ビービ

笹倉

ビービ

 高校生の頃、一羽の小鳥を飼っていた。


 名前はアオ。羽の色が青いという至極単純な理由で、母と妹が名付けた。そもそもこの小鳥を飼い始めることを提案したのがこの二人であり、俺や父はそれに最初は乗り気ではなかった。それは当時、一緒に住んでいた祖父も一緒だった。祖父は無口な方なので、口に出して反対はしなかったものの、かなり皺くちゃな顔を一層しわしわにして、アオが我が家にやって来てからも渋い顔を続けていたのだった。


 ◆


 アオはマメルリハという種類の小鳥だった。インコの一種ではあるが、話すことは得意ではないと言われている。母は毎日、


「アオくん、お母さんって言ってごらん」


 と、リビングに置かれた鳥籠に必死に呼びかけていたが、アオはピーだのピーピーだの単純な鳴き声を上げるだけだった。


「おい」


 アオがうちに来て一年ほどたった頃、放鳥していた時のことである。放鳥と言っても、アオはかなりの怖がりなのか鳥籠の周りをうろうろするだけで、そこから離れようとしなかった。たまに懐いているらしい母と妹の手の上には乗るが、俺や父に関しては頭に糞をしてそのまま飛び去るくらいのスキンシップだった。今思い出してもあんまりである。

 正直なことを言えば、その頃には俺も父もこのちょこまかと動き回る小鳥に少なからぬ愛着を持つようになっていた。

 が、祖父は違った。籠の上に止まってきょろきょろするばかりのアオを忌々し気に見て、イライラした様子でそう呼びかけたのだ。


「おい」


 また言った。が、アオは祖父を避けるように走って、鳥籠の裏側にしがみついた。祖父をにらむようにじっと見据えていた。


「なんでえ、びびってやがんのか。このちびっこが」

「お父さん、なんでそんなこと言うのよ」

「そーだよ、じいじ。アオだって、家族なのにひどいこと言わないでよ」


 不機嫌そうな顔が、妹の一言でさらに歪んだ。

 祖父はイライラするとズボンの右ポケットを弄る癖があった。そこにタバコとライターが入っているのだ。この時も舌打ちすらしつつ、ポケットを漁っていた。


「ひどいもクソもあるか。本当のことだろ」


 可愛げのねえ、と祖父は吐き捨ててそのままリビングを横切ってキッチンへと去ろうとした。たぶん、換気扇の下でタバコを吸おうとしたのだろう。

 しかし、アオはその後姿を見て、ビービ!と鋭く鳴いた。それまでにない鳴き方にリビングにいた俺たちはいささか驚いた。アオは全身の羽毛という羽毛を逆立てた。ビービという鳴き声がつんざくように響いていた。


「アオくん、そうかそうか。怖かったよねえ」


 母はそんな風にアオを宥めたが、ビービ、ビービと鳴く声は止まない。一体何なんだ、もしかして何か病気にでもかかったのだろうか。そんな目配せを父としたときだった。


「……うるせえ。聞こえてら」


 唸るように聞こえたそれにアオは沈黙した。唸ったのは祖父だった。立ち止まってこそいたが、こちらに振り向きもしなかった。白いタンクトップを着た後ろ姿っが不思議と小さく見えたのを覚えている。

 アオは最後に一度だけビービと鳴いて、その後自分で鳥籠に戻っていった。


「何だったんだ。今の」


 思わず俺はアオに尋ねたが、喋ることのできない彼には答えようもなかった。


 ◆


 祖父が倒れたのは、その日から数日経ってからだった。


 もう夏休みも終わりに差し掛かっていて、リビングでクーラーをかけながら数学の宿題を片付けていた。父は仕事、母は近所の手芸クラブの集まり、妹は友達とプール、祖父は散歩。それぞれの用事で外出していた。


「あー外は暑そうだな、アオ」


 リビングの大窓から見える空はどこまでも青く、雲一つなかった。あまりにも鮮やかで今でもそれが脳裏に焼き付いている。

 アオは外の様子にも我関せずといった様子で、右足で自分の頭を掻いていた。器用だな、と思いながらしばらく眺め、また宿題に視線を戻した。そして、


 ビービ、ビービ!!!


 例の鳴き声が唐突に響いた。俺はぎょっとしながら背後の鳥籠へと振り向く。


 ビービ、ビービ!!!


 「お、おい……アオ?」


 ビービ、ビービ!!!


 呼びかけたところでアオは鳴き止まなかった。鳥籠の前の方につかまって、少し前に話題にしていた大窓の方を見つめて、狂ったように、サイレンのように繰り返し。

 俺は先日鳴いた時とは違う雰囲気を感じていた。切羽詰まったような、悠長にしていられないような雰囲気だ。


 冷房が効きすぎていた。鳴き声も相まって頭がガンガンと痛みつつあって。


「アオ、ちょっと」


 ビービ、ビービ!!!

 ピッピィ、ピッピィ?!


 制止しても止まらない上に、何だか変な鳴き声が追加された。ピッピィの方は語尾が微妙に上がっていて、何かを尋ねているかのようだった。無論、何を尋ねているかなんて考えている余裕はなかった。俺は大窓の方を見た。痛いくらいに青い空。


「外に何かあるのか……?」


 耳を塞ぎつつ、俺はどうにか大窓を開けた。

 蝉の鳴き声が降りしきる炎天下、目に染みるような暑さ。その双方が一気に襲い、意識が眩みそうになった。吊るされた洗濯物すら鬱陶しい。しかし、必死に凝らした視線の先に、ベランダから身を乗り出して見下ろした視線の先に、人を視認した。


 焼けつくようなコンクリートの地面に老人が一人。

 地面に横たわって。


「え?」


 それが自分の知っている人物だと認識するのにやけに時間がかかった。

 数秒かかって、ようやくその人の周りに散らばるタバコとライターを認める。そして、白いタンクトップも。


「……じいちゃん!!」


 ビービ!!!


 叫び声にアオの声が重なった。


 ◆


 心筋梗塞だった。辛うじて、一命は取り留めた。病院に運び込まれて手術を受けた直後の祖父は、あの頑固さを取り払ったかのような弱々しい様子だった。肌には血の気はなく、たくさんの管に繋がれて意識もなかった。それで生きていると言われても、正直とても信じられなかった。


 もう少し発見が遅かったらと思うとぞっとする。アオの鳴き声がなければ、祖父が倒れたことになど気づけなかった。

 しかし、逆に考えてしまう。アオは祖父が倒れたことに気づいたのだろうか。気づいたとしたらどうやって。


 祖父はしばらく入退院を繰り返していたが、俺の就職と同時期に息を引き取った。

 そしてその数年後には、アオも死んでしまった。残念ながらアオの死には立ち会えず、妹から連絡をもらうだけになってしまったが。


 そんなわけで、先の疑問も、アオの不思議な鳴き声が何だったのかも、俺にはもう知る術はない。

 それでも夏が来るたびに、あの時の空とアオと祖父を思い出すのである。


(続く)

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