1-1/王の啓示 - 2



「予知夢?」


 度し難いほどに最悪な夢を見た日の翌朝のこと。

 ガラス壁の向こうから照りつける朝日に煩わしさを覚えつつ、レッドドッグ行きつけのカフェでいつも通りAモーニングのエッグサンドを食し、熱々の珈琲をひたすら吐息で冷ましていた時だった。


「そう、予知夢。予め知る夢と書いて予知夢だ、背の君ジョンよ。深層心理学においては『抑圧された願望と現実の体験を混ぜてさらにそれを歪めて視覚に現したもの』が夢であるという説があるが、これを参考にした場合、背の君が見たという『滅亡した世界』は、背の君の体験ないしは願望がそれぞれに対して作用し歪められたものということになる。しかし、退屈なほど平和主義者である背の君がそれを望むことは考え難いうえ、ましてや世紀末なぞ体験したこともないであろう? ならば古代的観点で分析した方が面白かろう」


 俺の向かい側の席、真正面に座るのは、外見年齢十代後半の黒髪の美女。

 彼女はモーニングの付け合わせである葉野菜の切れ端をフォークの先で遊びながら、俺について何もかも知った様な口でそう語った。


 彼女の名前はアネット。俺の「隣人」だ。


 結局俺が見た夢は、あの悪魔と思しき男が最後に発した謎めいた台詞で終わるという、なんとも奇天烈で続きが気になる終わり方の夢であった。

 俺はこれを、最近関わった事件に起因する精神的不調が見せたものではないかと予想し、アネットに話したところ、先の様な見解が返ってきたということだ。


 アネットは見た目こそ発育の良い十代少女の様な外見だが、実際の年齢は不詳であり、かつては合衆国陸軍の兵士だったという経歴を持つ剛毅な女性だ。

 外見とは対照的に口調や価値観はかなり古風。

 一般常識からこういった不思議な現象や超常的な事象、それらに関わる様々な存在についても博識だ。


 反対に優しい言葉の選び方を知らないうえ、退屈というものを尽く嫌う。


「悪かったな、退屈な男で。ああその通りだよ。俺はこうやって毎朝行きつけのカフェに通って、一番安いエッグサンドと珈琲で一日を始めて、大きな事故も事件もなく誰も死なない平和な日常の繰り返しが大好きな、さ。世界の滅亡を望んだことなんて一度も無い。刺激が欲しいなら、他を当たるんだな」


 確かにアネットの言う通り、俺はあの様な世紀末を体験したことがないし、ましてやそんな世界を望んだこともない。

 しかし、平和主義であることを退屈と揶揄されたことについては、どうも納得がいかない。

 俺はこういう性分なのだ、それに平和を愛することの何が悪いというのか。

 子供染みてはいるが、反抗の意も込めて卑屈っぽく自分の事を語り、これが正常だと主張してみたのだ。


 ところが、アネットはこれを鼻で笑った。


「事実を素直に認める点には好感が持てるが、嘘を吐くならもう少しマシな嘘をついたらどうだろうか、背の君よ」


「嘘? 俺の言葉の何が嘘だっていうんだ」


「己の事を『どこにでもいる普通の人間』などと、よくもまぁその様な世迷言を謳えたものだな。吾との馴初めを、先の一件で己が何をしたのか、そして何をされたのかをもう忘れたというのか? 吾は悲しくて泣けてくるぞ」


 アネットは小さな溜息と共に不満を漏らし、そして俺はそれに反論することが出来なかった。


 彼女の言う通り、今の俺は

 経緯は省くが、切掛けはアネットと出会ったとある事件だ。

 俺はたった今それを指摘されたことで、自分はまだ普通の人間であると無意識に思っていたことを漸く自覚したのだ。


 決して忘れていたわけではない。忘れるはずがない。

 少なくともアネットが俺の前に現れる限り、『あの事件』を一生忘れることはない。


 だが、その時に自分が何をしでかしたのかを思い返そうとすると、水に落ちた鉄鎚かなづちの如く急速に気持ちが沈むのである。

 まるで胃の底に十キロの鉄球でも落とされた感じがする。

 はっきり言って憂鬱だ。


「はぁ、悪かったよ。頼むからその話はやめてくれ、朝からこんなブルーな気分じゃ仕事に支障をきたしてしまう。それよりもさっきの夢の話の続きだ」


「予知夢のことか? 文字通り背の君が見た夢は、背の君の未来を映したものだろう。ただ先程は分かりやすいかと思ってそう言ったが、正確には啓示と言った方が正しいかもしれんな」


「啓示?」


「天の導き、あるいはこの世ならざるものからの忠告というやつだ。何か背の君に伝えたい事でもあったのだろう」


「忠告……一体何から?」


「さてな」


「肝心なところはあやふやかよ」


「全く気にするなとは言わんが、今気にしても仕様がない。『ああ、こういう事だったのか』と後になって気付く類のそれだ。そんなものをいくら考えたところで、一利もなかろう」


 もし伝えたかった内容が、本当に「ハンバーガーセットと引き換えに魂を売る人間が悪魔の王となる」などというふざけた啓示なら全く信憑性は無い。

 が、俺としては手遅れになる前に何かしら対策をしておきたいところだ。俺の心の安寧の為にも。


 とはいえ、アネットの言うことは一理あるかもしれない。

 今はあの不明瞭で半ばふざけた忠告とやらを気にするよりも、今日の仕事に集中するべきだろう。


 ふと懐で振動を感じ、胸ポケットの中に入れている携帯電話を取り出してメッセージの着信を確認する。

 早速仕事だ。


主任チーフから呼び出しだ。それ食べきったら行くぞ」


「いや、吾はもう満足した。しかしこうも毎日Aモーニングだと飽きが来るぞ……そうだ! 明日はDモーニングのローストチキンサンドなぞどうだろうか、背の君よ」


「金欠だ。週末まで我慢しろ。マスター、お勘定頼むよ」


 頬を膨らますアネットを無視し、俺はLAタイムズを読みふけっている明らかに暇を持て余している無精髭のマスターが待ち構えるカウンターに向かい、会計を済ませようする。


 料理や珈琲は美味い割に普段から客の少ない店――それが好きで通っているわけだが――で、今日は俺以外に客もいないので、すぐに対応してくれる。


「あんた、いつも頼んでるよな」


 するとカウンターに置いた代金を確認しながら、普段は無口な彼が珍しく話しかけてきた。


「え? あ、あぁ~……俺の仕事、結構激務なんだよ」


「仕事は?」


「……警察官だ」


「そうか」


 俺の返答にマスターはどこか渋い顔を浮かべ、そして何かを納得した様に僅かに頷いた。


「辛いこともあるだろうが、しっかりな。だが無理はするなよ」


「は、はぁ」


「それとこれから毎朝のの分は、タダってわけにはいかないが……半額でいい」


「供え物?……あっ」


「代わりと言ってはなんだが……他に客がいるときは、『お友達』との会話は出来るだけ声を抑えくれ。普段から客は多くないが、これ以上客足が遠退いても困る。あんたには悪いがな」


「いや、その……こちらこそ気を遣わせてすまない。いつもありがとう」


 礼を述べると、マスターは頷きながら「まいどあり」と呟いて代金を受け取り、そのまま黙してカウンターの奥へ戻って行った。


 マスターの言葉を脳内で反芻し、その発言の原因たるアネットが座っている場所を見れば、そこには誰もいない。


 在るのは食べかけの和え野菜を残した皿だけ。


『どうした背の君よ。あの上司に呼び出されているのであろう? 疾く向かわなくて良いのか?』


 アネットは俺の背後に立っていた。

 いや、正確には俺の背後に寄り添っていた。


 その身体は浮いている。


 細く艶めかしい二本の脚は地面に着いておらず、まるで水中を優雅に泳ぐ人魚の様に宙を漂っている。

 マスターの位置からなら浮遊するアネットの姿は見えるはずだが、マスターは全く気付いていない。

 いや気付くはずがないのだ。


 なぜなら、彼にアネットの姿は視認できないからだ。


 それ故にどうやらマスターは、私が警察官――正確には連邦捜査局の捜査官だが――という過酷な仕事に尽くし過ぎて精神的な病を患い、毎朝供養の如く亡き空想の友人イマジナリーフレンドと談笑しながら食事をしている風に見えていた様だ。

 普段無口で強面なマスターの気遣いに心中で感涙する反面、哀れな人間に見られていることを知って、かなり複雑な気持ちになった。


「わかってるよ、アネット。行くぞ」


 俺は頭を振って思考を切り替え、マスターから受けた注意を早速実践し、それこそ独り言の様に呟きながら静かにカフェを後にした。

 そんな俺の背後を彼女は、締め切った扉もすり抜けてピタリと付いて来る。


 アネットの事を俺以外の人間が説明するなら、文字通りの空想の友人だろう。

 だが彼女は、ただの友人ではない。


 かと言って、俺達の関係を説明することは容易ではない。

 互いのことは家族の様によく知っているようで、実は赤の他人程度にしか知らなかったりするし、一心同体の如く意思疎通出来ることもあれば、思考や価値観が全く理解できないこともある。

 一側面からでは理解できない関係なのだ。


 ただ、今の形に至った理由は一言で説明することが出来る。




 ――俺が彼女を殺したからだ。




『ところで、先刻背の君の話を聞いた後すぐに吾も啓示を受けたのだがな、それによると『今日の昼食はチーズバーガーセットが吉』らしい。ほら確か、背の君の仕事場のビルに“なんたらキング”というバーガーの専門店があったであろう。ややや! 奇しくも名に『キング』が付いておるではないか! これは啓示に従うのが賢い選択というやつではないかな、背の君よ。背の君?』


「それは百パーセントお前の願望だろ」


 そんなかつての加害者と被害者の間抜けなやりとりをよそに、最高にクソッタレなLAの一日が始まるのだった。


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