たつおか



 フロントガラスから見上げる空(そこ)に星は無い。

 ヘッドライトの切り裂く闇(そこ)に生ける者の影は無い。


 霧とも雨ともつかぬ燻煙の如き夜気の充満する空は、さながらプランクトンの屍骸が細やかな澱(おり)となって海底へ沈んでいく世界を私に想起させる。

 油脂でくぐもった眼鏡(フレーム)を覗き込むかのよう薄ぼんやりと不明瞭な光量が夜を満たす今宵の様は、まさに澱に透かされた陽光を海底から見上げる光景そのものだ。

 そんな夜は、瞳に反射(かえ)る閃光のひとつ、そして鼻腔から吸い込む空気の一呼吸に至るまで、どれもこれもが儚げだった。

 全ては梅雨場独特の天候がそうさせるのであろう。しかし私の心は―――そんな夜の気配にひどく鬱塞となり、そして不安に掻き立てられるのだ。

 今宵はなんとも妖気に満ちている。かようなその瘴気に当てられた私の頭は、一人車を走らせるここが本当に現実の世界(もの)であるのかすら判断出来なくなっている。

 今この瞬間を現実のものと理解できる術を私は何ひとつ持ててはいない。『認識すること』こそが知性を持ちえた人間(ひと)の世界を把握する手段だと言うのであるならば―――手に取る事もかなわずに視(み)るも曖昧なこの夜は、少なくとも私にとっては現実世界のそれではないということになる。この道の行き先が現世と陸続きになっている保障など、何処にも無いということになる。そして私は、そんな認識不可の道を今走っている。

 思うにこれ以上の恐怖は無いよう思う。しかし私は―――私はそれを知りながらも、捕らえどころのないそんな不安に駆られながらもなお、アクセルから足を離せないでいる。

 何にも増して私は、この夜の果てに待つ“不安”それに憧憬(あこがれ)を抱いているのだ。そしてそんな恐怖に触れることによって、狂いだしたいと思っている。

 そんな衝動に駆られて、わざわざこんな夜を選んで私は走り出したのだから―――こんな夜でもなければ、私は満足に狂うことすら出来ないのだから。

 そんな妄想を夜に溶け込ませる私へと、助手席に座る友人は、『貉』――と一言漏らした。

 思わぬその声に私の狂気はたちどころ霧散し、そして一瞬にして人間(もと)の実態を現世に取り戻す。夜(せかい)を認識する。

「――、むじな?」

 怪訝(けげん)に、そしてぶっきらぼうに私はそれを繰り返した。友人の一言によって己の狂気を中断されたことに、いささか私は憤りを覚えていた。なぜ狂わせておいてくれない?

 そんな私の大人気ない心の内に気付くことなく、友人は小泉八雲の怪談だと注を入れた。

「あぁ。のっぺらぼうがどうとか、狸がどうとかのアレか」

 仕方なしと割り切りながらもしかし、声の尾にまだ不満の響きを引きながら私も応える。

 そう、むじな――と友人も頷く。

 先ほどから私達の間で交わされている“むじな”とは、明治の作家・小泉八雲によって書かれた『怪談』の中に登場するエピソードのひとつである。

 かいつまんでその内容を説明するのならば、紀伊国坂(きのくにざか)という場所において深夜、ある商人の男が少女と蕎麦屋の姿を模した化け物に化かされる――といった話だ。

 これを読んだ時分学生だった私は、そのあまりの内容の無さと、そして『屋台の灯りもかき消えた』で唐突に締められる結末に、ひどく困惑したことを覚えている。

 いや――この物語に対するそんな考えは今も変わってはいないのだろう。事実私は今、その話を思い出しながらなんとも尻の座りの悪さを感じているのだから。

 そんな私の作品批評を聞いて友人は、これは作中に結末を求める部類の話ではない――と苦笑いながらにいった。

「『作中に結末を求める話ではない』?」

 一度聞いただけでは理解に戸惑う言い回しに、私はさらに怪訝な表情を浮かべる。

 作中に結末を求める部類の話ではない―――そんな私の反応に、友人も鹿爪らしくもう一度繰り返す。

 かの物語は読み手の想像力を喚起させる話なのだ。

「喚起、させる?」

 そう。もしあの物語に続きがあったとして、その表題通りむじなに化かされた商人が朝に同じ場所で目を覚ましたならば――それはかくも微笑ましい昔話で終わったことだろう。しかしもし、あそこに出た化け物達が人喰いの妖怪だったとしたら? 言うまでもなくそれは商人が喰われて終わる、さぞおぞましい物語になったことだろう。

 そんな二通りの結末を私は友人の言葉から想像して、

「なるほど。それで『作中に結末を求める話ではない』、という訳か」

 納得した。

 結末を、読む者それぞれに想像させることこそが、あの小説の“オチ”であり、そして“機能”であるのだ。

 納得がいくと共に、その話を通して当時、『疑心暗鬼』なる言葉も教わったことを私は思い出していた。

「それにしても、あのブツ切れ感は否めないな。せめて冒頭でも終わりにでも、『後の物語は各自でご想像ください』――なんて一言を加えていてくれたなら、僕はこんな胸の痞(つか)えを十数年も引きずらなくて済んだのに」

 そう子供のような感想を述べる私に、友人は若干リクライニングシートを倒しながら小さなため息をついた。

 別称を『再度の怪』とも言うこの物語はコレで完成されている。

「再度の怪?」

 また聞きなれぬ言葉が出てきた。それに加えて、『完成している』の意味もまた、私は判りかねている。

 それら私の質問に応える友人の答えはこのようなものであった。

 同じことを二度繰り返すことによって、この作品は物語の怪異性を強く読み手に印象付けるのだと言う。確かにこの話の中で商人の男は、二度立て続けに化かされている。

 そして商人の化かされる回数が“二度”であるからこそ、『むじな』と言う物語は完成されているのだ。

 一度だけ化かされて終わったのならばただの怪奇談だ。三度化かされたのならば、その怪異性が突出しすぎてしまい、『どうせ同じことが続くのだろう』、と読み手にその後の想像を辞めさせてしまう。

 だからこそ、

「だからこそ――二度“だけ”脅かすわけか」

 故に『再度の怪』――物語は完成されている。

 それら演出を八雲が意図して用いたかは知る由もないが、ともあれかの物語は私が考えていた以上に効果的で、そして巧妙なものであるように思えた。

 そしてその物語を――例にもれずその結末を夢想することは―――

「もし、あの物語に続きがあるのだとしたら―――」

 やがて再び、

「商人の男は―――」

 私の狂気の妄想を喚起させる。

「何を見たのだろうな」


 それこそが、この夜の先にある狂気の正体なのかもしれないよ。


「え―――」

 その声に私は我に返る。

 今のは友人の声(もの)であったか? それとも私の妄想の中の声であったのか? ――その一瞬、私にはその区別がまったくとしてつかなかった。

 そして考える。

 今、隣に座る友人は誰であったろうか?

 そしてその段に至り、

「あ………」

 ようやく私は悟った。


 これは―――私の友人などではない。


 否、私の“友人”などであるはずがないのだ。なぜならこんな自分の狂気の深淵を覗き込める類の友人など、私にはいなかったからだ。

 平素において、友人達にこんな狂気を相談をしようものならば、彼らはそれを立ちの悪いジョークと一笑に付すだろう。そしてそれが本気だと判れば、彼らは私の前から立ち去るに違いない。

 そう――私には、己の狂気を打ち明けられる友人などいなかった。だからこそ私はこんな夜を狙っては、偽りの狂気を宵闇の瘴気の中に解かし、一人“狂った気”でいたのだ。

 ならば―――

 ならば、いま隣にいるものは誰なのだという?

 そもそも人であるものか? これが何であるのかも私には皆目見当がつかない。そんなものが今、私の隣にいる。あの商人の男と自分とが重なる。

 得体の知れぬ恐怖に駆られながら、それでも私はそんな隣のものを確認しようと瞳だけを向かせる。眼球がその根から千切れ、眼窩からこぼれ落ちてしまいそうになるほど、私は隣のそれ一点を凝視する。

 しかしながら僅かにシートを倒している隣のそれは、ちょうどその顔だけが望めない。確認できるのは黒のシャツに黒のスラックス―――まるで宵の闇を纏ったかのようなその装いの上に組む両手だけが、異様に白くのっぺりと見えた。

 何故、今まで気付けずにいたのだろう。

 思い返せば、こんな自分の狂気を教えてくれる者がいなかったからこそ、私はその狂気を――その正体・答えを求めて“一人”車を走らせていたのだ。もとより隣に誰もいないことなど、私が誰よりも分かっていたはずだ。


ムジナ―――


 あぁ、声がする。

 いや――それは私の頭の中にのみ響いている自身のものか?

 見つめる闇の中に一点―――まるで宙に浮いているが如きその、白くのっぺりとした両手に私の妄想はまたその鎌首をもたげる。

 あの話の中に出てきた商人の男もまた、求めていたのではないだろうか―――私が求める狂気とまったく同じものを求めていたのではないのだろうか?

 だからこそ男は、あんな夜更けに外出などしていたのだ―――私がこんな夜に車を走らせたように。

 そして男は巡り会えたのだ―――今の私と同じように。

 ならば男は何を見たのだ―――私は何を見る?

 男はあの後どうなった―――私はどうなるというのだ。

 学生の時分、初めてあの物語を読んだ時に覚えた胸の痞え――あれは、物語の不条理さに憤ったからではない。

 私はあの男が羨ましかったのだ。

 狂気を望み、そして望む狂気に辿り着けた男への羨望と憧憬――同じものを求めながらも、幼さ故に自分の心(なか)のそれに気付けなかった私は、今日にいたるまでそれを“胸の痞え”などと勘違いして生きてきたのだ。

 フロントガラスから見上げる空(そこ)に星は無い。

 ヘッドライトの切り裂く闇(そこ)に生ける者の影は無い。

 私には今のこの状況が――この世界の全てが認識できない。ここは異境だ。そして、私もまた辿り着いたのだ。男と同じ場所へ。

 蛞蝓(なめくじ)がのたうった跡のよう脂汗が額を濡らし、激しく脈打った鼓動は吐き出す呼吸(いき)が切れるほどに強く胸の内を叩いていた―――斯様にして自律神経の失調した肉体は、如実にその興奮を私へと伝えている。

 バックミラーに移る私の口元はいつしか歪(いびつ)に吊り上り、涙腺限界に涙を湛えた瞳は今にも泣き出しそうに震える。乱れた呼吸に合わせて両肩は激しく上下し、腹の中の臓物は残らず縮み上がる。そうして体全体を引き攣らせ、声ならぬ声で―――笑った。

 そして私は振り向く。

 と同時に――――――









 ヘッドライトの灯りもかき消えた。








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