ようかい雑記

四津谷案山子

日常の脇道

 私は今日、何を得て、何を失ったんだろう。

 今日という一日は、何と言えば良いんだろう。

 パソコンの画面端に映された時間を確認し、そろそろ明日の仕事に備え寝ようと思った時だ。私は耳元に囁かれたように、そんな疑問が頭に浮かんだ。

 分からない。いや、きっと答えも意味もないんだ。ぼんやりとそんなことを考えているうちにパソコンで観ていた動画が終わり、華やかだった画面が一瞬黒に変わる。そこには凍り付いた顔を頬杖で歪ませながら、パソコンに映し出された動画を目で流している私がいた。

 まるで人形、いや死体だ。私は一瞬映し出された自分の顔に、強い嫌悪感を抱いた。あれが私だって言うのか。あんな死体のような顔をした女が。

 しかし、それも当然だ。ただ意味も感慨もなく朝起きて、家を出て働き、夜にはぼんやりと時を噛み潰していく。それが私の日常なのだから。今こうして疲れた目を擦りながら見ている動画だって、他人の感動、対岸の火事だ。時間になればいつだってパソコンの電源を切り、明日に備えて寝てしまえる。

「………」

 どうしてこうなってしまったんだろうか。私は左右の視界を歪ませ、メガネの縁に伝う水滴に気づいた。そして一度それに気づいてしまうと、もう涙を止めることはできない。

 それなのにどうして、こんな風に固い表情のまま泣くのだろうか。私はいつの間にか、働くだけの歯車にでもなってしまったのか。

 しかし、それでも私を慰める者も、叱咤する者もこの部屋にはいない。実家に戻れば、親に会うことだってできる。けど私が叫びでもしない限り、この涙は蛇口からシンクに落ちる水滴と変わらない。

 私は指で涙を無造作に拭い、席を立つ。何か飲んで、もう寝てしまおう。

 しかし冷蔵庫を開けてみても、私が望むような飲み物はなかった。

 とことん最悪だ。私はまるで舞台俳優のようにオーバーに大きな溜息をつき、肩を落とした。

 最近帰りが遅かったせいだ。だから冷蔵庫の中身が消える一方だったんだ。しかしそう愚痴ったところで、冷蔵庫の中に何かが詰め込まれる訳じゃあない。かといって、今から湯を沸かして何かを飲もうという気にもなれない。

 何か買いに行こう。私はちらっと、ドアが開きっぱなしのユニットバスにある鏡を覗いた。自販機で冷たい缶ジュース、アイスコーヒーでも良い。何か買って、その場で飲んでしまえ。

 私は半ば自棄のような心持ちでそう決めると、鞄からキーケースを引っ張り出した。




 人間が拵えた夏のイベントが粗方過ぎても、自然の季節というものはそれに合わせて夏を終える気はないらしい。

 Tシャツとジャージ、サンダルと気軽な恰好で外に出た私は、ドアを開けた瞬間に顔にぶつかった熱気と湿度に声を上げた。

 ジャージのポケットに突っ込んだ手にはキーケースと、百円玉が数枚握られている。まるで駄菓子を買いに行く子供だ、などと思ってしまった。そういえば、昔良く遊びに行っていた個人営業のコンビニは、今も実家のそばに残っているのだろうか。

 さっさと行って、買って帰ろう。私はキョロキョロと周りを見渡しながらマンションの階段を下りる。

 突き当りまで下り、体の向きを変えて、また下る。踊り場を介して螺旋状に下っていく階段。エレベーターのないマンション。せっかくなら最上階が良いと借りた六 階の部屋も、今となっては世界から私を切り離そうとする牢獄のように思える。

 まるで、ちょっとした冒険だ。繰り返される行程に私はそんなことを思い、苦笑いした。足元を見れば照明に照らされたコンクリートの階段が、廊下を覗き込めば規則正しく並ぶ玄関が、外を覗き込めば人っ子一人いない夜景が、まるで異界、知らない世界のように感じる。

 耳を澄ませば、廊下から漏れる人の生活音や、遠くから聞こえるバイクの轟音、上の階層から聞こえる騒音は喧嘩だろうか、あらゆる音が私の脳を刺激し、緊張感を与えてくれる。今や部屋の中一人ぼっちで膝を抱えていた弱い女はいない。今の私は、ただ孤高にこの夜を歩く勇者になったのだ。

 私はすっかり機嫌を良くし、手摺り越しに目指している近場の自販機を見た。あれが私の冒険の、終着点だ。

 その時だった。暗がりにポツンと立っている自販機の光が、一瞬消えた。いや、正確には私の視界一杯に何かが通り、消えたかに見えたのだ。

「え……?」

 私は反射的に通り過ぎたそれを視線で追ったが、それが何だったのかを確認するよりも前に、それが地面に落ち、強かに叩きつけられる音を耳にした。

 うわ、と、私は瞬時にそれが何だったのかを理解し、目を瞑る。飛び降りたんだ、誰か、人が、目の前で。

「………」

 最悪だ。何で今、なんだ。私は下に落ちた誰かを呪った。やるなら始発の線路にでも飛び込んで、社会の停滞に貢献でもしてよ。

 そっと目を開け、私は震える手で手摺りを掴む。目測が外れ、掴もうとした手が一瞬空を掻いた時には小さく悲鳴を上げてしまった。

 あるのはただのミンチだ、人形だと自分に言い聞かせながら、私はゆっくりと下を見た。

 下にいたのは、二人の男のようだった。マンションの入り口の前で、地面に手足を伸ばし、モゾモゾと動いている。

 まだ、生きてんじゃん。その事実に若干の気味の悪さを覚えつつ、私はポケットに手を突っ込んだ。呼ぼうとしたのは警察か、救急車かケータイを部屋に残したままだと思い出したのは、それから数十秒必要であった。

 下の男達が動き出した。やたら背の高い、細見の男がフェンスに手を掛け、立ち上がった。

 寝たままだった片方はそれに対し、酔っ払いのように立ち上がった男の脚にしがみついたが、それを蹴りつけて振り払い、細見の男はよろよろとマンションから離れていった。蹴りつけられた男もフラフラと立ち上がり、それを追おうと立ち上がるが、数歩歩いただけで膝を折り倒れてしまう。

 私は茫然とそれを見守っていた。しかしハッと我に返り、踵を返して階段を降り始めた。

 違う。私は確信した、ただの飛び降りや事故じゃない。私は階段を下りながら、胸の鼓動がドンドンと高鳴っていくのを感じた。何かが起こっているんだ。

 マンションの入り口に辿り着いた私は、腰に手を添え、悪態をつきながら立ち去ろうとしている男に声をかけた。

「あの……大丈夫ですか」

 男はビクッと体を震わせ、こちらへとゆっくりと向き直った。

 中肉中背で、目つきが悪さが印象的な男だ。目を合わせていると、寒気を覚えるような独特な凄みがある。

「……あー、まぁ、大丈夫。……あんた、すぐに部屋へ戻った方が良いぞ」

 男はそれだけ言うと、腰を押さえたままヒョコヒョコと急ぎ足で男を追っていった。落下の際に引っ掛けたのか、着ていたTシャツの裾が破けており、男はそれを気にしているようだった。

 私は、それ以上の声をかけることができず、ただ握った両手を口元に寄せたまま男に付いていった。

 先ほど離れていった細見の男は、私が行こうとしていた自販機に手を付き、吐くように体をくの字に折らせていた。先ほどの落下で怪我でもしているのだろう。長い髪によって顔を覆い、肩で息をしているその姿は、近寄りがたい恐ろしさがあった。

「だぁー……いてて、酷い目にあった」

 男はそう声をかけながら、細見の男へゆっくりと近づく。

「大丈夫か? 口から血ぃ垂れてんぞ」

「当たり前だ! 四階から落ちりゃ血ぐらいでらぁ!」

 この化け物が。細見の男はそう叫び、噛みつくように顔を上げた。

 その顔を見て、私は小さく悲鳴を上げた。どっちが化け物だ。細見の男の顔は人とは思えない形相であった。目はギョロギョロと微かに飛び出し、肌は街路樹のようなごわごわとした硬質さが目立ち、口は耳の根本に届きそうなほどに裂けている。

「ああ? 何だその人間?」

 口裂けの怪物は、男の背後にいた私に気づき、怪訝な顔をする。一方で男も振り返り、嘆息していた。

「さあね……大方、あのマンションの住民だろ。面倒なことになってきた」

 お前のせいだぞ。と、男は怪物を睨んだ。

「何で逃げたんだよ?」

「あのムラマサに追われたんだ。逃げるたのは、問答無用で殺されると思ったからだよ……だが待て、俺はまだ何もしてねえ」

「許可なく人里に来て、通るかそんな申し開き」

「本当だって! ただの墓参りの帰りだ!」

 私を無視して話し合う二人。どうやら怪物は、この男を恐れているらしい。なんだか不法滞在のような会話だ。

「それに如月には連絡した。公衆電話で、なけなしの金使って! でも連絡がつかなかったから、仕方なく連絡なしで来たんだ!」

「ああ?」

 男はそのセリフに首を傾げ、それから。

「……ああ、そっか。如月さんな、今海外に行ってて連絡取れないんだ」

 と、合点が付いたと言うように声のトーンを上げた。

「そっかそっか。だから連絡が付かないまま来たのか。なるほどねぇ」

「お前……ふざけんなよ、俺がどんな気持ちで逃げたと思ってんだ」

 お前も来るんじゃねえよ。と、男は呆れたように答え、頭を掻き。

「……あ、あんた」

 と、思い出したように私に話しかけてきた。

「見ての通り、問題は解決したから。もう帰った方が良い。な?」

 そういう彼の声色には、分かっているな、という確認があったように思う。

「はぁ……あの」

 これは一体、どういうことなんですか。

 一体何があったのですか。

 そんな疑問は、弱い私の口から飛び出すことはできない。

「………」

 私は黙って会釈して、その場から離れていった。このままマンションに戻って、寝てしまおう。寝られるか分からないが、そうする他ない。

「まったく……面倒掛けさせやがって。俺明日も仕事あんだぞ」

「知るかよ。こっちは殺されるかと思ったんだ」

 背後では、二人がまた会話を再開している。

「お前さぁ……見つけたのが俺でラッキーだと思え。これが人間だったら、お前、間違いなくこんなんじゃ済まなかったぞ。如月さんがいない今、連中はやりたい放題やれるからな」

「四階から落とされたのが、こんなか」

「忘れるなよ。落ちたのはお前で、俺は寧ろ引っ張られた側だ」

「……ちなみに、ここらにいる怖いのって誰だよ?」

「ん、とりあえず有名どこは長将美、和田聡一、竹上蓮、老山……」

「竹上? 俺の親戚筋が竹上に殺されてるんだけどよ」

「諦めな、どう考えても返り討ちだ……夜明けまでに、町から出ろ」

「そうは言っても、夜明けまでもう二時間もないぞ」

 男は黙ったようだ。何か起きるのかと、私はチラッと振り返ってみた。

 二人は黙ったまま、顔をこっちに向けていた。

「なぁ、あんた。ちょっと」

 と、男は申し訳なさそうに手招きしながら、手招きしながらこっちに近づいてくる。

「あの……何ですか?」

「あんた、車持ってるか?」

「え……あ、はぁ」

 あっても、貸さない方が良いに決まっている。男は絶対に、あの怪物を運ばせる気だ。

「あの……すみません、持ってません」

「……そっか」

 男は仕方ない、というように顔を下げたが。

「そいつ、チラッと目が泳いだぞ」

 背後の怪物が、面白おかしそうに言った。

「無理やり協力させたくはない」

 男はきっぱりそう言って。

「さっきまで散々走ったけど、走るしかないだろ」

「冗談キツいぜ。俺はお前ほど頑丈じゃあねえんだよ」

 怪物は呻きながら体を揺すった。

「体がボロボロだ。どっかで匿ってくれ」

「それこそ問題だ。バレても責任を負える身じゃないし、あんたを家に寄らせたら、同居人がキレそうだ」

「同居人?」

「お前が気にすることじゃあねえだろ」

「あ、あの……」

 今はそんなことを話している場合じゃないでしょ。そう言おうとして、怪物がこっちを見た瞬間、喉を詰まらせる。

「……ま、なんだ」

 男は肩をすくませ、私の脇を通り過ぎた。

「夜分に悪かったな。もう帰ってくれ、後はこっちで」

「おい……ムラマサ!」

 怪物が小さく、声を荒げて叫ぶ。

 ムラマサと呼ばれた男は、キッと怪物に向き直った。

「何だ?」

「誰かこっちに来てるぞ……!」

「人間か?」

「それも祓いの香を焚いて……明らかに俺を殺しに来てるな」

 クソッタレ。と、怪物は鼻をボロボロの長シャツの袖で押さえながら毒づいた。私も怪物が向いている方を見てみるが、暗がりに伸びる通りに人影は見当たらない。

男、ムラマサさんは舌打ちし。

「何か持ってるか?」

「……いや、それらしいもんは」

「なら老山の野郎だな。話の通じない祓い屋だ」

 ムラマサさんはそう言うと、怪物が見ていた方向を見て黙り込む。

「逃げろ……俺がやる」

「は……? おい……」

「良いから、さっさと行け」

 ムラマサさんはそう言うと、私達を隠すように前に立った。

「何だって良い。とにかくここから離れろ、不法侵入で殺されるより、生きて……足が千切れるまで走った方がマシだろ?」

「……すまねぇ、この借りは」

「いや、二度と来んな。許可なしで……」

 頼むから。ムラマサはそう言いながら、左手でTシャツの裾を捲り、右手を腹部に添え。


 そして一息に、刀を引き抜いた。


「え……?」

 どこかに隠してたようには見えない。いや、私の目が確かなら、この男は腹からその血に濡れた刀を抜いた。

「なぁに、話を着けるだけだ。それにこっちは全身呪い塗れ、祓い屋の呪文なんて効かねえよ」

 そう告げるムラマサさんは、私の方を一瞥して。

「あんたも早く戻りな。巻き込まれるぞ」

 彼は優し気にそう言ってくれたが、私の心は決まっていた。

「あ……あの、あります! 車……!」

「ん?」

 私はキーケースをポケットから取り出し、告げた。

「持ってます! 車ッ!」

 怪物は私とムラマサさんの顔を交互に見ていたが。

「良いのかい?」

「はい……こっちです!」

 今、何が起きているか。この先に何があるのか。私には分からないし、彼らはきっと話してはくれないだろう。

 しかし、きっとこの衝動こそが私の本心だ。私だけの。

 マンションの脇にある駐車場に駆け込み、怪物を車の後部座席に乗せる。エンジンを掛けて私は、窓を開けてムラマサさんの方を見た。

 彼はこっちを見ているようだ。彼の背後にある自販機の照明で、どんな顔をしているかは分からないが、彼は刀の切っ先を地面に垂らし、そのまま怪物が見ていた方角へと歩き始めた。

 彼なら、きっと大丈夫だ。私は音を極力立てないよう、そっとアクセルを踏んだ。




「……良いぞ。話してやる」

 あれから一時間弱が経った。怪物が示した、あっち、というルートですらない曖昧な方角に苦戦しながらも車を飛ばしていると、後ろの怪物が口を開いた。

「俺達が何なのかとか、色々気になってるだろう?」

 私は少しの間、その申し出に応えられなかった。しかし。

「貴方は……人間じゃないの?」

 好奇心には勝てなかった。好奇心は猫をも殺すというが、本当に死の危険より好奇心を取ることがあるのだと、私は初めて思い知った。

 怪物は多くのことを語ってくれた。

 彼らが人間でなく、古くから人間に語らてきた人ならざる存在、妖怪であること。そして妖怪の多くが人間社会に溶け込んでいるが、一部人間にどうやっても馴染めないような妖怪がいることを。

 そんな妖怪と人間の衝突を避けるべく、妖怪を人間社会から遠ざけてきた鬼がいることを。ムラマサ、彼がその鬼の懐刀であることを。

「俺があそこにいたのは、昔俺を半殺しにした剣士の墓参りがしたかったからだ。人間の間じゃあ、結構名の知れた剣士らしいけど」

「自分を半殺しにしたのに?」

「ま、な……言っても分からないかも知れないが、今でも忘れられないんだよ」

 ふうん。と、私は相槌を打った。背後の怪物……いや、妖怪は、車内の暗がりでも分かるほどに見た目が普通じゃあないし、手足だって怖いくらいに長い。肩まで伸びている髪だってボサボサ、臭いも半端じゃあない。見た目は丸っきり浮浪者だが、妖怪の目線に立てば強かったり見えるのだろうか。

「ねえ……何でその剣士って? 何で戦ったの?」

 簡単な話だ。と、妖怪は言った。

「俺が人食いだからさ」

「え……」

「そこで良い。止めてくれ」

 妖怪はそう言い、私は慌てて車を止めた。道はすでに山道になっていて、峠から望める空は既に白んでいた。

 妖怪は車から降り、車の周りを回るように動きながら注意深く見渡す。

「ここからなら、一人でも充分逃げられる。ありがとうよ」

 妖怪は窓から私の顔を覗き込み、快活に言った。その悍ましい顔に若干引きながらも、私は頷いた。

「じゃあ……その、元気で」

「ああ。お前も塚原の爺に宜しく言っておいてくれ」

「つか、はら……誰?」

「俺を斬った剣士だよ、塚原卜伝、奴の名だ」




 自宅の前まで戻った私は、ムラマサさんを見つけた。彼はマンションの前の階段で座り、疲れ切ったように視線を下に落としていた。

「……ああ、戻ってきたか」

 彼は安心したように一息つき、それから立ち上がった。

「悪かった、変なことに巻き込んで。でも助かった」

 彼はそう言って、ポケットから何かを取り出し、私へと差し出した。

 彼の手に握られていたのは、一枚の木札だった。左右から紙で覆われており、正面の紙の隙間から一文だけ、流れるような書体で何かが書かれている。

 私は顔を上げ、彼に説明を求めた。

「強力な魔除けの札だ、玄関に飾ると良い。効き目は実証済み……今回の礼に受け取ってくれ」

 彼はそう言って力なく笑う。相当疲れているらしい。

「……あの」

「いや、何も答えられないんだ。悪いけど」

 彼はかぶりを振った。

「今日起きたことは忘れろ……なんて、無理な話なのは分かる。けど、知っているからこそ近寄らないようにしてほしい」

「………」

 私は何も言わなかった。そんな私に、彼は肩をすくめ。

「じゃ、俺帰るから」

 彼は頭を下げ。

「これから仕事かぁ……」

 と、力なく笑いながら私に背を向け、歩き出した。

 私は黙って、彼の背中を見送りながら、木札をポケットに突っ込もうとした。そこでようやく、ポケットの中に数枚の百円玉の存在を思い出したのだった。

 そうだ。そもそも私は、ここに飲み物を買いに来たのだった。

 私は自販機の前に立ち、百円玉を投入口に押し入れた。カタン、カタンと、コインの音が、そして缶が落ちてくる音が、早朝の町に嫌に大きく響いた。




 手にしたコーヒーは冷たく、体内に流し込むと疲れと興奮に火照った私の体を、すうっと冷やしていった。

 一息つき、私はふと東の空を見た。すでに顔を覗かせていた太陽の光が、寝不足の目にしみた。

 いつもと変わらない日の光、太陽の動き。遠くに疲れた足取りで歩くサラリーマンが見える。変わらない日常が戻ってきた。それが幸せなことか、不幸せなことか、私には分からない。

 しかし……私は手元のコーヒーの飲み口を見る。縁に付いた、真っ黒な液体を。

 しかし、この鮮烈な黒は本物だ。私に血を通わせた、この黒は。長く、白んだ日常の脇に伸びる黒色の脇道、それを私は知ることができたのだ。

「……ねえ、そうでしょ?」

 私はコーヒーの飲み口にそう呟き、残りを一気に飲み切った。


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