6

 風の音が、少し大きかった。沢の水の流れも、早い気がした。空は曇り空。

 小屋の扉を開けると、冬美ちゃんはすでにいた。小さな口を大きく開けて、おにぎりを食べていた。僕が入ってきたのに気が付くと、あわてて空いている方の手で口を隠した。

「あ、……こんにちは」

 ちょっともごもごとしながらのあいさつ。とってもかわいかった。

「早いね」

「最後の日だからいろいろ見て回りたいって言ったら、お弁当作ってもらえたの」

「ヨオコは?」

「まだ寝てた」

 二人でくすくすと笑った。そして冬美ちゃんはご飯を食べ、僕は将棋盤に駒を並べた。最後の一日。そして、最後の二人だけの時間。

「はじめよっか」

「よし」

 将棋を始めて、いつもより少しだけ口数が少なめになった。ここに来れなくなるだけでなく、冬美ちゃんは日本からも離れるのだ。今この瞬間を、大切な思い出にしたいと思っているんじゃないだろうか。僕も、精一杯その手伝いをしたい。

 風が扉をたたく音が大きくなってきた。そして、肌に少し湿り気を感じる。窓から外を覗くと、雨粒が見えた。みるみるそれは勢いを増し、あっという間に大雨になった。

「急だね」

「すぐやむかな……」

 冬美ちゃんにとって、日本の気候は全て未知数なのだろう。だけど、僕にもこの雨がどうなるかなんてよくわからない。

「とにかく……雨漏りしないといいな」

「今のところ大丈夫そう」

「みんな……来れるかな」

 この雨では足元も危ないだろう。傘を持ちながらの移動も危険だ。

「このままだと来れないかなあ。すぐやんだらいいけど」

「だといいね」

 僕たちもこのままでは帰れない。いつもより暗い部屋で、とりあえず二人は将棋を始めた。

「なんか、すごい強くなった気がするな」

「そうかな」

 二局ほど終わった時だった。部屋の中が一瞬真っ白になった。二人の動きが止まった。そして数秒後、ドーンという大きな音とともに、小屋全体がびりびりと揺れた。

「ワッ」

 冬美ちゃんは体を揺らして、そしてとっさに僕の手をつかんだ。僕もとても怖かったけれど、なんとか「大丈夫だよ」と言って、笑顔を作った。

 それから何回か、雷は続いた。将棋どころではなかった。そして、当然誰も来なかった。二人は世界から取り残されているかのように、不安に顔をゆがめていた。

 どれぐらいの時間がたっただろうか。雷は鳴らなくなり、小屋全体が静寂に包まれていた。窓から外を覗くと、雨脚も随分と弱まっている。

「やんだら帰ろう。みんな心配してるだろうし」

「そうだね」

 雨はどんどん小降りになり、降らなくなり、ついには日の光まで差してきた。世界は、嘘みたいに明るくなった。

「もうちょっと、みんなといたかったな」

「もう、ここに来ることはないの? 来年は?」

「日本には来るかもしれないけど、ここまでは……。先のことはわからない」

 あまり考えないようにしていた。毎年、夏休みは終わらないつもりで遊んでいた。そして今、この日、冬美ちゃんとの最後の時間だということも受け入れられていなかった。

「わからないなら、来れるかもしれないよね」

「……うん」

「じゃあ、またここで会えるかもね」

「……うん」

「もっと教えられるように、将棋強くなっとくよ」

「……うん! 私も、何とかして勉強しておく」

「じゃあ……これ持ってきなよ。僕はどこかで買うから」

 最初からぼろぼろで、そしてさらに使い込まれた将棋の本を、僕は冬美ちゃんに渡した。

「いいのかな」

「いいよ」

 扉を開ける。日常へと戻る、出口。

「またここでね。たとえ十年後でもさ」

 なんでそんなことを言ったんだろう。でも……言わずに後悔するような人間じゃなくてよかった、と思った。

「うん。またここで」

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