青ひげ

たつおか

青ひげ

 夫とは3年前、友人の伝手で知り合った。

 初対面の時の夫は私よりも二つだけ歳上ということであったが、その口元を覆う強い髭のせいか、どこか近寄りがたい気難しそうな人間に思えたものだ。

 しかしそんな強面の容貌と違い、彼は優しい人であった。

 言葉遣いは穏やかで笑みを絶やさず、また見た目に似合わず純情で、デートにホラー映画などをチョイスしてしまう『無神経さ』もどこか憎めなく――私達は友人を介して何度か会ううちに恋におち、ついには昨年ゴールインを迎えた。

 結婚してすぐに私は夫の生家へと嫁いだ。

 嫁いだとは言っても、幼少の砌に両親を始めとする親族のほとんどを亡くしていた夫の家とあっては、なんら気遣いもない至極気楽なものであった。

 祖父の代に没落したという元名家の夫の家は、屋敷と呼ぶにふさわしい広さを持っていた。その大きさたるや、玄関ホールだけで私の家の半分はあるのではないかと思えるほどの豪華さだ。

 夫はこの家について『祖父からの遺産だから大したことは無いよ』といったが、一般人とし生まれ育ってきた私にとってのそれは、別世界以外の何物でもない。

 そして結婚しても夫の優しさと愛に変わりはなかった。

 恋人であった頃と同じように呼び合い愛を育んでいく生活には、不満などひとつもなかった。――そう、不満などは。

 しかしただひとつ、私には疑問があった。

 それは私が、『夫のことを何も知らない』ということである。

 彼の人となりは先にも述べた通りであるが、肝心な彼の趣味や仕事というものを私はまったく知らない事に気付いたのだ。

 恋人同士であった頃は、私の想いだけを一身に受け止めてくれる夫に満足していたものだったが、いざ結婚して夫婦となるに到り、私は自分が彼のことを何も知らないことに気付いたのだった。

 当然のようそれに気付いた私は夫へと訊ねた。

 好きな食べ物は? 好きな音楽は? 映画は? 趣味は? あなたは何の仕事をしているの?

 そう理解を求める私に対しても夫はいつも、あの柔らか気な笑顔で『急に全部を知る必要はないよ』と私を諭してくれた。これから少しづつ分かり合っていけばいいとさえ気遣ってくれた。

 それでも私は夫に迫った。

『ならば、せめてあなたが何の仕事をしているのかだけでも教えて』

 しかし――それ以上のことを夫の口から聞くことは出来なかった。ことさら自分の仕事に関してだけはどんなタイミングで、どんなに強く迫ろうとも語ってくれようとはしないのだ。

 もとより夫は在宅ながら、何かの作業に従事しているようであった。この屋敷にある地下室が昔からの夫の仕事場ということである。

 そして平素日頃より彼は、そこへの入室を私に禁じていた。

 それを私に言いつける時の彼はどこか違って見えた。鬼気迫る形相というか、必死にあの地下室にある何かを守ろうとしているように私には思えたのだった。

 そして今――私はその地下室の扉の前にいる。

 もちろんの事ながら、夫は外出している。週に何度か彼は、『打ち合わせ』と称して外出する。言うまでもなく、私もその機を見計らってここにいるのだ。

 覗き穴のような鍵穴が穿たれた鉄の扉は、明らかに他の部屋のものとは違っていた。そしてこの部屋の鍵が、私達の寝室の金庫に保管されていること知ってから、私はいつかこの部屋へ侵入してやろうと機を伺っていた。

 そして私は今日、真鍮製の小さな鍵を差し込み――夫の仕事場の扉を開けた。

 そこからは、なだらかな坂のように浅い石段が螺旋状に地下へと伸びていた。

 視界はなんともほの暗い。

 一応壁面の所々に照明は設けられているのだが、それらひとつひとつの間隔が遠いせいか、明かりは満足に足元まで行き渡らない。

 そんな階段の造りもまた特殊だ。全面石造りで明らかに年代を感じさせるそれは、さながら中世を舞台にした映画のセットのよう古く威圧感がある。こんな階段を行き来して、一体あの人はどんな仕事をしているというのだろう?

 そのことに関する夫からの説明が無い代わりに、私は彼の身の回りからいくつかその真相に到るであろう事実を発見していた。

 彼の衣服を洗濯する際、その衣類――しかも下着に赤褐色の染みがついていることが良くある。それだけではない。一度は何か『肉片』のような物体がこびり付いていたことすらあった。

 それら事実とこの地下室、そしてどうしても夫が隠したがるそんな仕事に私は――とてつもなく恐ろしい想像をしてしまうのだ。

 しかし一方で夫を信じている面もある。否、むしろそっちの面の方がまだ私の中では大きい。ゆえに今こうして夫の秘密を探ろうとする行為も、その信頼を確固たるものとするべき行為であるのだ。――そんな風に自分の罪悪感を言い聞かせながら私は階段を降り続けた。

 やがて階段を降りきったそこには、もうひとつドアがあった。

 今度のそれは、入ってきた時のものとは違うステンレス製の新しいものである。

 レバー式のドアノブに手を掛けると、手首を捻るまでもなく私の手の重みでそれは静かに降りた。そうしてドアを開ける。

 目の前に開けた暗がりの室内はまったく言っていいほど視界が利かない。そんな闇の中には何か甘酸っぱいような、饐えたニオイが充満していた。

 明かりのスイッチは無いものかと、入ってすぐの壁面を手で探る。

 そうして指先に当たったそれらしきスイッチを入れた瞬間、室内は今までの階段とは比べものにならないほどの白光で眩く満たされた。

 病院の、診察室の一室を思わせるような部屋であった。

 白一色の壁面に事務机と兼用しているであろうステンレスの作業台。そして眼が痛くなるほどの青白い蛍光灯の光の下、私が見たものは――その正面に置かれた人間の首であった。

 おおよそ人の表情とは思えぬほどに眉と口元を歪めた女性の生首が、その苦悶と恨みに満ちた眼差しで私を見据えていた。

 呼吸を忘れた。

 それが恐怖であるものなのか、それとも凡そ予想していた事実と同じであったことへの衝撃か、私はそれを前にしてただ体を引きつらせた。

 やがてはそんな女の首以外にも、この場に様々な悪意が転がっていることを私は悟る。

 作業台の上に無造作に転がされた人間の手足――四肢と内臓をくりぬかれ、さながら食用牛の精肉ブロックのよう壁にかけられた人間の胴体――コレクションのように棚に並べられる胎児の屍骸―――それらを前にして、私はただ言葉を失った。

 そんな私へと、

「ついに、知ってしまったね」

 突如として背後から声が掛けられた。

 それに気付いて振り向くと、そこには外出のコートも脱がない夫か佇んでいた。

「家に入って声を掛けても、誰も出ないからまさかとは思ったんだ」

 夫の言葉に、ようやく私は息苦しさを覚えて大きく息をついた。

 あまりの事実にどうやら私はここで数時間以上、自我自失のまま立ち尽くしていたようだった。

「なによ、何なのよ、コレ! どういうことなの!!」

 そんな夫を前に、私は感情的に叫び出していた。

「どうして今まで隠していたのよ!? なぜ話してくれなかったの!?」

 私のヒステリックな声に、夫は何も応えることなくただ視線を伏せた。

「こういうことが趣味だったっていうのなら、話してくれればよかったじゃない。なぜ、黙っていたのよ」

「君に、嫌われると思った。こんなことに安らぎを覚えてしまう自分の心の闇以上に、君に嫌われることの方が怖かったんだ」

「何を今さら!!」

 叫びながら、夫を叱咤しながら――いつしか私は泣き出していた。

 もうすでに、心の中には恐怖はなくなっていた。

 夫を猟奇殺人者だと軽蔑する気持ちもなかった。

 ただ私は、悲しかったのだ。

 自分ひとりが彼を愛しているつもりになっていたことが情けなくて、そして夫が自分にこのことを打ち明けてくれなかったことが悔しくて――そんなことが悲しくて、私は泣いていたのだった。

「もう、どうしようもないわ。こんなに、こんなに殺して!」

 そしてついに地に崩れ落ちて声を上げてしまった私に対して、

「え? 『殺す』ッて、君は勘違いしてるぞ」

 それまでの深刻な表情がウソのよう、夫はそんな私へとうろたえた表情を見せた。

「何言ってのよ、言い訳のつもりなの!? ここにある首だけの女の人も、胴体だけの人も、全部あなたが殺したんでしょ? 殺して、ここで解体するのがあなたの趣味だったんでしょ!?」

「だから、ちょっと待ってくれ、君は本当に誤解している」

 言うや否や、夫は作業台の上にある腕の一本を引き寄せると、私の目の前でそれにナイフを突き立てた。

 同時に鋸引きのようにしてそれを切断しようと作業を始める夫。その光景に眼をそむける私へと、彼はその両断した腕の断面をこちらに向けた。

「良く見てみて。これが、人間の死体かい?」

 その言葉に促されるまま見たそこにあったものは、血管も筋肉の中身も無い白一色の蝋のような断面であった。

 そのあまりの光景に唖然となる私へと夫はさらに、作業台の上においてあった女性の生首を運んでくる。

「見てごらん。確かに良くは出来ているけど、死んだ人間の首はこんなわざとらしい表情はしないよ」

 促されるまま夫からその首を受け取り、ようやく私はその違いに気付いた。件の首の表皮――皮膚の感触は明らかにゴムや何やかのそれであった。更にはその頭髪も、セルロイドの糸を束ねたカツラのような質感であった。

 そうしてその首を抱いたまま茫然自失となる私に小さく笑うと、夫はさらに作業机の上から一冊、なにかの冊子を取り出した。

 それこそは、

「コレを、覚えてるかい?」

「え? ――あぁ!」

 それこそは忘れもしない一番最初のデートの時――夫が私を誘って行ったホラー映画のパンフレットであった。そしてそのパンフレットの表紙には、いま腕の中に抱く生首とまったく同じ彼女が、変わらぬ表情で私に威嚇の視線を投げかけていた。

「僕はね、こういったホラーやSFXの特殊メイク・造形なんかを仕事にしてる造形師なんだ。君との最初のデートの時も、自分の自慢の作品を君に見せたくてこの映画に誘ったんだけど――君ずいぶん怖がって、しまいには怒り出してしまったから」

 そうなのだ。

 人一倍、こうしたジャンルの苦手な私はあの時、映画に連れてきた夫を酷く怒ったものだった。

「それ以降は、ずっと自分がこの仕事についていることを言い出せないでいた。君のことを本当に愛してるから、嫌われるのが怖かったんだ。だから結婚してもずっと隠してた」

「じゃあ、シャツに付いていた血痕や肉片は?」

「アレは塗料と特殊樹皮のカスさ。ここを出る時にはずいぶんと気をつけて払ってはいたんだけど、一度付くとなかなか落ちないからね」

 いつもの――否、今まで以上に穏やかで、そしてどこか申し訳なさそうに笑う夫の笑顔は、私達が初めて出会った時のものと同じだった。

「ずっと隠していてゴメン。僕はこういう人間なんだ。誰よりも残酷なものが好きで、そしてそういうものを作るのがたまらなく好きな人間なんだ。こんな僕だけど――どうか、嫌いにならないで」

「ばか、本当に不器用なんだから」

 私の元に膝まづいて謝る夫を、私は抱きしめていた。

「怖いのは嫌いだけど、あなたのことは大好きなのよ。私だって今まで、ずっとあなたのことを判らなくて寂しかったんだから」

「ご、ゴメン。――え、でも、それじゃあ」

「嫌いになんかならないわ。これでやっと私は何の後ろめたさもなく、あなたを愛することが出来るんだから。――だからあなたも、私に全てを見せて。今までの分も、これからの分も」

 そういって微笑む私を、夫も強く抱きしめてくれた。


 こうして、私達の物語の第一幕は閉じた。

 この先どんなことがあっても、私はもうこの人を嫌いにはならないだろう。そして疑いもしない。

 結婚式のあの日、神の前で誓ったそのことを私はもう一度誓い直して―――夫と口付けを交わすのだった。



※     ※     ※





 この一年後、とある女性の行方不明事件が起きる――。

 失踪したのは世界的な造形師の妻で、捜査の甲斐もむなしくその当時彼女が発見されることはなかった。

 しかしこの失踪事件こそが始まりであったのだ。

 後に『現代版・青ひげ』の再来として巷間を震え上がらせることとなる『連続妻女猟奇殺人事件』の、そのプロローグであった。







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青ひげ たつおか @tatuoka

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