28.

 履きなれない靴で歩くことは難しい。普段平気でしている動作が、一気にぎこちないものへと変わってしまう。

「この格好、結構恥ずかしいんだけど」

「我慢してください。後でどうにかしますから」

 恥ずかしさは急ぎの問題ではないらしい。埃の積もった道の、熱く濁った空気に当てられてにじむ汗を拭う。手のひらにかかるケースの重みがしんどい。


 今やっているのは基本的にはさっきまでやってたことの延長だ。

 違うことといえば指示の内容。ストップとゴーの間隔が短くなった。物陰に潜んで、通りを行く人をやり過ごすことも増えた。

 鍵がかかっているはずのドアを抜け、動いているはずの監視カメラの下をくぐる、そんなありえないこともあっという間に慣れてしまった。感覚が麻痺している。

 まるでテレビゲームみたいだなんて、私は他人事みたいに思った。“兄さん”がエミュレータで遊ぶのを眺めていた、敵に見つからないよう潜入するレトロなローポリゴンのアクションゲーム。

 違うことはもうひとつ、声の調子がちょっと違う。微妙な違いだけど、よりシリアスな声。

 思ってから、笑ってしまう。アシスタントがシリアスな声だなんて。


 果たしてどれだけの時間が経ったのだろう。私はへとへとで、歩みもふらふらで、そして、これまでのことを後悔していた。

 でも何に? 私は何に対して後悔をしているんだろうか。回らない頭で必死に考える。

 思いつきで外を歩いたこと? 今日このルートを選んだこと? 余計な好奇心で明らかにやばい状況へ首を突っ込んだこと?

 失敗してしまったこと。ただその一点に尽きるのかもしれなかった。

 今までの人生で、大きな失敗をしたことがない。自分自身について、そう思っていた。

 もちろん多少のやらかしはある。避けようのあったテストの失点、薄くあとの残った運動中の怪我。でもしょせん、その程度だ。命に関わるようなことなんてしていない。

 だからこそ、自分は失敗をせずになんとかうまくやっていけるんじゃないかって、そういう気持ちが、どこかにあった。人に誇れるほどかどうかはわからないけど、少なくとも私は馬鹿じゃない――学校の成績がその証拠になるとも思えないけど――はずで、その私が対処すればどんなやらかしもたいしたことにはならないはずだ。きっと、そんなことを思っていたのだ。

 そのぼんやりとした信念――間違いだったのだからただの妄想か――は完全に打ち砕かれてしまった。

 ケータイへプッシュされるアラートが、同級生の間で囁かれる“友達の友達から聞いた話”が、初めて現実味を持って聞こえるようになった。

 警告はそこらじゅうにあったのだ。ただ、私がそれに気づけなかっただけで。


「ここで止まってください」

 無意識のうちに出された指示へ従うだけの機械になっていた私は、その声で自分の考えにずーっと夢中になっていたことに気づいた。

 

「これが最後の指示になります」

 その言葉の意味がすぐには理解できなかった。この、永遠に続くんじゃないかと思えたかくれんぼが、終わる?

「この追いかけっこももう終わりってこと?」

「そうです、あとひといきですよ、瑞月さん」

 その一言はまばゆいばかりに輝く希望に思えた。普段通りの日々が、すぐそこに近づいてる!

「いいですか、さん、に、いち、ぜろで、通りへ出て、左方向へ全速で走ってください」

「その後は? どうすればいい?」

「必要があれば指示します」

 えらくざっくりとした指示だったけど、それだけ結末が近い、ということなのだろう。そうだと信じたい。


「それじゃあカウントいきます」

 一度つばをのみこんでから、大きく息をする。

「さん」

 今日は一体どれだけ走らされるんだろう。こんなことなら、長距離走の授業を選択しとけばよかった。

「に」

 あるいはジョギングでも始めたら良いのだろうか。地下のトラックをぐるぐる走らされるのよりはよほどいい。

「いち!」

 ……ええい、ままよ!

「いまです!」


 高い湿度、疲れで思うように動かない身体、おぼつかない足元、重いアタッシュケース、何もかもが私の邪魔をする。

 それでも走らなきゃ。じゃないと、またいつもの生活に戻れない!

「██████████!!」

 走り出してから数秒後、背後から怒号が響く。言ってる内容はわからないけど間違いなく私のことだ。反射的に振り返ろうとして、

「絶対に後ろを向かないでください」

 見計らったかのようなタイミングで釘を差される。

 あとどれだけ走ればいい?

 もうすぐ交差点に差し掛かる。同じ片側一車線の道路どうしが直角に交差する、信号機のない、どちらが優先ともつかない、曖昧な十字路。

 道に障害物・・・があれば、ミニトは回避や停車をしようと試みる。でもそれが間に合う保証はない。ましてや、人が運転する車だったら?

 立ち止まるべきか? 信じて突っ込む?

 私の逡巡に構わず、交差点はどんどん近づき。


 と、

 そこに。

 交差点の右側から走ってきた車が目の前で停車する。

 鮮やかな赤色のセダン。見間違えるはずもない。

「乗って!」

 少しだけ開けられたウィンドウの向こうから大きな声が響く。その主はスモークガラスで見えないけど、聞き覚えのある声。

 私は全力疾走する勢いのまま、車のボディに飛びついた。傷がついたかもしれないけど気にしない。ドアハンドルをひねって、中に飛び込む。

 私が乱暴にドアを閉めると、姿勢を直す間もなく甲高いスキールを立てて車が走り出す。ガチャ、というロックが閉まる音。

 後ろからパン、パン、と何かが爆ぜるような音がするけど、車は構わず加速し続ける。

「いやー、ゆかいなことを味わってねとは言ったけどさ、さすがにこれはおねーさんもびっくりだ。まさか白昼堂々命がけのかくれんぼなんてね。やっぱこの仕事の才能あるよ、ほんと」

 この車も廃車だな。結構悪くなかったんだけど、まあ仕方ないか。

 ぶつぶつと呟きながら、今河さんは自分がかけているサングラスを片手で傾けた。

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