第133話 私とあなたの約束だから
「ねぇ、彩葉」
「ん?」
リビングのソファで雑誌を読んでいた私は、私の名前を呼んだアリーに視線を移した。
「私のヴィトンのバッグ、どこかで見かけなかった?」
アリーは、お洒落な花柄の茶漉しを両手に持ち、私と彼女のティーカップに夕食後のアールグレイを注ぎながら、彼女のバッグの行方を私に尋ねてきた。
「うーん……、見てないけど……。アリーの部屋になかったの?」
アリーは、自分のバッグをどこに置いたのか忘れてしまったらしい。ブランドのバッグなんて、あまり失くすような物じゃないと思うけど……。アリーは、しっかりしているようで、ハルと同じく変なところが抜けている。
「それが見当たらなかったのよねぇ……。困ったなぁ……。東京へ帰る準備をするつもりだったのに……」
アリーは、そう呟きながらソファテーブルの前で屈み、私のティーカップをそっとテーブルの上に置いた。このタイミングで微笑みながらの絶妙な上目遣い。アリーは、容姿とスタイルだけでなく、非常に高い女子力も兼ね備えている。同性の私でも、思わずアリーの行動を目で追い掛けてしまうほどに。
そのアリーは、淹れたてのアールグレイを美味しそうに口にしている。本当に困っているのか疑いたくなるマイペースぶり。こういうところも、ハルと良く似ている。アリーが余裕なのは、私が彼女のバッグ探しを買って出ることを知っているから。伊達に本当の姉妹のように育ったわけじゃない。私もアリーが考えていることくらいわかる。
「食後の紅茶、ありがとね、アリー。これを飲んだら、私も探すの手伝ってあげる。あのバッグ、仕事でも使っているんでしょう? そんな大事なものを失くしちゃうだなんて、最近忙しいって言ってたし、疲れが溜まっているんじゃないの?」
私は、アリーの期待に応えながら、東京で一人暮らしをする彼女の体調を心配した。アリーは、身内という贔屓目を抜きにして、誰もが認めるスタイル抜群の美人さんだ。どこにいても目立つアリーは、上京してすぐに大手ファッション誌のモデルにスカウトされ、デビュー二年目にして人気が上昇し、業界で脚光を浴びている。
誌面の写真に載るアリーは、普段のおっとりした感じの彼女とまるで違う。同一人物と思えないくらいクールで、キリッとした目がとてもかっこいい。
「最近、忙しかったから、ちょっと疲れが溜まっていたかも。でも、久しぶりに実家に帰ったことで元気が出たかな。彩葉とゆっくり話もできたしね」
「アリーも頑張ってるんだね。次は、いつこっちに帰って来れるの?」
「仕事次第になるけど、たぶん、ゴールデンウィークかなぁ……」
「そっか。でも、無理はしたらダメだからね? アリーも夢中になると、ハルみたいに限界まで頑張っちゃうんだから」
「心配してくれてありがとう。しっかり肝に銘じておくわ。どころで、彩葉。ハルは、まだ学校から戻らないの?」
「うん、新入生の入学式の後片付けだから、帰りは八時過ぎるって言ってたよ」
私は、アリーの質問に答えながら、ティーカップを手に取り、アリーが淹れてくれたアールグレイをいただいた。口の中にほのかな酸味と心地よい香りが広がる。
「そっか。面倒くさがりなハルにしては、頑張って続いてるね、生徒会」
「たしかに」
私たちは、互いに顔を見合わせてクスクスと笑った。それからアリーは、私の隣のソファに腰掛け、肩に掛かった長いブロンドの髪を手櫛で整えた。アリーの髪は、本当に羨ましい。思い返してみると、ハルは、時々アスリンのブロンドの髪を目で追っている気がする。
やっぱり、ハルは、ショートよりもロングの方が好みなのかな。それとも、アスリンのブロンドの髪を見て、ママやアリーのことを思い出しているのだろうか。
私は、ハルの行動を思い返しているうちに、アリーの前でアスリンの名前が出た矛盾に気がついた。
アスリンを見てアリーを思い出すのならわかる。けれども、その逆の現象が起きている。つまり、これは夢だ。となると、そのうちヴリトラが現れるはず……。
私とアリーの衣装は、まだ冬物。壁に掛かるカレンダーは四月。夢の中の私は、アルザルに来る前の、何気ない日常の記憶の断片を思い出しているのだと思う。
「ねぇ、アリー」
私は、少し強めの口調でアリーの名前を呼んだ。
「ん、急にどうしたの、彩葉?」
アリーは、ティーカップを両手に持ったまま、不思議そうに首を傾げて私に訊いてきた。
「今日は、何年何月何日?!」
「ちょっと、彩葉? 何かあったの? 今日は、カレンダー通り、平成一九年の四月六日だけど……?」
やはり、この夢は私の過去の記憶なのだと思う。
「アリー、六月三日の試合の日なのだけど……」
「あー……、その日はインハイの地区予選だったよね? ごめんね、彩葉。試合の応援、行くつもりだったのだけど、ちょっと無理になっちゃったのよ。六月は、モデルの仕事がたくさん入りそうで、夏休みまで安曇野に帰れないのよ……」
アリーは、両手を合わせ、申し訳なさそうに私に謝罪してきた。アリーの声が、先ほどよりも小さくなっている。
お願い、ヴリトラ。もう少しだけ待って……。
「違う、そうじゃないの! その日、もしも私たちが突然世界からいなくなったとしても、私たちは遠い場所で生きているの。いつか、必ず戻るから!」
アリーと話せる時間は、あまり残されていない。焦れば焦るほど、適切な言葉が浮かんでこない。
「どうしちゃったの?! 明日から新学期でしょ? 疲れているなら、私の探し物なんかに付き合わずに、すぐに寝た方がいいよ?」
凄く心配そうな目で私を見つめるアリー。そのアリーの姿も、少しずつ薄れてゆく。突然、世界からいなくなると言われても、私が何を言っているのか見当がつかないと思う。私が夢の中のアリーに、奇怪な事件の話を伝えても、過去を改変できると思えない。せめて、私たちが、生きていることだけでも伝えられれば……。
アルザルは、魔力が存在する不思議な世界。人間以外の知的生命体もいるし、竜族や高度な文明を持つアヌンナキだっている。夢で何かを伝えられる可能性が、ゼロパーセントじゃないなら試してみる価値がある。
いつのまにか、先ほどまで何もなかった私の手の甲に、黒鋼の鱗が表れていた。確実に現実と私の目覚めが近づいている証拠だ。
「見て、アリー。私は、この通り人じゃなくなってしまったの」
私は、手の鱗をアリーに見せた。
「彩葉……。それ……」
アリーは、目を見開いて私を見つめ、声を震わせていた。
「私は、太古の竜の魂を宿した、ドラゴニュートなの……」
私が続けてドラゴニュートのことを伝えようとした時、アリーの姿が見えなくなり、周囲の景色が暗闇に変わってしまった。夢の中のアリーを、
それからすぐに、暗闇に輝く二つの鮮やかな赤い光が、アリーの代わりに現れた。
そう、黒鋼竜ヴリトラの登場だ。
◆
(お久しぶりね、ヴリトラ……。できれば、あなたが登場するタイミングを、もう少しだけ遅らせて欲しかったけれど……)
『いかような夢を見ていたのか存ぜぬが、久方ぶりの邂逅にもかかわらず、随分な言い草だな、彩葉よ』
別に、ヴリトラに八つ当たりしたつもりはないのだけれど、私からの念話に棘があったらしい。
(ごめんなさい、ヴリトラ。気分を害したなら謝るわ。ただ、もう少しだけ、夢の中で家族と話がしたかっただけ……。ねぇ、私が夢の中で伝えた言葉は、現実に届くと思う?)
『さて、それは、我にもわからぬ……。そなたが見た夢は、そなたの記憶を基にした夢に過ぎぬ』
夢の中でアリーに掛けた言葉が届くかどうか。それは、ヴリトラにもわからないらしい。ただ、困惑したヴリトラの口調から、現実的に無理なのだと思う。
『それよりも、彩葉よ。そなたの体を
(それはどうも……。あなたでも天使たちのことで、知らないことがあったのね?)
私は、何万年も生き続ける太古の竜が、天使たちの全てを知らなかったことに驚かされた。
『無論だ。そなたら人の子も、我ら竜族やアヌンナキのことを詳しく知らぬであろう?』
(それはそうだけど……)
そう言われると、返す言葉が見つからない。
『しかし、アヌンナキを知らぬそなたが、竜族の仇敵を討ち果たすなど、我は思いもしなかった。人の子は、定命でありながら、僅かな期間で目まぐるしく成長する種族。それが実に面白い。自らを
(……ごめんなさい、ヴリトラ。戦争で生き抜くためとはいえ、あなたの仲間をたくさん殺めてしまった……)
ヴリトラは、死天使アズラエルを討ったことを褒めてくれた。しかし、その内心は、きっと怒っている。私とハルは、ドラッヘリッターのドラゴニュートたちを、竜族の魂ごと討ってしまったのだから……。
『なぜ、そなたが謝る? あれは、そなたが生きるために避けて通れぬ戦だった。万が一、そなたが死者の国へ経つ時は、我も命運を共にする時。同胞と敵対することになった原因は、第四帝国を操るアヌンナキの一党にあった。そして、そなたは、その一党の一柱を討ち果たした。その功績は大きい。竜族の本質は、戦うことで己が強さを誇示するもの。黒火竜パズズと黒竜ジルニトラのドラゴニュートは、魂を宿した器の力量が、そなたに及ばなかっただけに過ぎぬ』
ヴリトラは、私の予想に反して、怒ってなどいなかった。それどころか、私の行動を賞賛しているように感じられた。ヴリトラの口から出た竜の名は、私が討ったダルニエス少佐とマックスさんに宿っていた太古の竜の名前なのだと思う。
キアラとリーゼルさんの話によれば、残りのドラッヘリッターの堕ちた天使たちもドラゴニュートのはず。それに加え、大天使ラファエルたちパワーズの存在もある。この先も、激しい戦いが続くと思う。私は、ヴリトラに直接伝えられる時に、敵の存在を伝えることにした。たぶん、ヴリトラは、私を通して既に知っていると思うけれど……。
(そうに言ってくれると、少し気持ちが晴れるかな。けれど、私たちが厄災に抗おうとする限り、大天使ラファエルたちパワーズとの戦いは続くはず。パワーズに従うドラッヘリッターには、属性八柱のドラゴニュートがまだ存在している。たぶん、彼らとも戦うことになると思うけれど……)
『彩葉よ、戦が続くことは、我も承知しておる。それにしても、我と契約した者とそなたは、数奇で厄介な運命に巻き込まれたようだな。ニビルの襲来に伴う厄災の阻止。そして、敵は、あのラファエルか……。竜戦争では、多くの同胞が奴に討たれた。ラファエルが、神竜王アジ・ダハーカの呪怨が招いた厄災を利用し、アヌンナキを創造した
(ヴリトラは、大天使ラファエルに対して怒っているの?)
『無論だ。奴は、自身の欲望のために、我ら竜族まで利用している。神竜王ミドガルズオルムの名を出し、我を含めた多くの竜族を
(ヴリトラ、竜族がラファエルに騙されているなら、絶対に戦わなくちゃいけない理由なんてないよね? どうにか戦わずに済む方法ないのかな? 例えば、ドラゴニュートの竜の魂同士で対話ができれば……)
『我らは、器を支配するアヌンナキと異なり、人の子の体を支配できるわけではない。魂同士の対話が可能であれば、そなたが同胞と戦うことはなかっただろう』
(そう……、だよね……。それができるなら、初めから彼らと戦うことはなかったよね……)
『落胆するでない、彩葉よ。人の子らの国で、そなたに並ぶ戦闘力を持つ者は、そうそうおるまい。そなたは十分強い。それは、我が保証しよう。しかし、そなたが身を置くこの国に、そなたの強さを快く思わぬ、俗に溺れた卑しき人の子らもおるようだが……』
ヴリトラは、何でもお見通しだった。実は、レンスターの重鎮や臣下たちの間で妙な噂が広がり、私のことを快く思わない人が日を追うごとに増えていた。ドラッヘリッターのスパイだとか、私がレンスター家に刃を向ける可能性を否定できないだとか……。そんなこと、絶対にあり得ないのに……。
ドラゴニュートは、元々忌み嫌われていた存在。レンスターの臣下たちは、戦場でドラゴニュートの戦闘を目の当たりにしたことで、私の存在を脅威に感じているのだと思う。公王陛下は、私に気にするなと言ってくれるけれど、これまでレンスターに歓迎され続けていただけに、寂しい気持ちの方が強かった。
その状況が続く中で、私の心が折れることなく陛下の護衛を続けられている理由は、いつも私の隣でハルが支えてくれているから。
(そのことも、気がついていたのね。さすが、何でもお見通しね)
『当然だ。そなたとは、思考と感情以外の……、感覚を共有しているからな』
一瞬ヴリトラの
(ヴリトラ、もうわかっていると思うけど……。ハルが厄災に立ち向かうことになった以上、私も彼を支えなければいけない。だから、神竜王に会うという、あなた願いを叶えるのは、もう少し先になってしまいそうなの)
『それで、構わぬ。そなたと……、出会った時にも伝えたが、どれほど時間が掛かってもよい。むしろ、同胞の仇を討つために……、我からもそなたらに、ラファエルの野望を……、阻止することを依頼したい。たとえ困難な敵が現れても……、そなたが好意を寄せる……、ハロルドと協力すれば、如何なる敵をも討ち果たせるはずだ。そして、竜の祠の所在は……、氷雪竜アスディーグならば、知っている……、はずだ、厄災に挑むうちに……、
ヴリトラは、薄れゆく中で、厄災を優先することを承諾してくれた。むしろ、大天使ラファエルの野望を阻止することに、意欲を燃やしているようだった。
(わかったわ。必ず厄災を阻止して、エルスクリッドの竜の祠を目指すね。これは、私とあなたの約束だから)
『承知した、彩葉よ……。どうやら……、そなたの目覚めが……、迫っているらしい。最後に……、そなたは強いが……、
ヴリトラの
(忠告なら従うわ。何でも言って)
『そなたが、ハロルドと……、同じ
私は、ヴリトラの魂と感覚を共有していたことを思い出した。
急に恥ずかしさが込み上げ、私はヴリトラを直視できずに俯いてしまった。胸がバクバクと脈を打ち始める。
忠告が何かと思えば、大きなお世話。ハルに告白されてから四ヶ月。最近は、それなりのスキンシップもあるし、二人で王城に泊まることも多かった。
しかし、全てヴリトラに見られていた……。
あぁ、最悪! ウザい! ヴリトラの馬鹿! 本当に腹立たしくムカつく……。
それをこの去り際のタイミングで直接私に言うだなんて……。
黒鋼竜ヴリトラは、ユッキー以上にデリカシーがないのかもしれない……。
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