至高の世界へ誘う災厄
髭眼鏡
始まりの災害
プロローグ 1
管弦楽の甘い音色が響いている。
柔らかな音が会場を満たし、聴く者の心を豊かにしていく。
飴色の歌声がホールに降り注いでいる。モーツァルトの子守唄。彼女の代名詞とも言えるこの曲は目当てに、大勢の聴衆が集まっていた。
浅見ゆきは甘美なその歌声に酔いしれていた。
クリスマスイブの夜。隣には最愛の男性。このコンサートも、彼が誘ってくれたものだった。
なんて幸せな夜なんだろう。
両親が誕生日に贈ってくれた水色のドレスを着て、素敵なディナーを楽しんで、音楽に身をまかせる。最高の夜。
もう、死んでもいいくらい。
演奏が終わり、ステージの上で一礼。一瞬の間の後、万雷の拍手が鳴り響く。ゆきも思わず立ち上がり、惜しみない拍手を送る。
歌手が満面の笑みで手を振っているのに、ゆきは思わずドキッとした。
どうしてだろう、今変な感覚が。
別におかしなことがあるはずもないのに、どうして不安に思ったのだろう。
時々こんな事があるのだ。自分が幸せの中にいると、何故だか漠然とした不安に襲われる。まるで自分が幸せであってはならないみたいに。
そんな自分の感覚に不気味さを覚えて思わずかぶりを振る。
やめよう、ネガティヴは。彼にも申し訳ない。きっとこんな素晴らしいコンサートが終わってしまったことが悲しいだけだ。
鳴り止まない拍手の中、ふと見ると、ステージの上の彼女が何か言っている。目を凝らし耳をすますと、微かに聞こえてきた。
モーツァルトの子守唄。
彼女がアカペラで歌っているようだった。
えっ?
ファンサービスだろうか。
しかし大きな拍手が邪魔をして、大多数の観衆には声が届いていない。それともこの後になにかシークレットプログラムでもあるのだろうか。
疑問に思い、隣にいる彼の方を見た。
彼はそこには居なかった。
代わりに黒い大きな何かが居た。
大きく裂けた口に、凶暴さを強調するようにどう猛な牙が並んでいる。そこから赤い何かが滴り落ちている。やけに鉄臭かった。
充血した剥き出しの眼光が、ギョロリとゆきを見据えた。
「えっ?」
彼女の意識はここで終わりを告げた。
歓声はやがて、叫喚に変わっていく。
「どうなってる!!」
現場から怒号が飛び交う。人の波が絶え間なく流れて行く。すれ違う人々の表情を見て、浅見巡査部長は事態の深刻さを知る。
「新宿六から本部、現着した!」
無線を飛ばすが、本部も混乱しているらしい。指示らしい指示もないまま沈黙している。
「くそっ!」
悪態をつき、コンサート会場の入り口へと向かう。何故か電気が消えていて、一寸先に進むのも危うかった。
「浅見部長っ!」
絹川が叫んでいる。今年配属されたひよっこだ。
「お前はそこで交通整理してろっ!」
こんな数の人間を捌けなんて無理を言っているのは承知しているが、仕方がない。応援が来るまでなんとしてでも持ちこたえて貰わなければ。
何せ、この中には。
「至急至急! 西新宿において死傷者多数、直ちに現場へ急行せよ!」
無線が大音量でがなる。もう十分前もから同じ内容が繰り返されている。
大量殺人犯がこの中にいるのだ。
浅見はホルスターから拳銃を取り出す。射撃の腕は中の下くらいだが、どうにかするしかない。
「応援を待ちましょうっ!」
絹川が再度叫ぶが、浅見は意図的に無視した。浅見には一人でも行かなければならない理由があった。
「浅見部長ぉ!!」
人混みをかき分け、どうにかエントランスに入る。
殆どの人は避難しているようで、だだっ広い空間が所在無げに佇んでいる。何があったか問いただすが、まるで要領を得ない。
仕方がない。
階段を上り、ホールへと続く道を駆けていく。
ひどく静かだった。
自分の荒い息遣いだけが聞こえている。外にいるはずの群衆の叫びすら遮断されて、世界に自分一人だけになってしまったようだった。
扉の前に着いた時、微かに人の声が聞こえた。人が逃げていったはずなのに、何故か扉は閉じている。
浅見はガチリ、と撃鉄を起こす。まだ生存者がいるかもしれない。大きく息を吐き、恐怖を追い出す。
ゆきは無事だろうか。あれだけの人が居たのだ、すれ違っても気がつかない。まさか、まだ中にいるなんてこと。
最愛の娘、浅見ゆき。
度重なる不妊治療でようやく授かった一人娘。
浅見も妻もゆきを溺愛した。運動会文化祭などの行事は欠かさず参加していた。
大学に入り、年上の男と付き合いだしたと知った時には、大きなショックを受けた。生まれて初めて娘と喧嘩した。
それでも愛する娘の誕生日だけは、とプレゼントに妻と相談して買ったドレスを贈ることにした。
これで仲直りができるかもしれない。
妻も、相手の男性は好青年だと話していた。許すかどうかはまだ分からないが、孫の顔が見られるというのは甘い謳い文句ではあった。
きっと好々爺になるのだろうな。署内では交通の鬼、なんて呼ばれているのにな。
そう思っていたのに。
小さく扉を開ける。錆びた、ぎいという音が耳障りだった。
中からの声が大きくなる。
それは甘い、女の歌声だった。
反射的に飛び出した。
地獄だった。
血染めの床に無造作に肉塊が散乱している。むせ返るほど生臭い、非現実的な光景。
視界全体が赤く濁っている。
手が震える。足がすくむ。身体が言うことを聞かない。
何してる!
俺は警察官だろっ!
むりやり発破をかけ、湧き上がる吐き気をようやく堪えて、浅見は周囲を見渡した。
薄暗い客席と対照的に、ステージはスポットライトで煌々と照らされている。
聞いたことのある歌だった。
娘のゆきが好きだった歌。
女は腕には何かを抱いていた。血まみれの、人間のようなもの。
人形?
馬鹿な、状況を考えろ。
あれは、どう見ても。
人間だ。
拳銃を構え、じりじりと距離を縮める。足元に転がる肉に足を取られながらもどうにか前進する。奴から目を逸らさない、何が起こるか分からない。
だから、分かってしまった。
女が抱くもの。その正体が。
膝から落ちる。
それは浅見と妻とで娘に贈った、水色のドレスを着ていた。
「あああああぁぁああ!?」
発砲、発砲、発砲、発砲、発砲、発砲。
リボルバーが回りきり、カチカチとから薬莢を叩く音がしても浅見は引き金を引くことをやめなかった。
後ろから黒い影が迫っているのを感じていても。
「この責任はどう取るおつもりですか!」
「自衛隊に国内で発砲させるなど、前代未聞ですよ!」
「しかし、そうしなければ!」
「言い訳はやめていただきたい! これは国の汚点である!」
「しかし憲法の解釈によると……!」
「そんなことは聞いていない! 責任を取って辞任するべきではないか!」
「静粛に! 静粛に!」
テレビの向こうの議会では激しい議論が繰り広げられている。全国で同時多発的に発生した未曾有の大災害から一週間が経った。死者三千六○人余り、重軽傷者合わせ数万人を超える大惨事の対策が、今話し合われている。
通称、ヴィクター災害。
あの事件で多くの警察官が命を失った。警察の保持する装備だけでは、怪物をその場に留めることすら困難だった。
事態が収拾したのは事件発生から七時間後、政府が怪物、ヴィクターを災害と認定し、自衛隊が出動してからほんの三十分後のことだった。
「警察に対策部署を設立し、重火器の使用を許可するしかあるまい」
政府は自衛隊が国内で武器を使用することを嫌い、対応を警察に求めた。適切な装備さえあれば十分対処可能なことが判明したからだ。あとは法整備さえ整えば対策部署が設置されると言うところまで漕ぎ着けたのだ。
しかしそこからが問題だった。
野党がこの事件の責任を取れと、内閣辞職を求めたのである。
国会は紛糾し、法案可決の一歩手前から遅々として進まない。終いには警察が力を持つべきではないとする政党まで議論を蒸し返し、永田町は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「馬鹿らしい」
七海が吐き捨てる。身内を大勢失ったのだ、そう断ずる気持ちも分からなくもない。
「議論は尽くすべきだ」
片桐が制する。法案が可決したとき、不満が残っていてはたまったものではない。執行するのは現場だ。余計な茶々を入れられたら現場が混乱する。
「それに可決されるのも時間の問題だ」
片桐の言葉に、その場にいる全員が頷く。やらねばならないことは山積みだ。
「先ずは人材の確保。我々は貴重で優秀な警察官を失いすぎた」
通常の警察業務に加え、新たな部署の設立。人員補充が急務であることは疑いようのない事実だ。
「そして、例の装備についても」
「イブですか」
「そうだ。我々に責を与えるならば、相応の餌を貰わねば」
「餌など! 犬でもあるまいし」
七海が顔をしかめる。しかし片桐は意に介さない。
「計画を進めろ。そして手に入れるのだ、奴らに痛みを与えるための、我々の剣を。イブを、強化外骨格を––––」
「えー、ニュースの途中ですが、ここで速報が入って来ました。本日午後二時頃、殺人容疑で全国指名手配中の元警察官、森田和希容疑者が逮捕されました。繰り返します、殺人容疑で指名手配中であった森田和樹容疑者が逮捕されたとの情報が––––」
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