見上げるはよだかの星5

 受付で面会手続きを済ませてから、エレベーターを使って三階に上がり、リノリウムの廊下を歩いて行くと、御厨が慣れた足取りでとある部屋の前に立った。部屋番号の下に御厨小春様と書かれているプレートがあり、文月はそれを一瞥してから、先に入室した二人の後を追いかけた。

 室内に足を踏み入れ、静かに扉を閉めると、微かな声が聞こえてくる。それは小春の、よだかの星の朗読だった。

 ベッドの横に備えられている椅子に、文月が腰を下ろす。それからすぐに、アタッシュケースから原稿用紙を取り出した。

 御厨と九美に見守られる中、文月は、はっきりとした声で、小春に向けて語り始めた。


 ――私は、実に醜い娘です。

 小さな目に、低い鼻の上に散っている雀斑。それらが乗せられている輪郭はやや丸く、可憐さとはほど遠い容姿をしていました。

 視力のせいで眼鏡を掛けなければならない私は、つまり顔立ちの地味さを増さねばなりません。分厚いレンズの奥で、小さな目が更に小さくなったように思えました。

 あまりに地味な外見のため、それほど目立たないようで、初めはほとんどの人に興味を向けられませんでした。けれども、こんな私に美しい母と精悍な顔立ちの兄がいることを知った同級生達は、悪口を言うようになります。


「あの子、何度見ても地味だよね」

「あんなお母さんとお兄さんがいるなんて信じられない。拾われた子供なんじゃないの?」


 こんな風に、私と同じクラスの女子生徒は陰口で笑い合います。私が、母や兄だったなら、これほど容姿を馬鹿にされることはなかったのでしょう。家で家族の顔を見て、学校で陰口を言われる度に、そのうち私は、本当に両親や兄と血の繋がりがあるのか不安に思えてきてしまいました。

 煩悶とする私の前に、ある時、一人の女子生徒が呆れ声を投げ付けにきました。


「あのお兄さんに失礼だから、名前を変えるか本当の親を探しに行くかしたらどう?」


 それからというもの、まだ名前を変えないのか、家を出て行かないのか、失礼だと思わないのかと何度も言われるようになりました。日毎行われる嫌がらせは、悪口以外にも増えていきましたが、面と向かって何かをされることは、名前を変えたらどうかと言われた時以来ありませんでした。

 ですが、ある日、お昼休みにお弁当を食べていた私のもとに、以前正面から物申してきた女子生徒がまた現れ、私のお弁当は奪われてしまいました。それは、兄が作ってくれたものだったのです。彼女はそのことを知っていたようで、「あんたなんかが食べるのは勿体無い」と、蔑んだような目で私を一瞥したら、すぐに去っていってしまいました。

 それからも悪口は止みません。私は日に日に、自分の心が引き千切られているような感覚に襲われていきます。

 このままでは、私の心が殺されてしまうと思いました。じわりと滲む痛みが癒されることはなく、自然と傷口が塞がる前に、言葉の刃で穴を増やされるのです。帰路を辿る時、いつも穴だらけになった胸を押さえて、殺されるくらいなら死んでしまおうかと考えておりました。

 陽が落ちて行く道の先を見つめながら、私は思いました。

 どうして私はこれほど嫌がられ、嫌がらせを受けなければならないのだろう。両親や兄に全く似ていない、所謂地味な顔をしているというそれだけで、何故ここまで心を傷付けられねばならないのだろう。抜きん出た容姿を持っていなくても、私は今までに、人が嫌がるようなことをしたことがない。こんな状況になった中でも、私の近くに鉛筆を落としてしまった人に、それを拾ってあげたことだってある。ああ、だけれどあの時は、汚いものを見るような目を向けられて、引っ手繰るように鉛筆を回収された。それからその子と仲の良い子達が、私のことを笑っていたっけ。これからもこんな日々が続くのか。そんなの嫌だ。今にも私が殺されてしまいそう。

 気付けば、私は普段通らない道を歩いていました。自分の家がある道へ背を向けて、きっと隣町に続いているのであろう道の方へ、とぼとぼと力なく、足を動かし続けました。

 全く知らぬ道を、どこまで行けば何があるのかすら分からないままに、ただただ歩き続けました。そうしていると、だんだんお腹が空いて来て、学生鞄から、まだ食べていなかったおにぎりを取り出しました。お弁当を奪われるようになってから、私は兄に頼んでおにぎりにしてもらっています。

 包みを開けてそれを唇の前まで持っていった途端に、どうしたことか、空腹感は嘘みたく消えてしまいました。

 あんたなんかが食べるのは勿体無い。あの言葉が不意に耳に届いてきて、私はおにぎりを地面に落としてしまいました。進み続けていた足がぴたりと動きを止めて、どこにも行けなくなります。棒のように真っ直ぐ張り詰めた両足は、やがて膝から折れて、みっともなく地面にがくりと突きました。

 勿体無い。私でもそう思ってしまったのです。私には、あんな両親は勿体無い。あんな兄も勿体無い。彼らを信じられず、逃げ出すように遠くへ行こうとしている私には、勿体無いのです。不相応なのです。

 きっと私は、本当に彼らの家族ではないのでしょう。血が繋がっていたとしても、家族でいることが出来ていないのでしょう。笑顔を作って上辺だけで接している関係を、家族と言ってはいけない気がしました。

 ぼろぼろと涙が溢れ出しまして、声を殺せないくらいに嗚咽が漏れました。ああ、やら、うう、やら、言葉になっていない嘆きで夜風を切っておりました。

 私は、家族の愛から目を背け、全部勿体無いと言って捨てている。だのに「血が繋がっていないのではないか」という嘲笑は、どうしようもなく私の心を殺そうとする。なんて苦しく、辛いのだろう。もう、死んでしまおうか。これからも毎日学校へ足を運べば、近いうちに私の心が殺されてしまう。けれど自殺なんてしたら、同級生達はなんと言うだろう。笑うだろうか。それは嫌だ。どこか、どこか遠くへ行ってしまいたい。

 すっかり陽が落ちて、暗くなった道を、私はまた真っ直ぐに歩き始めていました。視界にちらちらと飛ぶ光が、私の視線を上げさせます。見上げた空には、小さな星が幾つも散らばっていました。手を伸ばしても、星には一つとして触れられません。空の紺を掻き混ぜることすら叶いません。ただただ冷たくなってきた空気を手の平で仰ぐようにしながら、ぐんと背伸びをして、私は大きな声で言いました。


「そこの青いお星さま、あなたの所へどうか私を連れてって下さい。やけて死んでも構いません。どうか」


 声は、届いていないようでした。それもそうでしょう。触れられないほど遠くにあるのですから、届くはずがないのです。それでも私は、その場から星空を見上げたまま、同じ言葉を繰り返しました。

 繰り返し、繰り返し。何回繰り返したか自分では分からなくなってしまった頃、喉に絡んでざらついた私の声に、他の声音が重なりました。


「あなたは何故そうまでして星になりたいのですか?」


 空から頭に響いてくるような声でした。女性とも男性とも、若いとも幼いとも取れるそれに、私は、掠れた声を張り上げます。


「もう嫌なんです。ここで生きていたくないのです。お星さまは、願いを叶えてくれるものでしょう? どうか私の願いを叶えてください。そちらに行かせてください」


 しんと、冷たい夜の空気が耳を擦りました。空からの返事はありません。聞こえなかったのかと思い、もう一度、全く同じことを言い直そうとしたら、ようやく声が降って来ました。


「人の願いを叶えるのはその人自身です。願いを叶えてくれるという私達に願いを掛け、そうして願いを叶えられる者は、私達に勇気を貰って、自分で願いを叶えるのです。あなたの願いはあなたが自分で叶えて御覧なさい」

「出来ません」


 口を衝いて出たのは、そんな言葉です。それからもう何度か、同じことを反芻しました。


「出来ないのです。私はどうやってもそちらに行けないのです。私には翼がありません」

「私達星は、確かに願いを叶えるものです。けれど星は、人々の心の中にもあるのです」


 必死に懇願するあまり、泣きそうになりながらも、私は耳を傾けました。空の声は、柔らかく続けます。


「空へ舞おうと思わないで下さい。あなたの星はその胸の中にあります。それを光らせることが一人で出来ないのなら、きっと星が欠けてしまっているんです。ですから頼れる人を頼りなさい。そうして色んな人から星の欠片を集めて、少しずつ光らせていきなさい。沢山の人から集めた欠片を合わせたら、きっと、とても暖かい光が生まれるはずですよ」


 そっと、自分の胸に触れてみました。冷たい夜風ですっかり冷えた胸元は、手の平の熱を奪うばかり。私の胸にある星は、もう朽ちてしまっているのではないかと思いました。そう思うと、ひどく悲しくなりました。

 夜空の星が、稲光のように明滅したように思え、顔を上げてみたものの、私はその眩しさに目を塞いでしまいます。


「ほんの少しだけ、私も欠片を分けましょう。その胸を暖かくしてみせましょう」


 そう言われて少しすると、星が纏っているものは、目を開いていられるくらいの淡い光に戻っていました。もう一度胸に手を当ててみれば、先程よりも仄かに熱を感じました。


「さあ、お戻りなさい。あなたの星の欠片は、もうこちらにはありません。あなたの星は、空では輝けない星です。あなたの中で、静かに、少しずつ大きく、輝き続けるものです。あなたが私達のようになりたいのなら、その優しい輝きを、そっと外に漏らしなさい。そうすればあなた自身がいつか、綺麗な星空になるでしょう」


 私は、まだ胸に手を当て続けていました。

 学校にいる時みたいな、笑い声は聞こえません。悪口も聞こえません。今はただ頭上の星だけが、優しさを小雨のように、ぽつぽつと落としておりました。暖かな雨水は私の頬を濡らします。

 帰らなきゃ、と思いました。

 今の私は、この頬を零れる星の欠片を、家族に見せなければならないような気がしたのです。全て零れて、輝きを失ってしまう前に、見てもらいたかったのです。私は見上げていた星空に背を向けました。きらきらした欠片を落としながら、走りました。

 早鐘を打つ胸に手を当てると、肌寒い空の下だというのに、暖かさを感じました。

 ああ、と私は気付きます。

 私の星は、目に見えない所で、ずっと輝こうとしていたのでしょう。私を殺そうとしていたのは誰かの悪意だけではなかったのです。

 今なら、この胸中の星に、願いを叫ぶことが出来そうでした。胸の中にたっぷりと溜まった本当の心を、声に出せそうでした。

 周りは何も見えず、道の先だけを見つめて、走り続けます。そうしてようやく開け放った扉の向こうに、私は思わず叫んでしまいました。

 助けて。

 嗚咽に塗れた声が、玄関の先にいた家族に届きました。真っ先に駆け寄って私の顔を覗き込んだ母の目に、私の醜い顔が映っています。

 けれどその頬を、綺麗な流れ星が伝っていました。ぽろぽろと、流れることしか知らない私の星が、あまりに美しくて、全身が震えました。

 どれほど周りに馬鹿にされても、私の持っていた星は、夜空を泳ぐ流星の美しさを持っていました。心がどれだけ傷付いても、その美しさはきっと衰えなかったのです。

 私の中の星は、これから先も輝き続けてゆくのでしょう。その眩しい流れ星の温度を、私は大切な家族に零しました。


 ――文月の朗読の声が消えた室内で、堪えた泣き声が響いていた。文月の後ろで朗読を聞いていた九美が、口元を押さえて涙を流している。

 鼻をすする音がやけに響いていることに、彼女自身気付いたのだろう。目元を拭いながら、早足で病室を出て行ってしまった。御厨が彼女を引き止めようとしたものの、微かな少女の声に、その足は縫い留められる。


「わ、たし……」


 枕に頭を預けたまま、小春が、瞼を半分ほど開いていた。彼女の視線は、すぐ傍にいた文月よりも、慌てて駆け寄って来た御厨の方へ引き付けられた。御厨と顔を合わせるなり、彼女は目を瞠って、目を逸らしたその瞳を潤ませ始める。


「私……そうだ。私、逃げちゃった。ずっと、現実から逃げたくて……本の中で生きられたらなって、逃げちゃった。逃げちゃったよ……」


 幼子みたく声を上げて泣き出した小春の、痩せた白い手を、御厨が大きな手で包み込んだ。

 未だに、小春が眠ったままでいたかったのか、起きたかったのか分かっていない御厨は、彼女へ掛ける言葉を見つけられないまま、ただ震える小さな手に、熱を注ぎ続けていた。やがて彼女は、声を押し殺し始める。それでも肩を震わせて、涙を零し続けていた。取り乱していた瞳に冷静さが灯されたのを見て取り、文月が彼女へ微笑してみせた。


「君は、逃げたわけではない。自分の輝きを、探しに行ったんだろう? ……君は、よだかのように身を滅ぼすまで一人で頑張らなくて良い」

「…………私」

「君の外見を誰がどう言おうが、君は君だ。モノの見方も価値観も、人によって違う。骨董品を美しいと言う者がいる、けれどその価値など分からぬと言う者もいる。宝石を石と同等に並べる者がいれば、石を宝石のように大切にする者もいる。――君は、何億何千といる人間のうちの、たった数名に決められた価値を信じるな」


 鋭く突き抜けた針のような語調に、小春が唇を震わせた。濡れた頬は強張っている。文月は強い声色で、しかし優しく、話を先へ進める。


「どこかに必ず、君の価値を認めてくれる者がいる。日記帳から紐解いた君の心は、綺麗だった。君は、自分自身に対してしか愚痴を零していなかった。だから、俺は君を綺麗だと思ったんだ。君の心は、その心から目を逸らした心無い言葉に、簡単に壊されて良いものじゃない」


 水の膜を瞳に張って、小春が顔を歪めていった。涙が、止まることを知らないみたいに流れ続ける。蛍光灯の明かりに煌いて零れ落ちるそれは、流星の如く、すぐさま消えてしまう。消えては流れ、流れては消える星の、その軌跡だけは彼女の頬に残り続けていた。

 ベッドのヘッドボードに隣接する形で置かれている棚の上に、文月は原稿用紙を乗せた。それと同時に席を立った彼の右手が、トレンチコートのポケットの中に差し入れられる。そこから白いハンカチを取り出すと、それを小春の方へ差し出した。

 おずおずとそれを受け取った小春を見て、文月の表情が柔らかさを増した。


「御厨小春。君は心を大切にして、君らしく歩き続けると良い。君の持っている君らしさを、決して失くさないように。その君らしさをしかと見てくれる者に、君がいつか巡り会えるよう……俺は願っている」

「あ、りがとう……ございます……」

「御厨、あとは任せた」

「は!? ちょっ、帰るのかよ!?」


 御厨に何も返さず、コートを翻した文月は病室の外へ出て行ってしまった。

 残された兄妹は、どこか気まずい静寂に目を泳がせる。先に話し出したのは、御厨の方だ。


「あー……あいつ、文月っていうんだ。俺の友達……いや、相棒、でさ」


 今し方文月が着席していた椅子に腰掛け、御厨は笑った。今にも皺を作って崩れてしまいそうな、継ぎ接ぎだらけの笑みだった。


「そう、なんだ……」


 小春が御厨と話すことを気まずく思っている理由に、御厨が思い当たらないわけが無い。目を逸らされ続けている御厨は、小春が、いじめについて知られたことを嫌に思っているのだろうと理解している。

 現実から逃げたくて、という風に吐いた言葉すら、きっと彼女はなかったことにしたいと思っている。

 そう推し量れてしまったからこそ、御厨は、そこでもう駄目だった。

 小春が起きてくれた嬉しさや、小春と話せることへの喜びで必死に作っていた笑顔が、痙攣して崩れていく。喉の奥が狭まって、御厨は呼吸する度に苦しさを感じた。焼かれるように熱くなる瞳が、室内をやけに眩しく思わせる。


「お兄ちゃん……?」


 御厨は、俯いた。今の顔を小春に見せたくなくて、下を向いた。だけれどすぐに顔を上げる。目を合わせたか合わせないか、それが分からないくらい、二人の視線が絡み合ったのはあまりに短い時間だけだった。

 御厨が抱きしめた小春の体は、悲しいくらいに細くて、凍えそうなくらいに冷たかった。華奢な背中に回した両腕へ、強く力を込める。

 小春を抱きしめたのはいつぶりだろう。五年になるのだろうか、と考えて、御厨は苦笑する。それよりも、恐らくもっと昔だ。彼女がもっと、小さな頃だ。

 だからこそ、この五年で、小春がどれほど変わってしまったのか、御厨には分からなかった。

 動揺している小春は、けれども大人しく、御厨の抱擁を受け入れている。御厨は、より強く彼女を掻き抱いて、零れる涙の音に言の葉を重ねた。


「ごめん。ごめんな、小春。ずっと、辛い思いをしてたなんて、なにも知らなかったんだ。お前を助けたくて、お前の日記を読んじまって、助けていいのか分からなくて、悩んだ。悩んで……結局俺は、何年もお前を起こしてやれなかった。けど、今、文月に頼んで起こしてもらえて、良かったって、心から思った。お前が起きてくれて……良かった、って」

「お兄ちゃん……」

「お前がいないのは、すげぇ、寂しかった」


 ゆっくりと、御厨の体が離れて行く。既に泣き腫らしている小春の眼を覗き込んで、御厨は苦々しく笑んだ。潤んだ虹彩に映っている自分の顔なんて、当然御厨には見えなかった。しかし想像は付いたのだ。

 小春が真っ直ぐに見てくれているのは、情けなく歪んでいる、自分の顔だ、と。

 喉がしゃくり上げるみたいに震えて、乱れた呼吸音を唇から吐き出す。御厨はその涙声の余韻から意識を背けるべく、開口した。洪水の如く溢れ出る言葉を、彼は止めようと思わなかった。


「小春。俺は、お前が大好きだ。お前は大切な妹なんだよ。母さんだって、毎日お前の見舞いに行ってた。父さんだってお前を心配して、出張先から何回も電話かけてきてた。……なぁ、お前が学校でひどいことされてたとしても、お前は、それでも愛されているんだ。沢山、沢山愛されているんだよ。だから信じてくれ。俺達を、信じてくれよ。これからは嫌なことがあったら、なんだって話してくれ。一人で抱え込んで、苦しむなよ……っ。家族、なんだ。小春、俺達ちゃんと……家族、なんだよ……!」

「……うん」


 弱々しい小春の手が、御厨の袖を引く。歪みに歪んだ顔のまま彼女に体を寄せれば、力なく抱きしめられた。御厨も、先程のように、強く抱きしめ返す。

 小春の体温は、先刻抱きしめた時よりも、少しだけ、ほんの少しだけ、暖かな熱が灯っているように感じられた。

 息がかかるくらいの距離で見た小春の涙はまさに星の欠片。伝え合う体温はきっと、互いの星の暖かさなのだろう。

 冷静になって泣き止まなければ、と急く頭の中で、御厨はそんなことを考えていた。

 黙っていてごめんなさい。そんな謝罪を繰り返し始めた小春の歔欷を耳にしながら、御厨は微笑む。

 御厨にも、小春の心はとても綺麗に見えていた。


     (六)


 文月が病室を出ると、九美が立っていた。病室の正面にある壁へ背を預けている彼女は、目元にやっていた手をそっと下ろした。いくつもの感情が綯い交ぜになったような面貌を前にして、文月は頭を下げる。


「ありがとうございました。御厨さん」

「……礼を言うのは私の方でしょう」

「私にも、お礼を言う理由が――」

「それ、やめてくれるかしら」


 下げていた頭を持ち上げた文月が、普段通りの姿勢に直ってみたものの、九美は依然として不服そうにしている。それ、が何を指しているのか分からない。そんな文月の困惑を見付けたのだろう、九美が自身の後ろ頭を掻いた。


「『私』って言うの。あなた、九重と話している時は『俺』って言うでしょ。友達の親にわざわざ『私』なんていう男の人、いないと思うわよ」

「そう……ですね。すみません」

「別に謝らなくていいのよ。……ありがとう、文月くん。それと、綴者の書いているものを馬鹿にするようなことを言って、ごめんなさい」


 床に向けられた九美の顔は、上手く窺えない。勿論、文月がそれを、無理に覗き見ようとすることはなかった。頭を下げる代わりにそうされていることを察し、文月が感じたのは申し訳なさだ。

 どう言えば彼女の自尊心を傷付けず、彼女の気を立たせず、彼女に一切の非がないことを伝えられるだろう。それを考えなければと思いはしたが、文月の口は充分に思い見るより早く動いていた。


「いえ、謝らないで下さい。御厨さんがよだかの星をとても好いているのだなと、よく分かりましたから。それに……もし俺が、綴者のことをよく知らない時に、好きな作品の贋作を書かれて読み聞かせられたなら。不快に思ったはずです」

「そもそも贋作っていう言葉は、あまり良い印象を受けないものね」

「そうですね。偽物ですから。人の書物を真似て物語を綴るなんて、本を愛している人間に軽蔑されかねないことです。そんなことは誰より、綴者が分かっている。だから綴者は、自身の書く作品を『贋作』と呼ぶんです」


 九美が眉根を寄せる。しかし唇は苦笑を象っていた。目鼻立ちは似ていないのに、無理に笑っているその造形は、文月の記憶から引き出された御厨の顔と綺麗に重なった。だが、彼女の繕いに、文月は素知らぬふりをする。


「借り物ばかりの作品を、自分が零から書き上げたと嘯かぬよう、声高に『贋作』であることをはっきりと伝える。それは誤解を生ませない為であり、自身を戒める為でもあるそうです。私の恩師が、そう言っていました」

「そう……。誤解、ね。私も、偽物を偽物だと言っていたら、良かったのかしらね」

「偽物、ですか?」

「……ねぇ、私、綺麗かしら?」


 慮外なことに、文月は目を皿のようにした。持ち上がった上瞼が次第に下がっていき、やがて元の位置に落ち着く。

 陶器みたいな頬の上で、人為的に造られたような左右対称の双眼が、文月に返事を求める。滑らかな輪郭も、高い鼻も、桜色の唇も、全てが人形じみていた。例えるならば、美しく見える比率を考えて描かれた、絵の中の人物、といったところだ。文月は世辞抜きに頷いた。


「そうですね、綺麗です」

「これ、偽物なのよ」

「……なるほど。そういうことだったんですか」


 造られたもののよう、と思わせるそれはまさに、造りものだったのだ。

 贋作と言う偽物はすべからく否定すべきである、と考えていた彼女が、自分自身に抱いていた呵責はどれほどのものだったのだろうか。

 彼女は己の面に手を当てて、悔しげな声を真っ直ぐ吐き捨てた。彼女の正義が微かに漏れたのは、内側で凛と聳える芯の強さの表れだろう。


「醜い顔立ちの人間が虐げられるのは、どうしてなのかしらね。学生時代は酷いものだったわ。だから、大人になったら手術をして、綺麗な顔になりたいって思ったのよ。自分のことしか考えていなかったから。私に夫が出来て、娘が生まれた時のことなんて考えていなかった。……作り替えた顔には、似てくれないのよね。私の顔のせいで娘が悩むくらいなら、顔なんて、作り替えなければ良かった」

「御厨さん、小春さんの日記を読まれていたんですか?」

「……ええ、読んだわ。けど、どうして分かったのかしら」

「なんとなく、ですよ。貴方も、御厨――……彼と同じことで、悩んでいたのですね」

「……そう。九重も、そうなのね」

「はい」


 瞳に暖かな色を灯して、九美は少しだけ顎を持ち上げた。天井が無かったなら、彼女は星を仰いだはずだ。彼女が見据える先に夜空は無い。病院の廊下に、とても小さく、呟きに似た音吐が流れた。


「『僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう』」

「……暗誦、出来るんですか?」

「小学生の頃、学芸会でよだかの星の演劇をしたのよ。私がよだかを演じたの。醜い顔と言ったら九美だ、って、指名されてね。初めは嫌で嫌で仕方がなかった。よだかの星っていう作品の良さも、自分や同級生への苛立ちで霞んで見えなかったわ」


 さながら台詞のような語りが、この場の空気を涼しいものにする。真作の中でよだかが昇った空の温度が、辺りに蔓延っているみたいだった。切なさを誘う声付きのまま、九美が独白を紡ぐ。


「でも、ちゃんと演じてみたら、よだかの気持ちが手に取るように分かって、泣きたくもないのに涙が出てきて、微笑まなきゃいけない場面で泣いていた。醜い顔で泣きながら、私もよだかのようになりたいと思った。なり方が、分からなかったけれど」

「……そう、だったんですか」

「それで、星にはなれないから、遠くの空に行くことにしたのよ。顔を変えて、元の私を知ってる人がいない所に引っ越して」


 過去を凝望していた九美の口から、あ、と小さな母音が飛び出した。唾と一緒に息を一つ飲み下し、九美はこれまでの調子に戻った。舞台を下りた演者は、役でもなんでもない自分の本心を、嘲笑で覆ってしまう。

 人は作った顔で本当のことを隠す道化だ、と言わんばかりに、彼女は自虐的な笑みを浮かべていた。


「どうでもいい昔話は置いておきましょうか。とりあえず、今になってようやく分かったのは、私は綺麗な星を持っていなかったってことよ」

「そんなことはないです。小春さんのために涙を流した貴方の星も、綺麗でしょうから」

「……本当にそうなら、良いのだけれど」


 力の抜けた声色が、静かに響いて消えて行く。疲れてしまったみたいに、九美が膝を折ってしゃがみ込んだ。彼女のか細い肩が震えて見えたのは、きっと錯覚だ。それでも文月は、「大丈夫ですよ」と投げかけた。

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