車椅子
東京都にある警察病院。その一室に柊は入院していた。ヴィクター化の原因が解明されていない今、ヴィクターに接触したもの、とりわけ感染する可能性のある柊は研究対象としてはうってつけだった。
警察を辞めた彼女には、治験と称し、衣食住の提供が行われていた。
受付に柊の名を告げる。
普段は面会謝絶らしいが、カズキの名前を伝えるとすんなり通してくれた。これは三島の計らいだった。
白い廊下を進んでいく。病院の雰囲気は独特で、外界から閉ざされているような空気があった。
こん、とノック。小さく返事が聞こえる。
「久しぶり、柊」
彼女は車椅子に乗っていた。
化粧っ気のない顔。少し頰が痩せこけただろうか。目の下にはくまができて、快活だった彼女の面影はなかった。
「やあ、森田くん」
疲れたような笑み。声にも覇気がなかった。
柊に会うのはあの日以来だった。地元の病院に運ばれた彼女だったが、すぐに東京のこの病院に移送されたのだ。
彼女からヴィクター化の鍵が見つかったのかは分からない。ただ、現時点でまだ生きているということは、経過観察中なのだろうか。
「俺、機甲機動隊員になったんだ」
カズキが東京に来た理由はこれだった。警察大学校に入校するため、上京した。
本来は柊に会うつもりはなかった。どんな顔をして会えば良いのか分からなかった。
しかし三島に説得され、ようやくここまで来た。
「知ってる」
興味なげに返す。これも三島の仕業だろうか。
「ねえ、屋上に行かない? 外の風にあたりたくって」
「ああ、行こう」
柊の車椅子を押す。感触は驚くほどに軽かった。車椅子の性能か、それとも。
沈黙が流れている。
柊の顔は見えない。怒っているのか、喜んでいるのか分からない。
いや、きっと怒っているだろう。
俺はこんな不義理な奴なのだから。
あの頃は、どんな話をしていたのだろう。思い出せない。些細なことで笑ったり、怒ったり、泣いたり。
苦しかったけれど、楽しい記憶。その中には柊も、石原も、小倉も、あいつも。
痛みがぶり返す。
カズキは思考を遮断する。
廊下をしばらく行くとエレベーターが見えてきた。ちょうど上にいく分が止まっていた。乗っていた看護師に軽く会釈をする。
屋上は殺風景なところだった。
高めの柵が敷かれているくらいで、後はベンチがあるくらい。眺望も高層ビルが遠くに見えるくらいのものだった。
「……」
相変わらず二人は無言だった。
ベンチに腰を下ろす。
柊が懐から何かを取り出す。白い箱のようなものだった。
煙草?
柊と煙草。イメージが繋がらなかった。時間があればトレーニングに励み、自己研鑽を欠かさなかった柊が。
火を点け、深く吸い込む。甘ったるい匂いのする煙草だった。
「どうしたんだ、柊?」
疑問が口をついて出る。
しかし柊は気にした様子もなく煙草を燻らせている。
「悪い? 別に良いじゃない。もう体力なんて必要ないんだから」
視線が足に落ちる。膝にかけられた毛布には片方だけ膨らみがない。
彼女にどんな言葉をかけたら良いのだろう。
励まし?
同情?
憐れみ?
どんな言葉も相応しくない。今のカズキは答えを持ち合わせていない。
再び沈黙。
澄み切った空の青に、白の細い煙がゆらゆらとたゆたっていた。
「おめでとう」
「え?」
「入隊おめでとう。皮肉だね。目指していた人が夢を諦めて、目指していなかった人がそこに入隊するなんて、人生何があるか分からないね」
「……どうして、そんなこと」
「公平君から聞いてたんだ。森田くんは自分の犠牲でここに入ったんだって。だからあいつが辛い時、支えになってやらなきゃなんだって」
公平が?
鋭い痛みが走る。
「仕方がなく入った君が公平の夢を叶えるなんて、とっても感動的だね」
「そんな、俺は……!」
確かに始まりはそうだったかもしれない。けれど、今は、ヴィクターを殺す、その一心で、必死で漕ぎつけた入隊だと言うのに。
やっぱり憎んでたんだ、俺のこと。
機甲機動隊は柊の夢でもあった。
ヴィクターから市民を守るために懸命に努力して、そのヴィクターに夢を絶たれる。どれだけの絶望だろうか。どれだけの痛みだろうか。
柊には、カズキが横から夢を奪っていったように見えてしまうのだろう。
仕方なく警察に入り、よりによって機甲機動隊に入隊するなんて。
「あんたなんか……!」
ハッとした。柊はぱたぱたと涙を零していた。それを拭うこともなく、カズキを見つめていた。
柊の涙を拭う資格など、俺にあるわけがない。
「いいよ」
カズキは立ち上がる。そろそろ行かなければならない。
「俺のこと憎んでくれ。でもこれだけは信じてくれ。俺はヴィクターを根絶やしにするために入隊した。半端な気持ちじゃない。死んでも殺す、絶対に」
カズキは踵を返して去っていく。
「どうして、怒ってもくれないのよ……」
柊の言葉は、カズキには聞こえない。
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