入校

「ひだりっ! ひだりっ! ひだりっ! みぎっ! ひだりっ!」

「声がちいせぇ! 腹から声出せっ!」

「はいっ!」

 怒号が飛び交う、早朝六時。ここの朝はランニングから始まる。カズキが体験したことのない体育会系の世界。既に喉からヒューヒューと空気が漏れて正常な呼吸すらままならない。

 足がもつれる。次第に列と離れ始める。教官は列の最後尾から追いかけてくるので自然と距離が近づく。

「森田ァ! 列を乱すな!」

「は、はいぃ!」

 朝からどれだけ元気が余ってるんだ、と思うほど走らされる。もう一時間はこうしてグラウンドをぐるぐると回っている。インドア至上主義のカズキには正にここは地獄だった。

「ラスト五周!」

「はいっ!」

 この上まだ走らせると言うのか。ほとほと嫌になってくる。これが後九ヶ月も続くのだ、気が遠くなる。

「解散!」

 ようやく朝の訓練が終わったのは、それからもう五周追加された後だった。

「ハァ、ハァ! っ! ハァ!」

 喘ぐように酸素を貪る。酸欠で目がくらむ。

「カズキ、大丈夫かよ?」

「こう……へい……」

 公平の手を取りどうにか立ち上がる。

「取り敢えず戻るぞ。朝飯だ」

 朝飯、という単語を聞いただけで吐き気がする。こんな状態でご飯なんて、体が受け付けそうにない。

「食わなきゃ死ぬぞ」

 ここは警察学校。県下から今年の合格者が集められ、巡査見習としていっぱしの警察官になるため日々訓練を重ねていた。カズキも公平も今、その訓練の真っ只中だった。

「今! 死にそうだっ!」

「そんな事言ってる気力があれば、まだ大丈夫だな」

 公平はなかば引きずる形でカズキを食堂へと連れて行った。

 食堂は活気に満ち溢れていた。ようやく朝の苦行から解放され、飯にありつけるのである。見習生たちの顔もこの時ばかりは笑みがこぼれる。こんな抑圧された生活の中では食べることくらいしか娯楽がないのである。

「いただきますっ!」

 総代が号令をかける。見習生たちも号令にならい、それから飯をかきこんでいく。気持ちいいくらいの食べっぷりだが、カズキは見ていて更に食欲を無くした。

 体がだるい。全身の筋肉が痛い。

「食わねーと体力つかないぞ」

 公平が言う。既に七割ほど食べ終わっているようだった。警察官は早食いだ、と教官は言っていた。それは事件事故がいつ起こるか分からないから、食べられるときに食べる癖を身につけるからだという。

「無理。水飲んでるだけでお腹いっぱいだ」

「無理でも食うんだよ」

「なら、俺が貰ってやるスよ」

 そういうや否や、隣にいた石原がヒョイとおかずを奪っていく。自分の分はすでに完食したようだ。

「石原! お前!」

「いいじゃねースか、本人がいらねーって言ってんだから。だいたいこいつのせいで腹減ってんスよ。こいつがトロいから余計に五周も走らされたし」

「テメェ!」

 公平が掴みかかろうとしたところを、カズキは慌てて止める。

「や、やめてくれ!」

 カズキにも自覚はあった。皆の足を引っ張っているということを。体力的に自信がないのは入校前から分かっていたことなのに、準備を怠り迷惑をかけている。見習生の間で不満が燻っているのに気がつかないほど愚かではなかった。

「ごめん、俺のせいだ」

 そう言ってカズキは食堂から出ていく。視線が痛くて、耐え切れなかった。

 自室に戻り、膝を抱える。警察学校には寮が併設されており、見習生たちにはそれぞれ三畳ほどの個室が充てがわれる。始業時間まではまだ一時間ほどあるから、まだ落ち込んでいられる猶予があった。

 入校前の自分を恨む。

 あれだけの準備期間があったというのに、基礎体力作りすら怠り別のことに打ち込んだ。反感から、使えない人間をスカウトしたと思わせ三島に恥をかかせようとした。

 周囲の人間の迷惑など、一切考えず。

 なんて幼稚な人間なのだろう。

 考えにすら至らなかった、どれだけの無関係な人を巻き込むかを。

 なんて愚かな人間なのだろう。

 穴があったら入りたい。そのまま消え入りたいほどに。

「はぁ……」

 何度目のため息だろうか。ここに来てから、普通に息をしている時間の方が少ない気がする。

 コン、とドアのノックする音。

 公平だろうか。

 カズキに積極的に関わろうとするのは、公平くらいのものだった。他のものからしてみれば、教官に目をつけられているカズキは腫れ物だ。あいつはコネで入ったんだ、なんて妙な噂すら立っている。

「どうぞ」

 今にも消え入りそうな声で応える。遠慮がちにドアが開く。それは公平ではなかった。

「大丈夫?」

 柊ユキを初めて見た時、カズキは天使が地上に舞い降りたと思った。艶のある黒髪で大きな目をした少女。神々しささえ感じ、思わずたじろいたほどだ。

 なんでも体力試験では男子を抑え最優秀の成績出合格したという。

「なななな、なな、なんでここに!?」

 驚くのは当然だった。それは、ここが男子寮だからだ。基本的に男子寮には女性は入ることはできない。逆も然り。女子寮に男が進入しようものなら、まず生きては帰れないだろうとさえ言われていた。

「無理を言ってお願いしたの」

 落ち着いた、芯のある声。

「これ」

 そう言ってユキが差し出したのはおにぎりだった。小さめのものが二つある。

「さっき余ったぶん、食堂の人にお願いしておにぎりにしてもらったの」

 なんという気遣いだろう。

 特に女性への免疫がないカズキが、心を撃ち抜かれないのは嘘だった。いやむしろ、こんな可愛い子にこんなことされて惚れない男がいるのだろうか。自分だって疲れているはずだというのに。

 よく見ればまだ汗ばんでいて、髪も少し乱れている。朝の貴重な支度時間まで削っておにぎりを作ってくれたのだ。

 やばい、泣きそうだ。

 ぐっと涙を堪える。

「あ、ありがとう。ありがとうっ!」

「私もご飯食べるの辛いけど、これだったら食べられたから。一緒に頑張ろう! 二十歳組は三人しかいないんだからさ」

 二十歳組とは、高校卒業してから一年開けて試験に合格したものたちのあだ名みたいなものだった。第二新卒みたいなものだろうか。今年は三人。カズキと公平と、それからユキだ。

「じゃあ、そろそろ叱られそうだからいくね」

 恐らくここに居る男どもにそんなことをするような奴は居ないだろうが。

 ユキは踵を返して去っていった。カズキはその背中をずっと見ていた。さっきまで去来していた重くドロドロした感情は、いつの間にかなくなっていた。

 天使だ。

 彼女は、憐れな男に遣わされた天使に違いない。

 包みを剥がして一つ口に入れる。涙が出てくる。ご飯ってこんなに美味かったんだな。おにぎりのたった一つだというのに、感動と元気を与えてくれる。

 頑張ろう。そう自然と思えた。

「ありがとう」

 カズキはもう一度礼を言った。

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