第58話 そして蕾は花開く

グインとの問題が解決したことでシーナは何ら懸念すること無く酒造りに取り組めるようになった。何処か不安に追われるようだった彼女の表情も、生き生きとした情熱に溢れていた。

 そして時間はあっという間に過ぎ、ついにコンテスト前日の夜を迎える。


「はぁ……疲れました……」


 宿の一室、その窓際に頬杖をつくアインはそう呟く。窓の外から見える風景はロッソのものではない、馬車で一日掛けてたどり着いたヴァッサのものだ。


「それでも良い馬車だったからマシだろ。アルカの時みたいな安馬車だったらツバキは吐いてたぞ」

「それはそうですけどね。一日中馬車に揺られるだけというのも疲れるものなんですよ」


 アインはもう一度息を吐くと、夜風に吹かれながら街の風景を望む。

 豊かな川とその水で栄えたヴァッサの街は、至る所に水路が張り巡らされている。この清涼な水は生活を支える基盤であり財政を支える観光資源でもある。徹底した衛生管理のもとに保たれた水の美しさと街の美景を目当てに訪れるものも少なくない。高台から見下ろす夜景は人気のスポットだ。

 そしてその豊かな水によって栄えたのが酒造りだった。幾ら川の水が美しいと言っても生で飲むのは危険である。飲用にするためには何らかの工程を踏む必要があり、ある場所ではお茶であったり、コーヒーであったりするが、ここでは酒が選ばれたということだ。

 道中でシーナに受けた説明を思い出すアイン。確かに綺麗な場所ですね、と立ち並ぶ露天から溢れる光の列を眺めながら呟く。

 

「しばらくここで過ごすのか?」

「一応そのつもりです。せっかくここまで来たんですし。けど、観光は明日以降ですね……」


 そう言ってアインは欠伸をすると窓を閉じる。やることもないし寝てしまおうとベッドに向かいかけたところに、


「ん、どうぞ」


 ドアがノックされ、立ち止まり答える。

 訪問者はツバキかラピスか。そう予想するが、


「夜分遅くに失礼致します」

「シーナさん?」


 訪れたのはシーナだった。意外な人物にアインは声を上げる。何か用があっても日を改めるタイプだと思っていたからだ。

 そんな彼女が夜に訪ねてくるとは、何かあったのだろうか。

 それが表情に出ていたのか、シーナは慌てて否定する。


「その、少しお話をしたくて」


 そう言いながらも妙に気合が入っている彼女を不思議に思いつつ、アインは構わないとベッドに腰掛け、目の前の椅子を示す。シーナはぎこちない動作で近づき、椅子ではなくアインの隣に腰を下ろす。

 またも妙な彼女を不思議がるアインだが、眠気のせいかそれ以上に思考が進まない。話とはなんだろうとぼんやりした頭で考えるだけだった。


「改めてありがとうございました。アイン様がいなければ、私はここにいなかったでしょう」


 シーナはそう言って、胸元に下げられたナイフを愛おしげに撫でる。


「酒が飲めなくとも酒は造れると信じていました。いつかは必ず花咲く日が来ると……けれど、その花は蕾の内に踏み潰され――そして、アイン様が蘇らせてくれました」


 彼女は、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめて言う。


「不躾な願いとは承知しています。ですが、どうかお願いします。このナイフ、譲って頂けませんか?」

「ああ、いいですよ」

「代価は支払います。私に出来ることならなんでも――えっ?」


 そんなことかと言うように欠伸をするアイン。それを信じられない目でシーナは見ていた。

 

「……あの、本当によろしいのですか? 眠気で思考が整っていないのではありませんか?」

「思考は怪しいですけど……明日になっても変わりませんから、安心してください」

「ですが、これは非常に高価なものではありませんか。こんなものを頂いても、返せるものがありません」

「別にいいですよ。グインに吠え面かかせることは出来ましたし、それで十分です」

「ですが……」


 ああもう。アインは面倒くさそうに言うと、シーナの手に自らの手を重ね、さらにナイフに手を重ねさせる。


「私にとってはこの宝石よりも、貴方の未来のほうが価値があって輝かしいものだと思った。それだけです」


 それは紛れもなく本心だった。グインに腹が立ったことや自らの失敗の償いという要素こそあれど、そうでなければここまではしなかっただろう。

 だから何も遠慮なんてする必要ないですよ。眠たそうなアインはそう続ける。


「アイン様……」


 シーナは感動に瞳を潤ませながらアインを見つめていた。重ねられた手に指を絡め、熱を感じるように頬に触れさせる。そして、頬を赤く染めた彼女は意を決したように身を乗り出して言う。


「その、アイン様が望むのであれば……私でよろしければ……夜の相手も……」

「んんっ!?」


 思わず驚きの声をあげてしまうユウ。幸い緊張で頭がいっぱいなのか、シーナが気がついていない。

 そして、眠気で頭が緩んでいるアインもその言葉の意味がわかっていなかった。ぼんやりした思考で彼女がユウに訊ねる。


『夜の相手って……どういう意味ですか……?』

『いやそりゃあ……寝ぼけたお前がシーナにしたことの続きじゃないか』

『続き……?』


 それはなんだろうと考える事十数秒。体を撫で回したりすることの続き――。


「ッ!?」


 顔から火を噴いたのでは思ってしまうくらいに、アインの顔が真っ赤に染まる。遅ればせながら絡められた指の意味や、頬を染めこちらをちらちらと見やる視線の意味に気がつき、彼女は叫ぶ。胸の底からの否定を。


「違いますから! そういうんじゃありませんから! アレにそういう意図は一切ありませんから!」

「し、しかしあの動きは妙に手慣れていたというか……」

「あれはツバキの……!」

「ツバキ、ツバキ様? 彼女にあのようなことを?」

「そうではなくてー!」


 熱に浮かされた同士の会話は噛み合わず、言葉の投げ合いが続く。

 結局、それは煩さにラピスが怒鳴り込んでくるまで続くのだった。 

 




 普段は舞踏会でも開かれているのだろう広さと絢爛さのホールに、今は様々な料理が並べれたテーブルが置かれ、スーツから作業衣まで幅広い服装をした男女が談笑している。壁に掲げられた横断幕には『第30回 ヴァッサアルコールコンテスト』という意味の文字が書かれていた。

 そのホールの端でアインは落ち着かなそうにフードを被りじっと正面を睨んでいた。その先には、楽しげに談笑するシーナの姿があった。


「人、多いですね……」

「そうだな。ここまでデカイコンテストだとは思わなかった」

「シーナさんは他の人と酒の話で盛り上がっていますし……ラピスとツバキは何処かに行ってしまいましたし……」

「シーナさんはしょうがないだろ。他の店と色々話もあるんだし。ラピスは『ここを見て回る』って行っちまったツバキを追いかけただけ。そのうち戻ってくる」

「そうだといいんですけどね……」


 人の多さに辟易したアインは溜息をこぼす。料理でもつまみたいが、一応はシーナの付き添いであり護衛だ。今は我慢しよう。

 職務熱心な私は偉いですね、と自分で自分を褒めて慣れない空間を耐え忍ぶ。

 それが続くこと数十分。流石に辛くなってきたアインが外の空気を吸いに行こうと思った時だった。


「皆様お待たせしました! ついに、ついにこの時がやってきました! 結果発表の時間です!」


 壇上に上がった進行役の声にホールが一瞬静まり、それを打ち消すように大きな拍手と歓声が響く。

 ついにか。アインは体に力を入れ直し姿勢を正す。シーナは、固唾を呑んで壇上を見つめていた。


「色々と話をしたいところでありますが、酒飲みの皆様は気が短いと思われます! 早速発表に参りましょう!」


 おどけたように言う進行役にどっと笑い声がもれる。しかし、笑っているのはスーツを着た――おそらく商店のものだろう――ばかりで、作業衣やカジュアルな格好をした者は真剣な表情で発表の瞬間を待っていた。


「では、まずは10位からです!」


 続けて進行役は店名と人名を呼び、壇上に上がるよう促す。10位の表彰を受けた男が喜び半分、残念半分と言った顔で表彰楯を受け取ると、観客に向けて掲げる。

 シーナではなかったことに喜ぶべきか、残念がるべきなのか。ユウはそんなことを考えていると、ふと思ったことがあった。 


「なあ、アインはシーナの造った蜂蜜酒は飲んだのか?」


 次に呼ばれた9位の男が壇上に登っていくのを見ながら、ユウは訊ねる。

 

「ええ、飲みましたよ」

「どうだったんだ?」

「そうですね……」


 アインは目を閉じてゆっくりと天を仰ぐ。味を思い出すようにその思い出に浸りそれだけと見つめ合う。観客たちの歓声が何処か遠くに聞こえるような錯覚すらあった。

 グラスを運んだ時の香り。一口含んだ時の味わい。喉を通り過ぎる感覚。その全てが鮮明に蘇る。

 一際大きな歓声にアインは目を開ける。3位を受賞した男が、涙を流しながら感動の雄叫びをあげていた。


「そして、2位はこの人!」


 シーナではない名前が呼ばれ、また一人壇上へと登っていき、歓声が響く。それを歯がゆそうにシーナは見つめていた。

 自分もそこへ行きたい。そこよりも先へ進みたい。どうにもならない思いに胸元のナイフを握りしめる。その丸められた背中にアインは近づき、


「シーナさん」


 何でも無いことのように軽い声で言って、彼女の方を叩く。驚きに背を伸ばす彼女に、アインは微笑んで告げる。


「大丈夫です。貴方の酒は、今まで飲んだどんなものよりも美味しかった」

「……アイン様」

「だから、その、笑いましょう。これからもっと美味しい酒を飲むんですから」


 気恥ずかしそうな小声で言うアイン。


「……それは?」


 それは、とアインは小さく咳払いをして続ける。


「勝利の美酒――」

「そしてぇ! 優勝は!『グッドミード』のシーナ=ビーネンだぁあああああああ!」


 アインなりに精一杯気の利いた言葉は、進行役のシャウトにかき消される。ホールは水を打ったように静まり返り、ただ立ち尽くすシーナを観客たちや壇上の受賞者が見つめていた

 シーナは言葉を理解してもその意味が理解できず、何かに震える体は今にも倒れてしまいそうだった。その震える手が握られる。彼女が顔をあげると、


「……えーと。シーナさんが優勝です。貴方の造った酒が一番だと認められたんです」


 キメ台詞を邪魔されたことに若干拗ねるアインの顔があった。おめでとうございます。そう告げられた言葉に、シーナはやっとその意味を理解することが出来た。


「私……私の酒が……」


 涙は知らぬ間に溢れていた。そして体を震わせるものの正体にやっと気がつく。胸の内側から溢れて、今すぐにも叫び出したいこの気持ちは――。


「本当におめでとうござ、わっ!?

「アイン様! 私、私やったんですね! 酒を、酒を造ることができたんですね!」


 押さえきれない気持ちは体を突き動かし、傍にいたアインに抱きしめる。これは喜びだ。諦めなくて良かった、貴方がいてくれて良かった。今日までありがとう。

 苦しいくらいに抱きしめられるアインにもそれは伝わった。泣きじゃくるシーナの肩を優しく抱く。


「おめでとう!」

「若いのに大したもんだ!」

「来年は俺が貰うけどな!」


 拍手の渦の中心にいる彼女は照れくさそうに頬を染めていたが、居心地の悪さは既に感じていなかった。

 蕾がようやく花開こうとしている瞬間、その直ぐ傍にいるのだ。誰がそんなものを感じようか。


「これからもきっと酒を造ることが出来ます! 貴方のお陰です!」


 シーナはそう言って笑う。それはまるで、大輪の花が咲いたように喜びと希望に溢れていた。

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