗が噴き出した。
「何が同じなんですか」
「京都の住所も正式名と通称名の二つがあるでしょう」
「ええ」
「正式名は、ご存知の西紀子。梅川は、三味線梅川流から来てるの。(久美)の名前は、その三味線の会の時の、いわば芸名なのよ」
「そうやったんですか」
「美代子さん、私ねえ、今の創作浄瑠璃聞きながら、一つ決意した事があるの」
「何がですか」
「匕首、今度使うとしたら模擬刀はやめて本物にするわ」
久美(西紀子)は、美代子の耳元でそう囁いた。
美代子の全身は、真冬に冷や水を浴びせられたかのように、一瞬固まり、次に震えが襲って来た。
(この人は、本当にやる人だ)
久美の口元の笑みは、妖しさを増すばかりだった。
ふと美代子は、床の間に飾られた椿に視線が行った。
椿の花びらは、濃いピンク、紫、赤茶色と様々な色模様が一枚の花びらに広がっていた。
(あの花びらのように、人のこころも、幾重にも重なり変化して行くのだ)
と美代子は、椿と久美の顔を見比べながら悟った。
( 終わり )
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