Blue Fox Record

ゼリーの破片

Bule Fox Record

 ―――人には時々、不思議な力が宿っている事があるという。

 それは超能力だと言われたり神様の加護だったり、表現の仕方は色々だ。


 けれどそれが必ずしも、人に良い事を齎(もたら)すとは限らない。――まあ、月並みな事かもしれないが。

 

 ―――幼い頃、純粋過ぎた頃、彼女はそれを知らず、俺自身それを知る余地もなかった。


「――俺がやったんだ」


「…キミがやったんだ」


 怒りに緑の瞳を潤ませ、輝かせるブロンド髪の幼い少女が居る。両腕を強く握りしめ、焼け焦げたワンピース姿で俺を真っ直ぐ睨み付けていた。

 俺は頭から血を流し、片目に入って開く事が出来なくなっている。髪は少し焼け焦げていて鬱陶しい感覚が残り、上着は焼けてなくなりシャツとズボンしか着衣は残っていない。


 そんな俺の傍には、まるで何かに体中を切り裂かれたかのように動かない血塗れの狐が倒れていて、周囲の建物には火の手が挙がっていて逃げ場もなかった。

俺はそれでも声量をはっきりと、彼女へ訴え続けた。


「俺がやった。俺が壊した。俺が殺した」


 そして彼女の瞳を真っ直ぐ見ると、彼女はまるで復唱するようにこう言うのだ。


「キミがやった。キミが壊した。キミが――殺した」


 彼女の言葉に続くように俺は「そうだ」と告げる。

呼応するように彼女は目を見開き、周囲に荒々しい風が吹き乱れ、俺へと風の塊が襲い掛かってきた。その後の記憶は覚えていない。ただ、酷い怪我を負って暫く動けなくなったという記憶しか、今も尚残っていなかった――。



「――――で、キミは何故こんなところで寝ているんだい?」


 不意に掛けられた声に俺は瞼を見開く。眼前には影。木の下に居るので日陰のようなものだが。差し込んでいた微かな日差しはその影によって遮られている。目を凝らすとそれは人の容をしていて、見覚えのある人物の顔立ちをしている事は理解した。


「…、なんでお前がここにいる、弥生」


 俺を覗き込むようにして膝に手を充て前屈みになっている少女。ブロンド色でウルフカットヘアの彼女は、緑色の瞳を細めて、というより俺を睨むようにして見下ろしている。いつにも増して不機嫌そうなその様子は、余程俺に対して言いたい事があるような雰囲気だ。白い肩を大きく露出した、何やら英文字を書かれた黒シャツを身に着け、肩には灰色のベアトップらしい肩紐が見えている。首元には黒のチョーカーを身に着け、膝丈程度まで届くスカートと、黒いニーソックス姿の彼女は、氷月弥生という名で俺の高校における同級生であり、ちょっとした因縁のある人物だ。


 起き上がろうとすると彼女はそのまま後退して離れていく。視界を持ち上げると、俺の眼前には河川敷が広がっていて、木は河川敷に生えた日陰となっていた。特に理由もなく、ゆっくり過ごしているだけ。


「朱鳥、キミ…ボク達に与えられた使命を忘れたのか?世界の命運を掛けた重大な任務だというのに」


「何のことだか」


 そんなややお洒落な姿をしている弥生に対し、俺は薄手の黒シャツに薄い黒ジャケット、模様のない茶色のジーンズと白黒のシューズといった大して派手でもない恰好。髪形も黒髪のショートカットと本当に目立たず、挙句に黒ぶちメガネを着けているだけ。強いて言えば右目に深い切り傷があるくらいだろうか。それ以外に特徴なんて特にない俺の名は狐坂朱鳥。現在、絶賛彼女の言う『重大な任務』とやらに対しおサボりを決めている、ように見えているのだろう。


「大体ね、待ち合わせの時間を指定したっていうのに女子を待たせるどころか放置してサボるだなんてどんな悪魔の所業なの?天使に反逆でもしようっていうの?」


 一応、俺に対して犬のように騒ぎ立てているこの中二病を拗らせている同年代とは思いたくない大学生の弥生というこの娘の名誉の為に説明すると、俺はメールにて今日の予定と集合場所、日時は知らされていた。よって少なくとも弥生のミスではない。では俺が何故集合せずこんなところで寝ているのか。


「そもそも、なんで嫌いな奴と一緒に買い物など行かねばならんのだ、アホか?」


「な………っ!?」


 全てはこの一言で説明出来る。嫌いな奴と一緒に買い物に行く道理などない、買う物が決まっているのなら猶更だ。衝撃を受けたように表情を強張らせて固まった弥生は、どうやら盲点だったのだろうと俺は勝手に解釈し、『本題』を続けた。


「そもそも買い物なら、お前からメールが届いた日に終わらせた。事前に委員長からメールが個人的に来てたからな。大方、中二病拗らせている上に間抜けなお前に任せるのが心配だったんだろう」


 瞼を伏せて淡々と告げる。委員長がそんなことを思っているかどうかと言えばノーだろう。確かに中二病を拗らせてはいるが、頭の出来は決して悪くない――というか、学年トップに君臨している。間抜けでも決してないだろう、頭は回る方だから。人間関係については――まあ中二病ということで察して欲しい。

 もう一つ、こいつの欠点があるとすれば――


「そ、そ、そこまで言う!?」


 いちいち、真に受けるところだろう。俺の思い付きと出任せで塗り固めた言い分に対して涙目で両手が震えている。よわすぎる。

 しかし俺は攻撃を緩めるつもりはない。


「お前がバカみたいな見落としをしているからだろ。委員長がいつ『一緒に行け』だなんて言った?」


「…えっ、あ、え」


「ポンコツ中二病女子はこれだから役に立たん」


「~~~~~~ッ!! バカッ! やっぱりキミなんか大嫌いだ!!」


「あいでっ!?」


 頭に何やら入ったビニール袋をぶつけられ俺は再び草絨毯の上に店頭。倒れる前に見えたのは走り去っていく弥生の後ろ姿。しかしそれも白く重いビニール袋によって覆い尽くされた。重い、冷たい、何が入っているんだ。

 弥生がどこかへと走り去ってから俺は袋を取り中身を確認してみる。どうやら冷えたペットボトル飲料が入っているようだ。成る程、本当に俺と買い物に行くつもりだったのか。


『―――相変わらず辛辣ですね。教えてあげればよかったではありませんか』


 そんな、弥生と俺しか居らず、その片方が去り俺だけになった場所で不意に聞こえる柔らかな声。しかしその柔らかさは人間の感情を宿したそれではなくどこか無機質で冷えた感覚が伝わってくるような気さえする。


「………盆休みはとっくに終わったぞ。とっとと黄泉に還れ亡霊」


『酷い言われようですね。私は貴方に殺された、という事になっているというのに』


 寂しげな声色で俺の視界外から話し掛けてくるのは女性の其れだ。しかし、その声色もやはりどこか無機質で、機械が人の真似としているというか、どうにも『形だけ』という印象を持つ。俺は溜息を溢して上体を起こし、声のする後方へと視線を向けた。

 そこには大きな木がある。草の絨毯が生い茂り、日陰となっているこの場所に、先程まで居なかったはずの白い影があった。はっきりとその姿を視認する事は出来ないが、人の姿をしているように見える、というのは確からしい。その白い影は木の幹に手を充ててこっそりとこちらを覗き込むような仕草をしている。身長は弥生と同じ程度か、それ以下だ。文字通り、そこに存在する白い影は――俺に取り憑いた幽霊、らしい。それも幼い頃、俺が殺した『ことになっている』、とある存在の。


「見ての通りあいつは俺を憎んだまま自分に刃は向けて無い。もう大学生なんだ、お前がいつまでも心配して居座る理由はもう無いんだよ」


 亡霊。この影は、とある存在の、弥生に対する未練がこの地に縫い止めている霊。俺は元々霊感なんてものはないが、取り憑いたこいつだけは俺の目でも見えるようになるのだとか。難しい事はよくわからないが、妖力と呼ばれるもので俺に対して姿を見せる事が出来るようになっているらしい。

 未練が無くなればさっさと成仏する、と俺に取り憑く時に言っていたはずなのだが未だにこいつは消えようとせず、時々こうして俺に姿を見せるのだ。


『それを決めるのは貴方ではなく私ですよ。あと、先程あんな風に弥生をいじめてておきながら、どの口で言うのですか』


「お前がそれを言うのかお前が」


『やり過ぎなんですよ、わかりなさい』


 何やら説教するように声調を荒くする亡霊。俺は思わず耳を塞ぐが、残念なことに直接頭に響くので全く意味がない。我が母の口調を真似てきているから余計に耳が痛く感じるというのに。


「いいんだよこれで。そもそも最近の弥生は俺に近付きすぎなんだ、これくらい言わないと距離を取らないし」


 今まで俺の近くに尤も長く居た癖に何を言っているんだこの亡霊は。そう思いつつ俺は深く溜息をつくのだが、『私には貴方の方が過去に囚われすぎのように見えますが』なんて呟きが聞こえてくる。ああ、聞こえない、知ったことか。やはりこいつに人の感情の葛藤など理解できないということか嘆かわしい。

 まあ――それも、そのはずなのだが。


「で、『狐』。その話はお前がわざわざ俺の前に姿を見せてまで語らなきゃならないことなのか?」


『狐ではありません、晴華(せいか)です。いい加減覚えていただきたいのですが』


「成仏したらちゃんと呼んでやるそれまでは狐だこの狐」


 ―――狐、その名を晴華。彼女は今、人の姿のような影で姿を見せてはいるが本来はもっと小さい、子狐のような姿をしていた。とある事件を切っ掛けに彼女は命を落とし、弥生への心配から俺に取り憑き彼女を見守ってきているというわけだ。そのとある事件というのが、俺が晴華を殺した、という話に繋がる。氷月家では随分可愛がられていて、俺も彼女の事は好意的に思っていたのだが、ある事件を切っ掛けに晴華が惨殺される。その犯人は俺、という事になっている――している。


『まあ、良いですよ。それよりお伝えしなければいけない事があります』


「…例の『野狐(やこ)』か?」


『はい、暫くは大人しかったのですが…人に手を出してしまったようですので』


 野狐、とはその名の通り野生の狐――というわけではない。晴華が言うには狐から派生した妖怪のようなもの、らしい。曖昧な言い方なのは、俺が晴華の聞いた程度の知識しかないということにある。妖怪だなんて非現実的と思うかもしれないが、目の前に狐の幽霊がいてしかも人型に化けて喋っているという時点で察して欲しい。現実とは時に理不尽なのだ。

 さて、その野狐だが、過去に晴華がその存在をこの街のどこかに居ると報告してくれた事がある。されたところで何が出来るわけでも無いのだが、人に害を成す危険性があることから弥生が狙われる事を警戒したのだろう。弥生に対して過保護な影響もあるのだろうが――結局、昨年その報告を受けてから何事も起こる事なく、気配が消えたと晴華も言っていたので俺自身気にしていなかったのだけれど、彼女はついに人への被害を伝えてきた。


「結局野狐っていうのは、人間に何をするんだ?その被害っていうのは一体」


『簡単に言えば、人の魂を啜って妖力を得る、です。野狐は狐派生の妖怪の中では尤も未熟なので、他の狐に勝つために様々な方法で妖力を得ようとするのです。尤も、暫く人の住む場所で彼らが見つかった例(ため)しは無かったはずですが…』


「………魂を吸われると?」


 問題は、その結果にある。何事もないなら俺も弥生も気にする必要は―――


『植物人間をご存じですか? 吸われすぎれば、まさにあのような状態となり二度と自我を取り戻すことが出来なくなります』


 背筋に悪寒が走る。もし弥生が、そんな野狐に目を付けられようものなら。


『――弥生であれば、暫くは大丈夫でしょう。ですが、彼女は人が良すぎるので、野狐が言葉巧みに操るようなタイプであった場合…』


「そういうのはもっと早く言え!」


 慌てて俺は携帯電話を取り出し、弥生に電話を掛けようとする。そんな事を伝えてどうするのか―――単純である。氷月弥生には、生まれ付き、不思議な力がある。それを晴華は『妖力』と呼び、今の時代の人が扱うには過ぎた力であると称し、弥生にも使わないように彼女の親から伝えている。もし、そんな力を利用されたなら。

 通話ボタンをタップするが、どうやら電話は繋がってくれないようだ。こういった話は出来る限り早く伝えなければならないというのに。


『あんな事を言った後では取り合ってくれるとは思えませんが…というか、どうやって伝えるつもりです? 今更私から聞いた、なんて言おうものなら――』


「ぐっ…」


 反論出来ない。それはさすがに使えない言い分だからだ、信じて貰えるはずがないというのも、勿論あるけれど俺自身の胃が潰れかねない。


『野狐は私達で始末しましょう。そうすれば被害も無く、事を済ませられます』


「成る程名案だな、俺に妖怪退治なんて出来ないって事を覗けばだが」


 弥生にはある力、残念ながら俺にはない。妖怪と言う程なのだ、まさか物理的な方法でどうにか出来る存在では―――


『出来ますよ?』


「……………は?」


『私が憑いている貴方であれば、出来ます。だって私――空狐(くうこ)ですから』


 戸惑う俺の視界が一瞬揺らぐ。

不意に晴華の姿が消失したかと思えば―――、そこには薄い水色の浴衣を羽織り、長い空色の髪を垂らし、狐の尻尾と狐耳を立てた少女が立っていた。


「この姿では初めまして、狐坂朱鳥。氷月家にお世話になっていた空狐、晴華と申します」


 少女は自らを晴華と名乗り、実に人らしい笑顔を俺に向けてその手を差し伸べていた。





 ―――深夜二時を回る頃。

 氷月弥生は、荒れ果てた神社の中心に立ち、瞼を伏せて何かを呟き続けていた。風も無いのに彼女の髪や衣服が揺れ乱れ、それに対し彼女は気付いても居ないとでもいうかのように何かを延々と呟き続けている。


『それでいい、それでいいのだ。巫女よ、もう直ぐ君の悲願が叶う。彼女を取り戻す事が出来るのだ』


「うん、わかってる。もうすぐ、だね」


 弥生は無表情ながら、安らかな声で頭に響くような言葉に応えた。

 もうすぐ、もうすぐなのだと。もう一度会える、ちゃんと謝れる。弥生にとって掛け替えのない―――あの時から、止まってしまった自分の時間とその存在を、もう一度。


 彼女のそんな願いが、地上から薄く緑色で半透明な輝きを浮かび上がらせ、崩れた寺の奥に見える要石に集まって行く。徐々に、徐々に。その力は石へと集まっていき、石は微かに薄緑色に発光を始めていた。


『その要石さえ壊してしまえば、天狐ある我の力を最大限に発揮できる。ともすれば汝の求める存在をこの地に呼び戻す事も可能だ。さあ、壊せ、壊すのだ』


「嗚呼わかってる。ボクならできる、出来るから―――」


 要石が音を立ててその身に傷を帯びた。弥生は譫言(うわごと)のように呟き、自らの妖力を要石へと注いでいく。いや、自らの妖力だけではない。その地上に存在する生命が持つ、あらゆる力を自らの力へと変換させて――


「―――――何やってんだ、中二病もそこまで行くとバカを通り越して恐ろしいな」


「ッ!?」


 緑色の光が途切れた。要石には確かに傷が残ったようだが、それ以上の変化はない。何しろ、弥生自身がその力を止めて目を見開き、俺へ振り返って目を見開いているのだから。


『何奴か! おのれ、邪魔をしおって…巫女よ、始末しろ!』


「お前が例のクソ狐さんか。お前、うちの身内に何をさせている?」


 俺が睨む先には、紫色の、まるで亡霊か何かのように焔を纏い、禍々しい巨大な狐の顔が、弥生の頭上に浮かんでいた。弥生は俺に視線を合わせず俯き、その両腕を振るわせていた。


『…バカな、ただの人間に私が見えるというのか』


 表情は判らないが、その狐頭は微かに動揺している様子だ。確かに、晴華曰く普通は見えないものだと聞いていた為、見えるのならば普通の狐の姿だと言うが。

 ――まあ、今回は色々と特殊な理由がある。ただ、今はそれよりも。


「おい弥生。バカな事してないで帰るぞ、お前の親御さんが俺に電話してきて五月蠅くて堪らない。帰ってさっさと黙らせてくれ」


「………」


 俺の言葉に弥生は応えない。成る程、本当に操り人形にされているという事だろうか。再び、狐頭に殺意を込めて睨むと「違う」と、弥生が呟いた。


「ボクは『弥生』じゃないよ、朱鳥。夜の宵と書いて、夜宵――それが、巫女としての、ボクの名前」


「は? お前いきなり何を言って」


「ボクの使命はね、空狐様をこの世界に繋ぎ止め、護る事だったんだ。でも昔、ボクが幼い頃に起きた事件によって空狐様は殺されてしまった」


 言葉を失った。弥生――夜宵の名はともかく、空狐についての事と、過去の事件――その言葉が今、この場で発せられた事に背筋が凍り付くような感覚に襲われたからだ。


「キミは知らないだろうね、ボクがずっとどんな気持ちで生きてきたのか。でもこれでその全てが解決できる。あの子さえ生き返ってくれるなら、ボクはなんだってすると決めていたのだから」


 両腕を広げ夜宵は頭を挙げた。瞳が妖しく七色の輝きを帯びて、口端が吊り上がり、歪なまでの笑みを浮かべ、同時に彼女を中心に暴風のような風が巻き起こった。俺は咄嗟に両腕を前に構えて自らの顔を風圧から守る。


「これがボクの力、妖力。実はこっそり練習してて、こんなに自在に使えるようになった――そしてボクは、この天狐に出会った」


 彼女が見上げると、妖しく天狐を名乗る野狐が口端を吊り上げた。


『この者の悲願は空狐の蘇生。貴様のような人間には判るまいが、それが叶うならばこの娘は己が魂を捧げても良いと私に宣言して見せたのだ』


 絶句する。即ち、今の夜宵は操り人形というわけではない、自分の意思で――この行動を行っているというわけだ。


「おい……弥生。お前、自分のその行動で何が起きてるのか、本当に理解してるのか


「わかっているよ。幼かった頃のボクではもう、ないんだから。この結果がどういう事を引き起こすのか、理解した上で覚悟した上で行っている」


「その為に他人が苦しんだとしてもか」


「………そ、そんな事判ってる。例えボクの罪がさらに重くなるものだとしても。それでもボクは、彼女から奪ってしまった時間を、返してあげなければいけないんだ」


 俺は一瞬、今自分自身がどんな顔をしているのか判らず、顔を右手で抑えた。

いつから気付いていたのか、彼女は『自分の罪』と言った。奪ったとも言った。それは、俺が犯人だと認識しているのであれば出ないはずの言葉だ。

 恐れていた事が、現実となったのだ。幼いまま、時が止まっていた彼女の思考が、成長したことでその解決手段を導き出そうとして―――外野に漬け込まれた。


≪――――覚悟は決まりましたか≫


 そんな問いは、頭の中に響いた。

俺は答えず、頷きもせず、顔から手を離し――真っ直ぐ、夜宵を。否、弥生を見据えた。

 覚悟を決めた、などと言いながら、表情を引き攣らせている彼女。その両腕は震え、自分の行っている事に対して揺らいでいる様子なのは、目に見えて判った。何が幼い頃のままではない、なのか。


「何も変わってないな、お前は」


「え…」


 俺は両目に意識を集中させる。すると、『俺の中にいる』狐が力を発現させてくれる。急激に視力が良くなって行くので眼鏡越しでは世界がぶれる。よって俺は眼鏡を外してポケットに押し込み、その青空の如く蒼に染まった瞳を野狐と弥生へと向けた。


「そんな、なんでキミが―――」


「もう嘘を言い続ける必要はないらしい。だから弥生、お前にはこう言ってやる。『一人で勝手に決めて突っ走るんじゃない、この中二病が』」


 俺の声に呼応するように、蒼の妖力が俺の周囲に満ち溢れる。それは純粋な俺の力ではない、弥生を想う一匹の願いそのものだ。故に、弥生はその表情を強張らせ、その頭上に浮かぶ狐もまた、動じていた。


『先程まで、ほんの僅かも妖力を感じなかったというのに…何故! ええい巫女よ、何を躊躇っている。斃せ! この男は斃すべき敵ぞ!!』


「外野は黙ってろ。今そいつから切り離してやる―――蒼斬(あおぎり)」


 俺は右手を弥生へと突き出し、蒼に染まった瞳で彼女と狐を繋ぐ妖力を見据えた。左腕で照準を合わせるように抑えながら右腕を持ち上げ、妖力を掌へと集める。そして、集まりきったところで宣言する妖力の形。蒼き半透明の刃が俺の掌から放たれ、空間を薙ぐ回転し、弥生の周囲に漂う紫色の糸を切断しようと――


「緑之盾(よくのたて)!!」


 しかしその蒼い刃が切断しようとした紫の糸、その一本すら傷つける事無く見えない壁に阻まれるかのように蒼い刃は霧散した。弥生の言葉に呼応したかのように。

 否、現に呼応したのだ。それこそ、彼女の妖力なのだから。


「ボクと彼の想いもまた、同じなんだよ。だから、断たせない、断たせるもんか…ボクはもう止まれないだ、止まっちゃいけないんだッ!」


「頑固かお前は…!」


 これだけ見せて、言って、尚も彼女は折れていない。動揺した様子の瞳さえ、今は真っ直ぐ俺を睨んでいた。


「キミはいつもそうだ。いつもそうやって、勝手にボクの中に土足で踏み込んできて、考慮すべきものさえ奪っていく。背負うべき贖罪も、ボクの気持ちさえ。受け止める気もない癖に!!」


 圧。

 俺は声を出す暇もなく、その圧倒的な気配に押し返されるのを感じた。慌てて地を踏みしめるが、まるで暴風のように押し寄せてくる妖力の圧を前に、一歩前に踏み込む事さえ出来やしない。

 晴華も言っていたが、これが弥生の持つ――本来の力だと言うことか。


「キミは知らない、知らないくせに。ボクの気持ちなんて何も知らないくせに―――ボクが真実を知って、キミに何も思わなかったとでも!?」


 押し返すように、追い払おうとするように。しかしその微塵さえも、傷つける意図がない。

 ああ、そうか、弥生が真実に気付いていた、ということは。


(この生真面目なバカが、『何も気にしないはずはない』か)


 かつて。

 晴華が死した理由は、弥生の力の暴走によるものだった。

しかしその事実を受け止めるには彼女はあまりに脆く、その結果さらなる被害を生む可能性さえ孕んでいた。だから『俺が凶暴化した晴華を殺した』ことにして、彼女の罪を遠ざけた。怒り狂った彼女によって俺は片目をやられたり、それなりの怪我を負いはしたが、『大惨事』は免れた。もしそのまま、幼いままの彼女が自らの罪を認識してしまっていたならば、ぶつけようのない感情は一体どこへ向かうだろう――俺はそうして彼女かさらに追い込まれていくのが耐えきれなかったのだ。

 だが、だからこそ考えるべきだった。もし万が一、彼女が事実を知った時、俺は何を言うべきなのか。


「一人で突っ走るなだって? それはキミこそ言われるべき叱責だ! 勝手に他人の罪まで背負い込んでずっと演じ続けるとかバカじゃないのかいいやバカだ! どうしてキミがそこまでする必要がある、誰が望んだって言うんだそんなこと!!」


 もはや、弥生はただ泣き喚いているだけだった。ただ力で押し退け、近づけないようにしているだけだ。脅威でもなんでもない、これはただの癇癪だ。

 しかし、暴風のように彼女が発している妖力は尋常ではない。


≪このままでは不味いですね、弥生への負荷が大きすぎます≫


 俺の中に居る晴華の声だ。どうにか俺は踏み止まっているが、弥生に掛かる負荷はその比ではないのだろう。


(あのバカ、少しは冷静になってくれよ…!)


≪大体貴方がケアをしなかったせいです。反省してください≫


(うぎぎ)


 何も言い返せない。というか、気付いてたと判っていたならあんな辛辣な対応を取る必要は何もなかった――なかった、からと、俺はどうしたらよかったのだろう。


≪一瞬だけ彼女と妖力を繋ぎます。言葉に出さなくとも念じれば伝わるようになる――ほんの一瞬ですが、その一瞬でどうにか隙を作ってください≫


 いきなりお前は一体何を言っている。そう言い返そうとして――雪崩のように俺の頭の中へ弥生の乱れた思考が叩き付けられる。もはや泣き叫ぶ子供のようなそれは、聞くに堪えられるものではなかった。口で言っているのは、まだ気丈な方だったのか。


(ああもう! 聞けこのバカ!)


「……!?」


 弥生の顔は泣きじゃくったままだが、その瞳が驚愕に見開かれる。どうやら、まともに伝えるには今しかないようだ。


(俺が全部勝手に行動した事は謝る! だがそれでも俺は、お前を失うのが怖くて仕方なかったんだ察しろバカ!!)


 途端、妖力の圧が嘘のように消え失せた。涙で目元を赤く染めた弥生は、唖然とした表情で俺を見据えている。―――今しかない、そう断じた。


「弥生は俺が人生罪を担いでまで引き留めた存在だ、勝手に外野が持って行こうとするんじゃないッ、―――そうだろ、晴華!」


 俺は再び右腕を突き出し――内にいる存在へ叫び、呼応するように彼女は顕現し、そのまま白い腕を薙いで紫の糸に蒼の一閃を這わせた。


『な……貴女、はッ!?』


「蒼一閃―――断(たち)」


 今まで言葉を発していなかった野狐が動揺の声を挙げるが、それは既に遅き事。紫の糸は全て切断され、驚愕に目を見開いた弥生は崩れ落ちるようにその場に座り込み、頭上にいた狐の頭は紫色の焔に包まれ、その姿を消失――させたかに見えた。


「……往生際が悪いですね、野狐――黒日(こくじつ)」


「私としては、その言葉を貴女に返したいですがね」


 咄嗟に俺は弥生に駆け寄ろうとするが、そこにいつの間にか現れていた、黒い浴衣姿で片目を長い黒の前髪で隠した鋭い紫色の目付きを持つ青年の姿に足を止めざるを得なかった。何しろ、その青年の手から伸びた黒い刃が、虚ろな表情で座り込んでいる弥生の首元に充てられているのだから。


「黒日、貴方の目的は何ですか。要石を砕き、妖怪でも招き入れるおつもりですか」


 晴華の声は、静かであるが怒りを込めた声色だと判る。彼女は人に対して好意的ではあるが、黒日の行為は人間に対する害でしかないのだから。


「バカな事を言わないでくださいよ、晴華様」


 だがそれを、黒日は否定する。


「私は貴女の為、ここまでの事をしているのではないですか」


 笑顔を浮かべる黒日。だが、細められた瞳が俺へと向けられれば、確かに敵意を宿している事が判り身を強張らせる。今の状態では、妖力なんてものに俺自身は何の抵抗力も無いからだ。

 俺が動けない事を理解したからなのか――笑顔を浮かべていた黒日は突如、激情を浮かべるように表情を歪ませた。


「貴女が人間などに誑かされてこの地に封印されたから! どれほど多くの同胞が嘆き悲しんだと思うのですか! 私は貴女を救うために、この地から解放するために百年、好機を伺い続けてきた…今日、それが漸く叶おうとしていたのです!もはや失われかけたはずの妖力を持った、この娘の力で!」


 晴華は言っていた。かつて、人間との約束の為にこの地に封印される事を選んだと。だがそれは封印というよりも、肉体が失われてもずっとこの地に存在し続ける事が出来るようにする為の保険のようなものだとも言っていた。

 そう、誑かされたのではなく、彼女は。


「貴方達にはそのように伝わっているのですね。―――私は自分の力でこの地に残る事を選んだのですよ、黒日」


「また、またそのような!貴女は――」


「黒日、私の最愛の弟。これは保険なのよ、野狐達が暴走し、この地の巫女から力を奪い取らないようにする為の」


 黒日は晴華の言葉を聞いて目を見開き、硬直した。食って掛かるかのような勢いだった彼は、その言葉の真意を理解したかのように唇を震わせ、言葉を出そうとしても発することが出来ないかのようだった。


「黒日、貴女に負担を掛けてしまったこと…詫びねばなりません。結果として貴方には、巫女の力を利用させるという大罪を背負わせてしまったのですから」


 黒日は動かない。晴華は一歩、二歩と近づき、力なく動く様子のない彼へと手を伸ばしていく。


「――ごめんなさい、黒日。赦してとは言わない、けれどこれは…私が、貴方達が生きる為に結んだ契約だから」


「だめ…晴華!」


 そんな二人の遣り取りの間に、割って入った者がいた。

 まだ虚ろな表情のままだったが、両腕を左右に広げ―――弥生が、晴華の手を阻むように仁王立ちして、黒日を守っていた。


「巫女…!?貴様、何をして」


「そんなこと、もうしなくていいんだよ。そんなことしたら…キミは苦しむって、判るから」


 弥生の瞳は虚ろだ。完全に自由に動いているというわけではないらしい。しかし、それでも黒日の動揺を見れば操っているというわけではないことは、判った。


「ですが、弥生―――」


「お願い。もし、貴女がまだ――ボクを赦してくれて、その上でまだ、言葉を聞いてくれる気があるのなら」


 弥生の声は、はっきりとしていた。彼女の声が、意思が確かに、言葉に宿っている。晴華に、これ以上何も背負わせたくないと――自分で背負っていた重りがあるにもかかわらず、他人を気遣う、普段の彼女の姿だった。


「………貴女は変わりませんね、弥生。そして、そういうところは朱鳥とそっくりです」


 振り返った晴華は、俺に微笑みを向けて、そんな事を言った。似ているだろうか、と問い返そうとするも彼女の視線の意味は、そういう意図でない事が理解出来た。


「ありがとう、弥生。では私からも我が侭を一つ――信じて頂けますか」


「……、晴華」


「大丈夫。ちょっと黒日と、話し合いをするだけですから」


 そう言いながら晴華は弥生の身体をすり抜けて後方へ。そして、黒日の身体を柔く抱きしめた。


「――、姉さん」


「行きましょう。これは私達だけの問題。彼らをこれ以上巻き込んではいけませんから」


「…、わかりました」


 そう告げると、蒼い光が一瞬、眩しく輝いて。二匹の狐がその姿を喪失させ、俺と弥生だけがその静寂に取り残された。


「―――……、朱鳥」


「…、なんだよ?」


「…………、ボクもちゃんとキミと、話したいんだけど」


 気まずい。そう思うものの、これは避けて通る事は、出来そうにないと思った。

俺は深い溜息を溢しながら彼女へと近付いてゆく。一瞬彼女が身を竦ませたのは見えたが、どうやら視界ははっきりと見えていないのか、視線の向きがどこか曖昧だ。


「目、見えないのか?」


「見えないというか……うん、すごく、ぼやけてて」


 これは歩かせるのは難しそうだ。そう思って俺は手早く彼女の前に身を屈めると、彼女は驚いたような声を挙げる。


「いいから乗れ。送ってってやる、話は道中でも出来るだろ」


「えっ!? いや、あの、でも」


「うるさい、不可抗力だろ喚くな早くしろノロマって仇名追加するぞ」


「………キミ、やっぱりボクに対して辛辣すぎると思うんだけど」


 などと、普段と変わらない会話を連ねて――俺の頬が自然と綻んでいた。今までは、間違った対応をしていないだろうかなどと不安で引き攣るばかりだったというのに。ただの、何の気遣いもない会話が少し、気楽だった。

 背に華奢な身体が乗るのを感じると、膝裏に腕を回して持ち上げた。


「お前普段何を食べているんだ、軽すぎるだろ」


 俺の口から出た真っ先な感想はそれだった。何というか、大学生の女子にしては軽すぎる、気がする。勿論予測でしかないが当人曰く「え、いや、そんなことないと思うけど、なあ」と自信がないようだった。


 弥生を背負い、歩き始める。神社を降り、人気の無い夜道を歩く。家までは少し遠いが、この軽さなら苦労はあるまい。

 ただ、暫く無言が続いた。会話らしい会話も、どうしたらいいのかも判らず俺も切り出せない。何せ――今までお互い嫌っている事を前提に関係を保ち続けていたのだから、その前提が崩れてしまった以上何もかもが今までのようにするのは難しい。


「………あのさ、朱鳥」


 沈黙を破ったのは弥生だった。まだ妖力の乱暴な使用による反動が抜けていたいのか、声調に力がない。

俺は「何だ?」と静かに問うと、再び間が生まれる。言葉を選んでいるのだろうか――やがて、背後から声が聞こえてくる。


「その、いつから?晴華があの姿で、キミと一緒に居るようになったのって」


「あぁ。あの姿自体はまさに今日だよ。それまではずっとおぼろげな白い影だった」


 何を聞かれるかと思ったら、その事か。確かに彼女からすれば、俺がいつから晴華と共に居たのか気になる事ではあっただろう。俺の肩に乗せられている手が少し強く握られるのが分かるが衣服を掴んでいるだけなので痛みはない。


「――…晴華は元々お前が心配で仕方がなかったんだよ。まあ、俺が誤魔化す為に嘘をついただけだったから、真実に気付いた時お前がどうなるのか、それを心配してたんだろうな。んで、俺に取り憑いてずっとお前を見てたわけだ」


 弥生は答えない。だが、震えている手の感覚が伝わってくるので、ちゃんと聞いている事は分かる。


「そういうお前こそ、いつから気付いてたんだよ? 俺は必死に演じてたつもりだったんだが………高校生になった辺りか?お前の態度が変わった気がしたのは」


「…、そうだよ。それで、ボクは自分が背負うべき罪をキミに背負わせてるってショックで暫くへこんでた。覚えてる? 入学直後から、しばらく学校に来なかったの」


「あー、あの時からか。風邪引いたって聞いてたし晴華も疑いもしなかったから、そういう事なんだろうって思ってたんだが…」


 合点が行った。成程あの頃から既に彼女は俺のやった事、自分のした事に気付いていたと。

 ――つまり。


「………、俺は随分お前を辛辣に扱ってたというわけだな? どうにか拗れた距離を戻そうとしてたってのに」


「そう、だよ。そうだよ! ずっと、ずっとだよ? ボクを少しは褒めてほしい、あれだけ辛辣にされても必死に食いついたんだからさ…!」


「ああうん悪かった、悪かったから半泣きで言うんじゃない」


 嗚咽交じりの声で攻め立てる、というよりはこう、自分の努力を認めてほしいというかのような。

背負っている状態じゃなければ頭を撫でまわしてやるところだ、昔のように。


 しかし、と俺は少し遠い目をする。もし晴華がそれに気付いた上で俺に何も言わず見守る事に徹していたのだとしたら、随分性格の悪いことだ。

尤も、それ以外の理由――例えば、弥生が自分で解決するように仕向けたかった、とか。まぁだとしても、もう少しやり方はあっただろうと思うが。

 

 暫く宥めるような言葉のやり取りを繰り返し、弥生の家が見えてくる。照明がついていることからしても、彼女の帰りを家族が待っているというのは明白だ。何しろ突然どこかへと消えてしまったわけだから。俺は「とりあえず、帰ったらちゃんと謝っとけよ?」と言うと弥生は漸く嗚咽を抑えて「う、うん」と静かに答える。そして、


「えと、もう、歩けるから」


「そうか?なら降ろすぞ、っと」


 調子が戻ったらしい弥生を、一度立ち止まってから地面へと降ろす。瞳も虚ろなものではなく、普段の緑色の色彩を持った明るい色を取り戻していた。

表情は少し柔らかく、何かを背負い込んでいるような追い詰められた表情はしていないので少し安心した。視線を互いに向けたまま、俺は無意識のまま彼女に右手を伸ばし、


「――、って、わわ!?」


 気付くと、弥生の頭をくしゃりと撫でまわしていた。髪が乱れる程度に少し、乱暴な程に。

 しかし弥生はそれを振り払おうとはせず、少し肩を竦ませていいたが、次第に表情や肩から力を抜いて身を任せてくる。本当に、幼い頃を思い出す光景であった。


「……うし、戻れ。戻って謝って来い」


 そう言って彼女の頭から手を離し、その背を軽く叩いて押し、帰宅を促した。僅かに驚いたようによろめいた弥生だったが、数歩進んだところで背に両腕を組み、ゆっくりと振り返った。――その表情は、久しく見る明るい笑顔で。


「ねえ、朱鳥」


「んぁ?」


「晴華、また戻ってくるかな?」


 その問いを聞くと俺は自分の後頭部を掻き、「わからん」と答えた。そもそもあいつが何をしにどこへ行ったのか、予想もつかないからだ。恐らくは晴華の知り合いらしい黒日と何かを話に行ったのだろうけれど、ここまで完全に離れるという事は無かったから。

 俺の回答に対して少し寂しそうに微笑んだ弥生は「そっか」と短く答え、再び柔らかい笑みを浮かべて、


「ねえ、朱鳥」


「なんだよ」


 またしても名を呼んでくる。俺としては早く帰れと言いたいのだが――


「―――――やっと笑ってくれたね」


 そう言って、瞼を伏せて満面の笑みを浮かべた弥生は、そのまま自分の家へと足早に戻っていった。

俺は一瞬何を言われたのか分からず硬直していて、弥生の姿が家の中へ消えていくのを見送ってから漸く、我に返り自らの頬に触れた。


「………そういえば、しばらく」


 あいつの前で笑った事はなかったか。そう自覚すると無意識に頬が綻んだ。


 ――――止まっていた時間が、再び動き出したような気がする。

これからはもう少し弥生に向けて、昔のように笑ってやるべきだろう。


『それがいいですよ、朱鳥』


 俺の思考に同調するように、頭に直接響いた声。振り返ると、空色の長髪を靡かせる晴華の姿がそこには居て、口元を柔らかく微笑ませながら、徐々に見えなくなっていくのが分かる。瞼を細めてもその姿が視認できなくなっていく。

 だが、それが正しい事なのだろう。やがて見えなくなる晴華を見届けもせず、俺は再び背を向けて


「これからもあいつを見守ってやれよ。俺も、今度か協力的になれそうだからな」


 彼女が俺の言葉を聞いたかは定かではないが、後方で晴華ははっきりと笑ってくれたような、そんな気がした――――。

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