翼ある疵
田村らさ
翼
《Siamo angeli con un’ala soltanto e possiamo volare solo restando abbracciati.》
(Luciano De Crescenzo, I pensieri di Bellavista)
夜を三段階に分けたとしたならば、彼女は二段階目にその姿を現すことが多かった。
ずっと聴こえていた歌に誘われて、わたしはドニプル川に沿って街を南から北に向かっていた。はじめはスラックスのポケットに手を突っ込んで歩きながら。徐々に大きくなる歌声に、思っていたよりも近づけていないような気分になるにつれ早足に。
そうして上弦の月が西に傾き、建物の陰に隠れるころにはほとんど駆け足で、黄金ミハイール修道院の前の道路を通るころにはすでに息も切れ切れになっていた。
歌は確かに、聞こえつづけていた。
あるいは、歌と言うべきではないのかもしれない。金属管のなかを空気が通るときに立てるような、もっと即物的に言うならばフルートのような音が、とても旋律的とは言い難い断続的なフレーズをこぼれさせているだけなのだ。金属質の音に遠くから聞こえるブッポウソウの鳴き声が重なる。
わたしはルーマニアの作曲家のあるフルート協奏曲を思い出していた。フランス語に強くないわたしであったからその題名を覚えておくことはできなかったのだが、調性の崩壊した、息の長い弦楽伴奏の上でただようフルートの奇妙な浮遊感、寒々しい現実味のなさはこの夜を表すにぴったりであるように思えた。
ミハイール修道院の通用門は夜でも鍵がかかっておらず、警備員もいない。わたしはためらうことなく、歌に導かれるままその敷地に足を踏み入れた。昼間はあからさまな黄金のドームと、わざとらしい空色の装飾壁によって、まるで安っぽいおもちゃのような見た目をキエフ市民の、観光客の目にさらしている修道院ではあるが、夜の文法のなかではその嘘くさささえもきちんと居場所を得ることができる。
歌は、ほんの数日前からわたしの耳に聞こえるようになっていた。夜の十一時をすぎると、本当に小さな音で、それでも無視できない存在感を持って頭の中の一部と共鳴し続けた。なにか他のことをして気を紛らわせれば意識から追い出すことはできるものの、一度気にしてしまえばもうその歌にしか注意が向かなくなってしまう。最初は、当然幻聴かと思った。もともと深くはない夜の睡眠はこの数日完全に失われてしまっていた。
はじめてこの歌がわたしの耳に届いたとき、わたしはふと気が付くと眠れぬ寝床から起き上がり、寝巻の上にそのまま外套を羽織って街にふらふらと流れだし、歌の聴こえる方へと歩いていた。結局なにがその歌を奏でているのかを突きとめようと街を徘徊するうち、夜は明けはじめる。同時に歌は聴こえなくなり、わたしはある種の失望を抱え、アパルトマンに帰り着いたときには外套を脱ぐことも忘れてベッドに倒れ伏していた。
考えてみれば一晩の幻聴に付き合って深夜のキエフを無駄に歩き回ったわけで、自嘲気味にわたしは顔をしかめ、平常通りの日常に戻ろうとしたのだが、その晩も昨晩と全く同じように歌が聞こえるとあっては事情が違ってきた。
幻聴をやり過ごして精神科にかかるという選択肢もあったのだが、わたしはその日も、その次の日も、無駄に夜の街をさまよった。その繰り返しでこの夜に至るわけなのだが、わたしは今夜ばかりは歌の主を視界に入れて見せる、できればその上で会話をしてみせる、そう考えていた。昨日も、その前の日もそう思っていたのだが。
金属の多いミハイール修道院の敷地内で歌は何重にも反響していたが、何日もこの歌ばかりを追ってきたわたしはどこから歌が聴こえるのかを特定することには慣れていた。連日の寝不足か緊張からか、高鳴る胸に片手を当てながら早歩きで、聖堂の裏手に回る。
少しあたりを見回して、顔を上げると、そこに彼女はいた。
体の力が抜けていく。やっと、やっと見つけた。
女はたしかにそのからだから、わたしを毎晩悩ませたあの歌を響かせていた――が、それは彼女の口からでも喉からでもなかった。お行儀よく閉じられた唇は、この数日の間一度も開かれたことすらなさそうにすぼめられている。
鋭く、細い目つきがこちらを眺めている。小首を傾げて、聖ミハイル聖堂の屋根に飾られたハリストスのイコンの真正面で足を組んで座っている彼女は、いかにもその不遜な態度で胸に抱く被害妄想を表現しようとしているかのようであった。
だが、わたしから言葉を奪ってしまったのは彼女のたたずまいではない。それは、左肩からぶら下がる翼――右肩にもあるはずの相方を失い、片方だけになった――だった。
チタン色の輝きを放つその翼は、もう何年も使われていないのだろうか、力なく垂れ下がっているのだが、わたしはそれでも直観的にあの歌はこの翼の中で響いているものだろうと推測した。
片一方だけになったその翼は、もし精気が宿り端から端までぴんと伸ばされたなら、体に不釣り合いなほど大きく見えるであろう。しかし、それほど大きい翼も、彼女を飛翔させることについてはなんの役にも立たないのだ。
視線が合ってからわずかに五秒くらいだっただろうか。彼女はなんの未練もなさそうに体を翻して、聖堂の屋根の上を駆けて逃げ出した。
とっさに追いかけようとしたのだが、背の大きく開いた扇情的なブルーのドレスの右肩、ほんらい翼が生えているべき場所にある、汚らしくなにかがもぎ取られたような肉の引き攣り痕に目を奪われて、足がすくむ。
てっきり片方の翼だけでもある程度空を飛べるのかと思ったら、聖堂の屋根の端から女は軽く跳ぶと、萎えた左翼は軽くはばたかせて空中でバランスを取るだけで、ふわりと街路の植え込みに着地した後は軽やかに地面を滑るようにしてキエフの複雑な街路に溶け込んでいった。
あっけにとられたわたしはふた呼吸くらいおいてから慌てて彼女の向かったであろう方向に駆けだしたのだが、時すでに遅く、彼女がどこに行ったかは皆目見当もつかなくなっており、その後も彼女を追ってふらふらと街をさまよっているとそのうち陽が昇り、それと同時に歌は途絶えてしまった。
どうやら、街全体が彼女の存在に気付いているらしい。そもそも、わたし以外の人間と彼女の関係について今までまるで考えが回っていなかったのがおかしいのだが、人目に付けばいかにも人外といったふうな彼女の姿は誰の記憶にも残るはずだ。
デザイナーという職業柄、人に出会わずにいようと思えばいくらでも出会わずにいられるわたしであったから、彼女がうわさになっていることすら、テレビで彼女の話題が取り上げられた今になってはじめて知ったわけなのだが。
彼女は簡単にキエフの
今だに官給のものから置き換えられていないわたしのちいさなブラウン管の中では、天使を見たと称する市民たちが、不自然に饒舌に、思いのたけをカメラに向かって述べていた。
低俗極まりなく彼女の姿形とその美醜について言及するもの、涙を流しながら天使がもたらした啓示について語らうもの、どれもこれも嘘くさく肩をすくめてしまう。
が、ひとりの肉体労働者然とした風采の男がこう述べた……「俺は、天使の左翼をどうしてももいでやりてぇんだ、いや……どうしてとは言えないが……それでも……」
マイクを向けるレポーターもこれにはぎょっとして、数瞬ひるんだのちにもごもごと意味のない数音節のごまかすようなフレーズを吐いた。男は苦々しげな表情でカメラの前を小走りに去ってしまう。
意味の分からない一幕であることはテレビ局の人間にとっても、視聴者にとっても、わたしにとっても同じであったが――胸のうちで先ほどのかれの言葉、声色、表情をいろいろな角度から矯めつ眇めつしながら、かれだけはほんとうに天使を目撃していると、わたしは控えめに確信した。
いかにも頭脳労働を蔑視しているかのようなあの肉体労働者然とした若者が、乏しい発想力であの天使に対して「翼をもぎとりたい」と感じ、それを口にしたというのはわたしにとっては大きなショックであった。なぜなら、わたし自身そう思っていながら、そう思っていることにすら気づいていなかったような感情を、少なくとも彼は理解しているからであった。
どうしてなのかはよくわからない……がそれでも、とにかくあの翼はなんとも我慢ならない、なにかわれわれをいらつかせるようなものであった。まちがいなく、彼女を実際にみたものなら、確実に抱くであろうただ一つの感慨と言えた。
わたしはベッド脇のちいさなテーブルの上に置かれたリモコンでコンポを操作して適当に音楽をかけた。ルビンシテインの『石の島』……たしか、後半に「天使の夢」と題された一曲があるはずのピアノ組曲だ。
肩をすくめてここ数日滞っていた仕事のことに頭を切り替えようとする。わたしはデザイナーだ。そのとき、ふとあの天使をモチーフに用いるのはどうだろうと思いついた。
一度、小さなメモ帳に彼女の姿を左翼まできちんと含めて描いてから、右翼を付け加えてみる……。あぁ、ダメだ、構図が堕落してしまう。というより、何か不自然だ。
では、と右翼を黒インクで塗りつぶし、思い切って左翼までを塗りつぶしてみる。……前よりはいくぶんかよくなったが、それでも足りない。少し考えてから、彼女を後ろから描くことにした。跪いて、ドレスの開いた背中から、見るもおぞましい傷口を二つ晒している女。
大きくうなずいた。これなのだ、たぶん。われわれが期待しているものというのは。
天使がやってきてからのキエフの街の雰囲気はそう変わらないようで、やはり少し違って見える。なによりも、道ゆく人間が、ほんのたまにではあるが、歩きながらほんの上を見上げる動作をするのが、その少しの変化をいちばん象徴していた。
しかし、昼間に彼女が現れるはずはない。なぜなら、歌が聴こえないからだ。それに周りの人間が気付いていないということは……もしかして、あの歌を聴いているのはわたしだけなのだろうか? 可能性はある。もし、あの歌が誰の耳にも聴こえるものであったなら、彼女は毎日のように目撃され、というよりも今頃はとっくに捕まえられてキエフ動物園でヒツジやアジアゾウと肩を並べているはずなのだから。
なら、なぜわたしだけに? というよりも、あの歌とも呼べないようなかぼそい周波数はそれなら、なんのために出されているのか?
考えは深まって行かず、その代りに天使に対する執着だけが増していることに気づいてはいたが、それを自分ではどうすることもできなかった。
言うまでもないことだろうが、彼女の容姿に動物的に単純に惹かれたというわけではもちろんなく、もっと言うならば深夜、大聖堂の屋根の上で歌う片翼の天使という安っぽい詩情に感銘されたわけでもない。彼女の背の傷跡に嗜虐的な欲求や美を感じたわけでもない……。うまく表現できないのだが、もっと、いらつき、怒りといったようなものとしか言いようのないものにわたしはとらわれていたのだった。
ふと、日常生活の何気ない瞬間に、視界の四隅から順に光が喪われて、天使の歌声だけが空洞になった頭の中を響き渡る。そんな幻覚と幻聴が一度に襲い掛かってくることもまれではなかった。そういったことがあるたびに、わたしはやはり苛立たしくなるのであった。ただ夜の街に現れただけの天使に、小説のなかの人物のようなオブセッションを示す道理はない。また、彼女にわたしを惹きつけるだけの権利などあろうはずもないのだ。だが、そう考えれば考えるほど頭の中の一部分は確実に天使のことを考えてしまっていることに気付くのであった。
禿頭に何個かあざを残すいかつい外見のうちに学識を備えた典型的な都市型インテリヘンツィヤ、わたしが今まで何十回とデザインを手がけた雑誌の編集長であるボリスはその日の打ち合わせを、予想通り天使についての世間話からはじめた。
「セーニャ(ロシア、ウクライナの男性名アルセーニイの愛称形)、お前は見てないのか? 話題の
ボリスは上等な革張りのソファに深く腰掛けて、ドアを開け入ってきたわたしの方に目線を飛ばす。大学生のころ向こうに留学していたためだろうか、ボリスのわざとらしいロシア訛りのウクライナ語が彼を気取った、またそれでいて田舎臭い人物に見せかける。今のウクライナにおいてロシア訛りというのは危険な代物だ。
あの影を見たか、そう問われたわたしは一瞬返答に困った。正直に答えるべきか、そうではないか。ボリスはジャーナリストである前にわたしの友人だから、わたしが気軽に見た、と言ってもそれを記事にするために強引な手段を取るとは思っていないが、締め切りを目前にしたときのボリスはわたしの友人である前にジャーナリストになる。用心に越したことはない。
「いや、見ていない……なんだ、お前のところもこういうスピリチュアルな話題に手を出すようになったのか」
ボリスは鼻でわたしのこの発言を取り下げた。
「はっ、天使様がうちの経済ニュース欄に気の利いた記事の一つでも提供してくれるってなら断りはすまいが……」
絡ませた長い脚のかかとを、ずしりと古びた木机の角にコツコツと当てながら、かれが言外にバカにしようとしているのは、天使ばかりではないのだろう。
「いちいち金のかかる俺のイラストなんかじゃなくて、天使の写真でも使ったら安上がりだし部数も伸びるんじゃないのか?」
軽口に軽口で返すと、ボリスはさも心外であるかのように不快さで眉を顰めた。
「バカ言うな、うちはウクライナ語で書かれた唯一科学的な雑誌を標榜してるんだぞ。まあ、天使様の出現に再現性があるとでもなれば話は別だが」
わたしのイラストには再現性があるということだろうか。
「それこそ、天使様の正体というか、その出現パターンくらいは誰かに調査させてもいいんだがな……。しかしそれが、手間暇かけてまで、われわれがやるべき仕事なのかと言ったらそうじゃないだろう」
というより、われわれが興味を持つような相手ではない、と思いたいのだろう。
ボリスが天使に対しての屈折はわたしが抱える屈折と似通っているところがあるように思えた。
天使が集める注目の質の、あまりにお粗末なこと。それがあまりにかれの属するジャーナリズムの世界で最も消費しやすい素材とされていること。〝高尚な〟教育を受けたかれにとって、厳密に計算された努力や、論理的な手続きといったものから無縁な、彼女のある意味暴力的な存在感は、そういった実体を伴わない張りぼてに依存するいまのジャーナリズムそのものへの不安、不信感や、努力――とかれが思っているもの――を否定されるような感覚と相まってボリスをいらだたせる。
結果、かれは天使の存在に対して冷笑的にならざるを得ないし、天使に対してかれのアプローチが通用するかどうかを確かめなくてはならなくなる。
きっと、ボリスの持つ不快感はわたしにも共通するものなのだ。
わたしが不躾にかれの内面を想像している間に打ち合わせが終わったらしい。どうせ、いつも通りに適当に描けばいい話だ。
ひと段落ついた風のボリスは、くつろいだ表情でコンピュータを操作し始めた。勝手に出て行け、ということなのだろう。わたしは腰を浮かせて帰り支度をする。
「……セーニャ、ついに天使様の写真が撮られたらしいな」
しかし、軽い気分で口に出されたであろうその台詞は、妙にわたしのこころをゆさぶった。
ボリスが指し示す画面を覗き込むと、たしかにそこには彼女がいた。
ホロデツキ邸宅――怪物屋敷と一般に呼ばれている――をバックにキエフの街並みを駆ける天使を、斜め後ろから捉えた写真で、どうやらわたしが彼女を見かけたすぐあとくらいの時間に撮られたらしいものと月の角度から想像できる。
巨大な翼を、引きずらない程度に持ち上げて、醜い傷跡を見せながら駆ける天使は、彼女が何者かに追われていることを如実に表していた。おそらく、この写真を撮った人間か、その仲間に見つかってその場から逃げ出すとこだったのだろう。
しかしその必死さはわたしの前から立ち去ったときのある種の優雅さとはかけ離れていて、どこか不信に思えた。
写真の枠内で彼女の横顔は、どこか超然さを失っていて、わたしはやはり裏切られたように感じてしまう。それでも、その一枚絵は民衆の心を引きつける格好のシンボルとなるはずだった。
言葉を失って写真に見入るわたしをボリスが疑わしげにゆする。「なあおい、どうしたんだ。昔の女にでも似ていたか」
俗なたとえに笑ってしまって、集中が途切れ、わたしは薄っぺらい笑いをすぐに用意することが出来た。
「いや、なんでもない。今後デザインに使えそうな写真だと思っただけだよ」
ああ、と納得した表情のボリス。
「なら、一枚印刷してやろう。たしかお前のところはまだまともな印刷機すらないんだろう? デザイナーのくせに」
「ああ……頼む」
写真を受け取り、帰宅する最中も地下鉄の中でそれを何度も見てしまう。だが、印刷され、より小さな画素に圧縮された彼女の表情はディテールを失って、一個の奇形として彼女を見ることを私に許した。
その晩も結局、わたしは歌に誘われて街をさまよった。一度見つけたことがあるからには、もっと探すのが得意になるかと思ったが、彼女のほうも隠れるのが上手になったらしい。
半ばゲームを楽しむような感覚で彼女の歌の痕跡を追いながら、わたしはいざ彼女を捉えることが出来たらどうやってその翼を断ち落とすか、という想像にふけっていた。
やはり、彼女の断翼は彼女が生きたまま行われなければなるまい。背もたれのない(当然だ)椅子に腰かけた彼女の翼の付け根に大きな鋏をあて、一思いにばさり、といくところを想像する。その時の彼女の苦悶に満ちた、屈辱的な表情はいくらでも想像することが出来て、それは非常にわたしを満足させるのだが、萎えた翼からどれくらい出血するのか、そういったことになると全く考えが及ばないどころか、興味すら持てないことにわたしは少しはっとした。
いや、しかし、実際の断翼はもっと無粋なものになるだろう。天使も当然大人しく椅子に腰かけてそのような暴力を許すはずはなく、そのため、ほんとうに断翼が行われるとしたら、大勢で彼女を縛り押さえつけ、誰かわたしでない屈強な男が、鋸やチェーンソーを用いて、てこずりながら切り落とすはずなのだ……。
どの想像も不思議と無音で、男たちの荒い息遣いも、彼女の泣き叫ぶ声も不必要なように思われた。そして、なによりも不必要なのは彼女以外の女の影だった。彼女の断翼は男性と、もし仮にあったとして、見るも不細工な女の手によってのみ行われるべきだった。
ああ、しかし、天使の美しさよ! だがそれは褒め称えられるべきでない美しさだ。
物語に登場する奇形の女は必ず美貌を備えていなくてはならない。機能的に考えて明らかである以前に、そもそも美しくなければ物語にならないのだから当然だ。
たとえば全く想像できないことではあるが、我々の天使の鼻があと半センチ低かったら、目がもっと吊り上っていたら、唇がねじれていたら、彼女はおそらく無視され、存在しなかったことにされていただろう。彼女の美しさはあくまでも、彼女が存在を認められるための最低条件でしかなく、だからこそなんのありがたみも審美的な欲求も与えない。
彼女の写真は報道機関によって発表されたものでなく、初出はネット上のBBSだった。その美貌に対する下世話な単語で埋め尽くされるディスプレイをぼんやりながめていると、それでもやはり随所に彼女に対する卑屈さ、恨み、怒りといった感情を透かして見ることが出来た。
特に言明されたのはやはり彼女を断翼することへの欲求で、それは先ほどのわたしの想像にも大きく反映されているのだが、残虐なCGの中でバタ臭い苦悶の表情を浮かべる天使像はやはりわたしのなかの実像と違っている。
いつもそうだ、夜暗の粘度が大きくなるにつれて歌は少しだけ大きく聞こえる。日付が変わったころからわたしの捜索はいっそう本格的になる。
芸術学校の独特のシルエットを右手に、少し駆けながらキエフの街を西に向かうわたしの目の前に、ひとりの女が向かいからわたしと同じように駆けてきた。
こんな時間に人とすれ違うなんて、やはり天使を探す人が増えたのだろうか、そんなことを思いながら速度を落とし、横に避けようとすると、女もまた足を緩め、首をかしげてわたしに話しかけてきた。
「あなた、クソでも喰らえ聞いてないの? 天使は東よ便秘のルシファ―!」
息を切らせ、こわばった表情で女は早口にそう述べる。言葉の端々に混じる口汚い言葉に面食らう。汚言症(コプロラリア)によるものなのだろうか?
顔も見知らぬ女に突然訳知り顔で話しかけられた私はひるみ、なにか間の抜けたフレーズをとっさに口走る。
「ヒドロパルクよ、あそこでファック今さっき、天使が見つかったのよぶち殺すぞ」
「えーっと……その、つまり?」
「つまり、って、あなたも天使を追ってるんじゃないの? ヒドロパルクで、バカヤロウ目撃情報が出たのよ」
そういってそのまま駆けだそうとする女を追いかける。事情はよくわからないが、おそらくこの女は何人かと共同して天使を探しているということなのだろう。確かに、そちらの方が効率は断然いい。
前を走る女の時代遅れなファッション、世を憎むかのごとく歪んだ(当人にそんな意思はないのかもしれないが)目つきを思い出して、彼女がなぜ天使を追うのかは想像がつくような気はした。
そして、彼女の腰に結わえられたロープに目がいってしまう。もしかして、彼女の属する集団がやろうとしていることというのは?
「もうかなりの人がヒドロパルクに着いた様ね死ね、もう捉えられててもおかしくないんじゃないかしら」
スマートフォンの端末を覗き込みながらそうつぶやく女。いったい、何人規模の集団なんだろうか。
何人かわたしたちと同じように夜の街を走る若者と合流しながら、芸術学校のあるあたりから二十分ほども走ると、橋を渡り終え、ヒドロパルクに着いてしまう。ヒドロパルクは、ドニプル川の中に浮かぶ島に作られた公園で、当然深夜にそこで遊ぶ人の姿はない、ないはずなのだが、その日だけは人の気配があった。
ヒドロパルクは先日のデモの痕跡を色濃く残しており、そこかしこに焼き捨てられたロシア国旗や踏みつけられたプーチンの肖像などが打ち捨てられていた。掃除もろくにされておらず、木の葉に埋もれた小路は走りづらい。
ヒドロパルクを抜けようとしていたということは、ドニプル川を越えて東岸と西岸を行き来しようとしていたのであろう。馬鹿な真似をしたものだ、ヒドロパルクは出入り口となる道は北と南に二つづつ、計四つしかなく、そこを見張られてしまえば、天使はそこから抜け出すことはできない。ヴェネツィア橋(最悪のネーミングセンスだ)を経由してもうひとつの島に渡ることはできるが、そちらの島からはどこにも抜けることが出来ない。
「あっちよ……南西のビーチに腐れオマンコ逃げたらしいわ」
女が指し示す方向に公園の道を行くと、暗闇の中で無数の懐中電灯の光に照らされたビーチが木々の中からすぐ現れた。なにかがおかしい、首を捻りながらも高鳴る動悸は、場の雰囲気がもたらすものなのだろうか?
そこには、ある程度予想はしていたものの、最悪の光景が広がっていた。
人間がその野獣性を、大脳の下に隠された本能をあらわにしている。
すでに、陰惨な暴力は開始されていた。
十人ほどの男に取り囲まれた天使はすでにその四肢を縄で縛られており、猿ぐつわをかまされ、手ごろな岩の上にうつぶせに転がされていた。仲間の内でももっとも屈強そうな男がそれを岩に押さえつけ、天使のドレスを破って翼の付け根をあらわにさせようとする。
遠目からそれを確認したわたしは、取り巻く群集を押し分けて間近でそれを見ようとする。
低い声がささやき交わされ、これから起こることへの期待があたりに横溢する。
「今から断翼を行う! われわれは、キエフ市民の精神に、真にキエフ的なものを取り戻そうとするものである」
そう宣言する少しやせた男の後ろで、小鬼のように発達した筋肉を誇示して、林業に使われるような鋸を抱え上げた男が立っている。
集まった見物人からは最初控えめなうめきがあげられ、徐々に大きな歓声と変わって行く。
浜辺に集まった、目の色を変えた市民たち。中には寝巻のままで飛び出してきたであろう者たちもいる。一様に顔がほてり、それぞれがこの魅力的な断罪ショーを構成していた。
集団催眠にかかったかのような群集の中で、半分以上着衣が破れ、下の白い素肌のあちこちから血をにじませている天使は、目隠しと猿ぐつわによってその立場を明らかにさせられていた。
しかし――芋虫のように岩の上で暴れる天使は、わたしの知っている彼女とはなにか違うのだ。わたしが知っている天使は背の開いたドレスを着ていたはずだ、翼はあんな無粋な黒ではなかったはずだ、それに――
なおも暴れることをやめない天使を静かにさせようと、誰かが大きなスコップを振りかざして、彼女の頭に打ちおろそうとしたその瞬間、わたしは叫んでいた。
「やめろ!」
わたしの怒号は喧騒の中でも浮き上がって聴こえ、一瞬あたりは突然教師に恫喝された後の教室のように静かになった。
スコップはわたし声に驚いたかのように角度を変え、斜めから彼女の頭を斬りつけた。ぱっくりと割れる額から、闇の中でなお赤黒いものが大量に流れ出る。
ドレスの背中を破き、その翼の正体を知った男は驚愕の声を挙げた。
「なんだ、こいつは」
男はよろよろと後ろにへたり込んでしまう。彼の見た情景は、酔いを覚ますのにもっとも効果的だったに違いない。
そう、その天使の翼は右についていたのだ。
翼が彼女の肉体から生えているのではなく、ドレスに縫い付けられていたことを悟った男も、それを間近で見ていた鋸を構える男もさぞ驚愕したことに違いない。それを取り巻いて眺める群集も、一歩引いたところから今までより大きな声でざわめきはじめた。
「まさか、人間なんじゃ」
ひるんだように彼女の周囲から人々が距離を取り、そこには懐中電灯の光だけがあてられる。振り下ろされたスコップの当たりどころが悪かったのだろうか、額から大量の血を流して横たわる彼女の姿から、一気に神聖が喪われていった。
どう見ても、それは天使に成りすました一人の女でしかなかった。
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