病夢とあんぱん その38

 

 やくただしは、やなゆうが逃げ出して行った、部屋の出入り口の方を見えた。


(あいつ、逃げてばっかだな・・・)


  最初に柳瀬が逃げ出したときは、さすがに不意を突かれた。

 あんなに恥ずかしげもなく、堂々と逃げ出す敵を、疫芽は見たことがなかったからである。


(まあ、でも、これで終わりだな・・・。三階・・・いや、おそらく屋上だな。そこで決着はつく。同じ間違いを二度繰り返すほど、バカには見えなかったしな)


 またしても三階のどこかの部屋に隠れている、ということはないだろう。と、疫芽は予想していた。

 柳瀬が想像していた通り、疫芽の『やまい』は、物の長さを変えることができる。

 が、自由自在に、とはいかない。そんなに便利なものではないのだ。

 『しんちょうやまい』。

 物を伸ばすことはできるが、短くすることはできない、というのが疫芽の『病』の正体だった。

 それも、生物相手には使えない。刃物やらガラスやらといった、無機物相手にしか使えないのだ。つまり、自分の手足を自由に伸ばしたりすることはできない。そんなことができるなら、武器を持ち歩く必要なんてない。

 二階に容易たやすく侵入できた理由も、この『伸長の病』にある。

 一度、二階に上がって柳瀬の逃げ込んだ部屋を確認した後、外に出る。そして、ビルの二階フロアの高さを、下に向かって引き伸ばしたのだ。結果、一階フロアがほとんどつぶれてしまったが、二階の窓の位置も大幅に下がり、入り込むことができた。


(・・・てんじょう、滅茶苦茶高いな)


  それもそのはずである。

 天井まで、約二階分の高さがあるのだ。高さだけで言えば、体育館並みである。


(ま、別にいいか)


 誰かが使っているわけでもないし。こんなはいビル、そのうち取り壊されるだろう。疫芽は、無責任にもそう考えていた。

 基本的に、彼は考え方が軽いのだ。

 深く考え込むのが好きではない。

 ただ、この状況下において、どうしても考えなければならないこともあった。

 柳瀬との戦いの、決着のつけ方である。


(多分、あいつは『病持ち』じゃねぇ。もし『病持ち』だとしても、戦いの役に立つような『病』じゃねぇんだろうな・・・。だったら、焦って追い詰める理由はかいだな)


 柳瀬が不意打ちを狙っているであろうということは、疫芽にも分かっていた。戦いに慣れていないのなら、尚更なおさらだ。だからこそ慎重に、かつ確実に、追い詰めなければならない。


(屋上に逃げたなら、もうこれ以上、逃げ場はねぇ。相手の出方を見ながら、余裕を持って戦う・・・。なんなら、あいつが戦いを放棄するまで徹底的にやったっていい)


  敵が武装放棄した時点で、確実に殺す。

 この戦いは、それが理想的かもしれない。


(しっかし・・・)


  階段をゆったりと上りながら、疫芽は溜息をついた。


(考えてた以上に、弱々しい奴だったな)


  自分で対戦相手を選んでおいて、そんなことを思うのも筋違いというものだが。

 疫芽はもちろん、「中学校で俺をいじめた奴に似てるし」なんて理由で、柳瀬を対戦相手に選んだわけではなかったのだ。

 相方のスーツ男、じまぶきとの相談の上で、彼との対戦を選んだ。


(詩島の奴は、上手くやってんのかな・・・?)


  詩島の作戦・・・というか、詩島の頼み。

 その頼みを叶える形で、疫芽は今、柳瀬と戦っていた。

 疫芽からすれば、上手くいくとは到底とうてい思えない作戦。

 そして、誰も望んでいない作戦。


(それとも、本当は望まれてんのか・・・?)


 疫芽は、自分の雇い主が考えていることを、いまいち理解できていなかった。疫芽の雇い主は、考えていることが表に出にくい性格をしているのだ。指示することと考えていることが真逆、ということがちょくちょくある。

 思考と行動が直結している疫芽からすれば、理解しがたい性格だった。


(ま、あの人の考えてる事なんか、究極的にはどうでもいいんだけどな。今のところは、やれと言われたことをやるだけだ)


 やはり、彼の思考は簡単な方向へとシフトする。

 今は、目の前のことだけを考える。

 殺すべき目標だけを、殺す。

 殺せと命令された男を、殺す。

 たたそれだけだ、と彼は思った。

 階段を上り切り、ついに屋上の扉へと到着する。この先でどのように柳瀬が待ち構えているのかを、疫芽はまだ知らない。しかし、それは疫芽にとってどうでもよいことだった。

 知っていようが、いまいが、自分は勝てるという自信があった。

 もちろん、過信ではない。

 冷静であるからこそ、どんなことにも対応できる余裕があるからこその自信だ。

 ゆっくりと。

 警戒心をゆるめないように、なるべくゆっくりと扉を開ける。

 瞬間。


「!」


 ナイフの切っ先が、疫芽のほおかすめる。が、これは落ち着いて躱かわす。

 二撃目。

 もう一度振るわれたナイフに対して、疫芽はさらに冷静に対処した。

 『伸長の病』により、ちょっとした日本とう程度の長さまで伸ばしておいた窓ガラスの破片で、柳瀬のナイフを、自分の後方へと弾き飛ばしたのだ。

 不意打ちは、失敗に終わった。

 武器は奪った。

 疫芽は、ほんの少しだけ頬を緩めながら、見据える。

 今から殺す、男の姿を。

 

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