病夢(びょうむ)とあんぱん
ちろ
病夢とあんぱん その1
時は金なり、という。
数十分前までは、きっと随分せっかちな人が考えた
それくらい、
どんなに急いでももう間に合わないとわかっていても、気持ちが焦っているときは身体も焦ってしまうのが人間である。具体的にいえば、行きつけのパン屋『かぶきや』のセールに、どう考えても間に合わなさそうなのである。人によっては「いや、パンのセール程度でそんなに急がなくても・・・」と思うかもしれないが、とんでもない。彼にとっては、とても重要なことだ。なにせ「高級小麦粉と希少な粒あんを使った最高級のあんぱん」のセールなのだ。しかも一年に一、二回しか行われないセールである。あんぱん好きの彼にとって、これほど見逃せないイベントはない。
(今日は早く仕事上がれると思ったんだけどなぁ)
彼は苦々しく考える。
(嫌がらせみたいに仕事量が増えるんだもんなぁ・・・)
今年、社会に出たばかりの新入社員の彼に対して、社会の風当たりは思ったより強かった。そして、偶然なのか何なのか、彼にとって重要なイベントのあるこの日に限って、風当たりは強さを増し、定時から2時間遅れで退社することになってしまったのだ。
(セールの時間はとっくの昔に過ぎてしまったけれど、閉店時間までに行けばもしかしたら・・・・・)
もしかしたら、この2か月間通い詰めた顔なじみの客として、売ってもらえるかもという思いがあった。そのためには息を切らせてでも走るしかない。その走りが功を成すのかどうかは、今から十分後に明らかになる。
十分後、残念ながら功は成さなかった。
「はぁ・・・・・」
と、乱れたスーツもそのままに溜息をつく。ちらりと腕時計を見ると、閉店時間から約十五分が経っていた。
(そりゃあ、店のシャッターも閉まってるよな・・・)
会社を出てからは走りっぱなしだったので、喉がからからだったし、疲れてその場に座りこんでしまいそうだった。
「はぁ・・・・・」
もう一度、大きく溜息をつく。残念ながら、今年のセールは諦めるしかなさそうだ。このセールへの期待もあって、新入社員になってからのこの2か月間を頑張ってきたのだ。正直、落胆は半端なものじゃない。
「はぁ・・・・・」
と、もう3度目だか、4度目だかわからない溜息をつく。もちろんこのセールだけのために仕事を頑張ってきたわけではないのだから、そこまで落胆することもないのかもしれないが、今の仕事があまり好きではない自分にとっては、こういう小さな見返りも結構重要だったりする。入社前こそ、仕事を頑張ろうと意気揚々と張り切っていたが、毎日の単調な仕事の繰り返しに早くも嫌気がさしていた。
(もうさっさと帰るか・・・・)
今日は忙しかったせいで、コーヒー以外まったく口にしていなかった。なので、会社を出るときに至っては空腹で腹痛に襲われてさえいたが、落胆と疲労感でそれすらも消え去っていた。
そんなこんなで、落ち込み、身体を丸めながら僕は自宅への帰路に着いたのだった。
「もし。そこのお兄さん」
そんな風に後ろから声を掛けられたのは『かぶきや』の路地から出ようと、開けた道の方に向けて二、三歩を踏み出したときだった。
「はい?」
と、振りむくとそこには片手にビニール袋を提げた老人が立っていた。てっぺんの禿げた白髪で、髭を結わえた、いかにもおじいさん、という風な老人である。腰は曲がっているが、杖はついておらず、にこにこと人のよさそうな笑顔を浮かべていた。
「もしかすると、このパン屋に用があったのですか?お兄さん」
そう言いながら、老人は『かぶきや』の方を向いた。
「はあ、まあそうですけど・・・・」
僕が『かぶきや』の前で落胆している様子を見ていたのだろうか。そうなると、『パン屋の前で滅茶苦茶落ち込んでいるサラリーマン』というのはどう見えたのだろう。まさか、それが
「このパン屋のパンはどれも美味しいですよねえ。特にあんぱんは最高です。今日は、そのあんぱんの特売日だったのですが・・・あなたは買いましたか?」
「いえ、買いたかったんですけど、間に合わなくて・・・」
正直に話すことにした。ご老体の世間話に乗ってしまうと、長話になりかねないが、まあ『行動不審なサラリーマン』というような印象を持たれるよりかはマシだろう。
「はっはっは。それは残念でしたねえ。それであんなに落ち込んでいらしたので?」
「はい」
「それはそれは・・・・それでは、お腹が空いているのではないですか?」
「そりゃあ、まあ、少しは・・・」
言われると、さっきまでは気にしていなかった空腹感が少しずつ
「こんなものはどうですか?」
と、ビニール袋を漁り終えた老人は何かを差し出してきた。
「あんぱんをどうぞ」
近付いて見てみれば、それはその言葉の通り、サランラップで包まれたあんぱんだった。
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