病夢とあんぱん その46


「いや、そんな・・・頭を下げられても・・・・」


 深々と、何の躊躇ためらいもなく土下座をする機桐はたぎり父に対し、僕は、あたふたすることしかできなかった。

 ・・・ここまでするのか。子供のためなら、親はここまでできるのか。

 正直、口論になると思っていた。というか、口論をするつもりだったのだ。

 僕が彼に投げかけた言葉は、「お前は親失格だ」と遠回しに言っているようなものだ。怒らせてしまうのは、当然である。むしろ怒ってもらった方が、こちらもはっきりと、「莉々りりちゃんを返せ」と要求できる。

 だが・・・こんな風に、ただただ誠実に頭を下げられてしまえば、こちらも強くは出られない。


「・・・とりあえず、頭を上げてください。機桐・・・さん」

「・・・・」


 機桐父は静かに頭を上げ、もう一度、椅子に座り直す。その顔には、土下座をしたことに対する恥じらいは、少したりともない。

 とても悲しそうで、思い詰めた表情だ。莉々ちゃんのことを本気で考えているのだと、ひしひしと感じられる。


「・・・・・」


 僕らの間に、重苦しい沈黙が訪れた。

 どうしようもなく気まずい沈黙が。

 きっと、僕も、機桐父も、同じことを考えていただろう。同じように、莉々ちゃんのことを考えていたのだろう。

 僕にとっては、特に何の思い入れもない女の子であり。

 彼にとっては、最愛の娘である。

 機桐莉々のことを。


「莉々は・・・」


 と、先に沈黙を破ったのは、機桐父の方だった。


「莉々は、とても優しい子なんだ。そして・・・私は、その優しさに甘えてしまった。娘の優しさに、甘えてしまったんだ・・・」


 彼は、静かに首を横に振る。


「私は少し前まで、とある病院の院長をしていてね。より多くの患者を救いたい、助けたいと、そんな風に考えながら、毎日を過ごしていたよ。だから・・・莉々にあんな才能があると知ったときは、心の底から喜んだものだ。あんな風に人の傷を癒すなんて、他の誰にも出来ない。これなら、もっとたくさんの患者を救うことができる、とね」


 微笑を浮かべながら、彼は懐かしそうに語る。


「私は、莉々に言い続けていたんだ。お前は、たくさんの人を救える。多くの人を幸せにできる。・・・そんなことばかりね。最初のうちは、莉々も嬉しそうに頷いていた。私の期待に、応えようとしてくれていた・・・こんなに重たい責任を、背負おうとしてくれていた。まだまだ、幼い子供だったというのに・・・」


 本当に、できた娘だよ・・・私には勿体ないくらいにね。と、彼は続けた。

 たくさんの人を救う責任。

 確かに、それは子供が背負うような責任ではないだろう。いや・・・そんな責任は、誰にも背負えないはずだ。

 大人だろうが、医者だろうが、そんな責任を完璧に全まっとうすることは、誰にも出来ないだろう。


「そのときは、まだ、それが『やまい』と呼ばれていることを知らなくてね。とんでもない才能だと思ったよ。その才能を磨きなさい、上手く扱えるように練習しなさいと、うるさく言ったものだ。その結果、どうなったか・・・分かるだろう?徐々に、莉々は私の言葉に耳を貸さなくなっていった。今、考えれば、当然のことなんだけれどね・・・。その頃は、そんな当たり前のことにすら、気付くことができなかった・・・」


 うつむきがちになりながら、悔しそうに、彼は言った。


「そんな私の言動を、よほど見ていられなくなったのだろうね。妻と息子は・・・何も言わずに、この家を出て行った。私と莉々を残して、この家を飛び出し・・・帰ってくることはなかった。妻に、『あなたは父親失格』と、最後に吐き捨てるように言われたのは、今でも覚えているよ・・・」


 「お母さんとお兄ちゃんがいなくなった」。と、莉々ちゃんは言っていたらしい。

 それも確か、おきさんが教えてくれたことだ。

 夫と娘を見捨てて逃げ出した母親も、褒められたものではないと、僕なんかは思ってしまうけれど・・・・・。それだけ、夫を止めるのは難しいと感じていたのだろうか?


「そして・・・」


 と、彼はそこで言葉を切った。

 そこから先を語りたくないかのように、口をつぐむ。

 一瞬、僕らは、再び沈黙に包まれた。


「そして?」


 僕は先を促すように、口を開く。


「そして・・・手が出てしまったんですか?莉々ちゃんが言っていました。お父さんに虐められた、と。その『虐め』は、そのときに起こったんですか?」


 正確には、莉々ちゃんが言っていた、ということを、沖さんから聞いただけなのだが。

 「虐め」。

 はっきり言ってしまえば、家庭内暴力、ということなのだろう。

 娘の反感を受けた父親は、ついに、暴力を振るってしまったのだろうか?

 しかし。


「いや・・・手は出していないよ。どんなに莉々を追い詰めていたとしても、暴力だけは振るっていない」


 と、少し驚いたかのように、彼は否定した。

 ・・・ん?違うのか?

 「虐められた」とは、暴力を受けたことを指しているのではないのか?

 ならば・・・何が、彼女をそこまで追い詰めたんだ?

 彼女を、家出をしなければならないほどに追い詰めたのは、一体何なんだ?


「だが・・・そうだね。ある意味では、私のとった行動は、虐めに等しかったかもしれない。莉々に虐めと受け取られても、仕方のない行動だったのかもしれない」


 彼は語る。

 思いやりにあふれた、その虐めの内容を。


「莉々を傷つけてしまったと思った私は・・・あの子に、優しくしようと思ったんだ。あの子の優しさに、私も優しさで応えようと思った。だが・・・完全に、逆効果だったよ」

「逆効果?どういうことです?」

「私は、てのひらを返したように言った。もう頑張らなくていいんだよ、無理をしなくていいんだよ。と、そんな風にね・・・。それからすぐ、あの子は姿を消した。私たちの家から、あの子は出て行った」

「・・・」

「私には、分からなかった。どうしてなのか。何があの子の気に障ったのか、まったく分からなかった・・・。親だというのにね。結局、娘のことを、さっぱり理解できていなかった。今でも、あの子の気持ちが理解できているかどうかは自信がない・・・」


 ただ・・・と、彼は顔を上げる。

 その顔には、後悔と悲しみだけが滲にじんでいた。


「おそらく、あの子は・・・失望されたと思ったんだろう。頑張っても褒められず、努力しても期待に応えられず・・・しまいには、見捨てられたと思ってしまったのだろう。私の優しさは、あの子にトドメを差してしまった・・・」


 優しさ。

 優しさが、莉々ちゃんを追い詰めた。


「頑張りすぎなくていい」。

「無理をしなくていい」。


 機桐父のそんな言葉は、莉々ちゃんにはまっすぐ届かなかった。


「もう、お前には期待していない」。

「どれだけ頑張っても、お前は駄目な奴だ」。


 そんな風に、莉々ちゃんには響いたのかもしれない。家出へと、追いやったのかもしれない。

 もつれ合い。

 誤解を生み。

 グチャグチャになって。


 そうして・・・・・彼らの親子関係は、崩壊したのだろう。


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