第108話 幸運のおまじない

「ハルと別行動になったこと、まだ怒ってるのか?」


 ユッキーは、年代物の四弦ギターのコードの調整をしながら、いつもの調子で私をからかってくる。


「別に……、面白くないと感じていることは認めるけど、初めから怒ってないよ? シャストラの起動が無事に済んだかどうか心配なだけ!」


 私は、ニヤニヤと含み笑いを浮かべるユッキーに本心を告げた。語尾が強くなってしまったのは、私が苛立つことをユッキーが思い出させたから。


 私が面白くないと感じたことは、アナーヒターのコスチュームだ。どうして、入浴を済ませた私たちと同じバスローブ姿で応接室で私たちを出迎えたのか。私にはそれが理解できない。


 仮に天使といえど、アナーヒターは、二十代の大人の女性にしか見えない。しかも、出るところは出ている絶妙なプロポーション。人間の姿でいるのだから、もう少しデリカシーを持った行動を取るべきだと思う。


「ほら、やっぱり不機嫌じゃん……。もしかして、生理?」


「違うっ!」


 デリカシーがないのは、この男も一緒だった。


 むしろ逆に前回から二ヶ月以上、月のものが来ていない。多少の遅れは、過去に何度かあったけれど……。これは、ドラゴニュートの体質が影響しているのだと思う。自分自身のことなのにわからないことだらけでとても辛い。


「ユッキーさん、そう言う発言は、あまり感心しませんね」


「す、すみません、リーゼルさん……」


 ユッキーが謝る相手は、私だと思うのだけど……。


 リーゼルさんの威厳ある口調に圧倒されたのか、ユッキーはすぐに彼女に謝った。この際だから、リーゼルさんにユッキーのしつけをお願いしたいくらいだ。


 私と同じドラゴニュートのリーゼルさんなら、私と同じことで悩んだことがあるかもしれない。後でリーゼルさんに相談してみよう。


「ねぇ、ユッキー。アスリンの前でそんなこと言ったら知らないからね?」


 本当に嫌われても知らないぞ、まったく……。


「き、気をつけます……。ところで彩葉、この四弦ギターのコード、少しキーが高くなっているけど、彩葉が使っていたアコギベースと同じコードで合わせたから試してみて」


 反省しているのかいないのか。ユッキーは、すぐにいつもの調子に戻り、私が調律をお願いした四弦ギターを私に手渡した。


「ありがとう、ユッキー。それじゃ、ちょっと試し弾きしてみるね」


 私はユッキーから四弦のギターを受け取り、鼻歌を混ぜながらコアーズのスペンシルヒルのサビのフレーズを奏でてみた。久しぶりのせいか、少し指がおぼつかない。でも、きっとすぐに体が思いだすはず。


 私がママから譲り受けたアコギベースより、小柄で少しキーが高いけど、弾いた感触や音質は悪くない。持ちやすさと軽さが好みに合う。


「どう、彩葉?」


「結構好みかも! ありがとね、ユッキー」


「どういたしまして!」


 調子を尋ねたユッキーに私が応えると、彼も満足そうに頷いた。普通にしていれば、ルックスも悪くないしモテると思うんだけどなぁ。


「幸村さん、幸村さん!」


 少し興奮気味のキアラが、ユッキーの元へ一丁のバイオリンが入った古びた木箱を持って駆け付けた。


「どうしたの、キアラ? ……って、良さそうなバイオリンを見つけてくれたのかい?」


「はい! しかも、このバイオリンの刻印ですけど、アントニウス・ストラディバリウス・クレモネンシス。ストラディバリウスじゃないでしょうか?」


「な、何だって?! ちょっと見せてもらえるかな?!」


 ユッキーは、キアラが持つ木箱の中からバイオリンをそっと取りだして、刻印をまじまじと見つめた。そして、顔を上げたユッキーは目を見開いて驚いている。


「マジで本物だ……」


 価値までわからない。けれど、私も耳にしたことがあるバイオリンの銘柄だ。ユッキーが真剣に驚いているのだから相当貴重なものなのだと思う。


「それって有名なの?」


 私がユッキーに尋ねると、彼は興奮した様子で私に答えた。


「弦楽の奏者で、これを知らない者はいないさ! 十七世紀から十八世紀にかけて、イタリアのストラディバリ親子が制作した幻の名器だよ。展示されている物なら見たことがあるけど。ボクが触っていいのか不安になるよ……」


「本物でしたら国宝級ですね……」


 リーゼルさんの言葉に、ユッキーが頷いた。


「まったくです! アナーヒターさん、ただの楽器コレクターなんてレベルじゃないっス」


「良かったですね、幸村さん! 天使アナーヒターは、アトリエにある楽器を自由に使っていいと仰ってましたし、折角なので演奏してみてはいかがでしょう?」


「あぁ、そうさせてもらうよ、キアラ! いやぁ、こんなお宝に巡り会えるなんて思いもしなかったなぁ」


 キアラの提案を素直に受け入れたユッキー。浮かれ過ぎていないか心配だけど、子供のように目を輝かせているユッキーが少し可愛いらしい。


 ハルも昔は、よくこんな表情をしていたのだけどなぁ……。


「国宝級って、いくらくらいするものなの?」


 たぶん、高額なのだろうと思うけど、私は参考までにバイオリンの値段をユッキーに尋ねてみた。


「日本円で軽く十億!」


「は、はぁっ?! じゅ、十億?!」


 私の予想より二桁多い金額だったため、思わず大きな声を出してしまった。


 部屋の隅で丸くなって眠っていたシェムハザの耳が、私の声でピクリと反応した。そして、赤黒い円らな瞳を片方だけ開けて、迷惑そうな顔つきでジッと私を見つめてくる。シェムハザの毛は、リグに洗われたことでフサフサになっており、雨に濡れていた時よりも一回り大きく見える。


 憎たらしそうに鼻で溜め息を吐く仕草が、何ともいえず可愛らしい。みんなには、大型のネコ科動物の良さがわからないらしいけど……。


「何だか随分と賑やかにやっているねぇ」


 声の方を見ると、アトリエの入口にアナーヒターが立っていた。アナーヒターのすぐ後ろには、ハルとアスリンの姿も見える。シャストラの起動が、予定通りに終わったらしい。


「天使アナーヒター! このストラディバリウス、借りちゃってもいいんですか?」


 ユッキーは、早速アナーヒターの元へ駆け寄り、高価なバイオリンの使用許可を求めた。


「あぁ、先に言った通り、ここのアトリエにある楽器は自由に使って構わないさ。その楽器は、アタシには難度が高くて手に余る代物だから、アンタが弾けるなら、その方がソイツも喜ぶだろう」


「あ……、ありがとうございますっ! おい、ハル! ちょっとこれ見てくれよ」


 ユッキーは、アナーヒターに礼を述べると、嬉しそうにハルとアスリンに駆け寄り、ストラディバリウスを披露した。


「もし本物ならやばいくらい高価だろ? 調子に乗って壊すなよ?」


 ハルは、浮かれ気味のユッキーに忠告した。


「そんなことしないって! そうだ、ハル。ハルが好みそうなアコギがあったから、音を合わせておいたぜ。あそこの座椅子に立て掛けてあるヤツな。今日は、彩葉のベースもあるから気合入れて行こうぜ!」


「そいつはいい! サンキュー、幸村! 彩葉はベースの調子どう?」


 ハルは、ユッキーに礼を言い、ギターを手に取りながら私に調子を尋ねてきた。


「うん、少し指先に不安があるけど大丈夫。ただ、竜の念話まで同時に乗せるのは無理かな……」


 歌とベースと竜の念話。三つの動作を同時にこなすのは、さすがに無理っぽい。私がハルに返事をすると、私が持ったアコギベースと私を交互に見比べながら、アスリンが期待の眼差しで語りかけてきた。


「今日は、彩葉もギター弾くのね? ちょっと楽しみかも! きっと素敵なんだろうなぁ」


「ち、ちょっとアスリン。緊張するから、あまり期待しないでね。私のベースは、ハルやユッキーと違って、音を合わせてリズムを取る程度。久しぶりだし、もう少し練習しないと……」


 私は、咄嗟に思い浮かんだスカボローフェアのイントロを奏でることで、アスリンの期待の眼差しから逃がれた。すると、私のルート音に合わせて主旋律が流れ始める。ハルのギターだ。そして、私とハルのギターの音色がアトリエ内で調和する。ハルは、ギターを奏でながら私を見つめ、笑顔でそっと頷いた。


「わあー……。彩葉、やっぱり凄いじゃないっ! 彩葉の音で、いつものハルのギターに立体感が出たと言うか……」


「大袈裟だよ、アスリン……」


 私を見つめるアスリンの目が、先程以上に輝いていた。私はアスリンから目を逸らし、俯いてジッと床を見つめた。


 実は、私はプレッシャーに弱い。それは自覚している。剣道の試合の時だって、極度の緊張から体が強張こわばり、ミスを突かれて追い込まれたことが何度もある。その度に、応援に駆けつけてくれた父さんやハルの声援と笑顔に救われてきた。


 思いを巡らせているうちに、総体地区予選の決勝戦のことが脳裏を過ぎる。あの時も、ハルの応援のおかげで、重圧に押し退けて勝利を掴んだ。決勝戦で戦った佐藤さんは、本予選を勝ち抜いてインターハイへ出場できただろうか……。


 つい二カ月前は、普通の高校生活を過ごしていた私たち。あまりに現実からかけ離れた世界を体験したために、何もかもが遠い昔のことのように感じてしまう。


「彩葉さん、大袈裟なんてことはありません!」


 キアラの声で、私は我に返った。キアラは、いつの間にか私の正面に移動し、笑顔で私を見つめていた。


「アスリンさんが言ったように、彩葉さんのギターも凄く素敵です! 自信を持ってください。もし、よろしければ、テーブルや扉などを指先で軽く三度叩きながら『トイ・トイ・トイ』と唱えてみてください。これは、幸運が招かれて何事も上手く行くという、古くから私たちの国に伝わるおまじないです。きっと、リラックスできるはずですよ」


 キアラが彼女の国に伝わるおまじないを教えてくれた。


 キアラは、仲間思いで気配りが上手な優しい子だ。本当は、誰よりも辛い思いをしているのは、最愛の義父を目の前で亡くしたばかりのキアラだ。それなのに、毅然とした態度で辛い現実から目を逸らさず、しっかりと前を向いている。私もキアラを見習わないと……。


「トイは、悪魔トイフェルの略で、連呼することで成功を妬む悪魔の雑念を追い払う魔除けの意味があるそうです。彩葉さん、こんな感じで唱えるの。トイ・トイ・トイ……」


 リーゼルさんは、キアラの説明を捕捉すると、近くにあった譜面台を人差指で小さく三度叩きながら、自ら幸運のおまじないを実践してみせた。キアラも、私を見て一度頷いてから、リーゼルさんに続いて幸運のおまじないを唱えた。


「キアラ、リーゼルさん。二人ともありがとう。私もやってみるね。……トイ・トイ・トイ……」


 私は一度深呼吸をしてから、譜面台の端を右手の人差し指で軽く叩きながら呟いた。少し照れくさかったけど、不思議なことに心が温まる。


「俺もライブの成功を祈願してやってみよう」


「ボクも!」


「私もやってみる!」


 ハルに続いてユッキーとアスリンも指先で楽器や譜面台を軽く叩きながら、それぞれ幸運のおまじないを唱えた。


 私たち六人の表情は、いつの間にか笑顔に変わっていた。このおまじないは、本当に幸運が招かれるのかもしれない。


「静かに暮らすのもいいけど、こういう賑やかな雰囲気も悪くないねぇ。シェミー、アタシらもテルースのまじないをやってみないかい? 悪魔払いのまじないでレプティリアンが消えてくれたら、アタシらも有り難いじゃないか」


 ずっと黙って私たちの様子を見守っていたアナーヒターが、まだ眠たそうにしているシェムハザに声を掛けた。


「折角だが、ワシはやめておくかのぅ。それは、テルースの人間たちが始めたワシらの呪法の真似事だからの。それが成功すると思えぬからのぅ」


「チッ……。シェミーは、そうやって現実的過ぎるから、周りから愛想を尽かされるのさ。シェミーのせいでシラケちまったけど、アンタらの準備ができているなら、アタシにテルースの調べを聴かせておくれ」


 アナーヒターは、シェムハザに対して吐き捨てるように文句を言うと、私たちを見つめてライブを要求してきた。


「わかりました、アナーヒター。彩葉、幸村。準備はいいかな?」


 ハルは、いつものライブの時と同じように、私たちに準備状況を尋ねてきた。これに私とユッキーが応じれば、ライブが始まる流れだ。ユッキーは、ストラディバリウスの調律が終わったのか、弦を爪弾きながら私を見て頷いた。そんなユッキーに、私も首を縦に振って応える。


「もちろん、オッケーだぜ!」

「いつでもどうぞ!」


 リスナーは、アスリンたちの他に天使が二柱。まさか、私たちが天使にライブを披露することになるだなんて思いもしなかった。


 アヌンナキの感性は、人間に近そうだし、きっと私たちドラゴンズラプソディの音楽を楽しんでくれるはず。


 私たちのライブは、それからすぐに始まった。


 久々に三人の楽器が揃ったライブは、いつも以上に私たちの気持ちが盛り上がる。ライブの後半は、アナーヒターのリクエストもあって、名器を手にしたユッキーによるバイオリンの独奏の場となった。


 ユッキーが奏でたストラディバリウスの音色。それは、鋭い力強さと繊細な美しさを兼ね備た品位のある響きだった。喩えるなら、氷上を舞い踊る妖精そのもの。世界に誇る名器というのは伊達じゃない。ユッキーのバイオリンを聴き慣れている私とハルでさえ、その音に訊き惚れてしまう程だった。


 この場にいる誰もが、ユッキーが奏でるバイオリンの音色の虜になっていた。名器が発する旋律が輝くのは、もちろん奏者がユッキーだから。


 ユッキーは、天性の素質を持った凄腕のバイオリニストだ。しかし、それ以上に誰にも負けないくらいの努力家だ。これだけの数の曲を全て暗譜していることが、それを証明している。


 普段のユッキーを知る人は、みんなこのギャップに驚かされる。まぁ、それがユッキーの魅力の一つだったりするのだけれど。




「こんな場所にアンタだけ連れて来て悪かったね」


「いえ、それは構わないのですが……」


 ライブの後に、私だけがアナーヒターに連れられて来た場所は、大小様々な大きさの瓶が台座の上に置かれた薄暗い部屋だった。


 たぶん、中身は薬だと思う。丁度、学校の理科室の隣にある準備室のイメージに近い。アナーヒターが手に取った瓶の中身は、水色に光る液体の中に小さな木の実のような物が何粒か入っていた。


「ここは、アタシの仕事場みたいなところでね」


「それは、薬……、ですか?」


「まぁ、そんなところさ。これは、収穫したカシギの実に、アタシの呪法で作りだした癒しの水を調合したものでね。巷では豊穣の実と呼ばれる代物さ」


 これが豊穣の実。どうして私にこれを見せたのだろう。


「豊穣の実は、あなたがフェルダート地方の民に配り、農作物の恩恵を与えているとシェムハザから伺っています」


「あぁ、たしかに。けど、この瓶の中身は余り物。これをアンタに託そうと思っていたのさ」


「わ、私にですか? どうして? そんなことをすれば、この船を護るアスディーグが怒ったりしませんか?」


 シェムハザの話によれば、高価な豊穣の実を巡って争いに発展することすらあると聞いている。そしてヴィマーナの守護竜の目的は、この豊穣の実だ。


 アナーヒターは、私の質問に答えることなく、私に向けて豊穣の実が入った瓶を放り投げた。


 落とすわけにはいかない。そう思った私は、必死にそれを両手で掴んだ。


 この実があれば、生活に苦しむ人が減るかもしれないというのに。まったく、アナーヒターは、一体何を考えているのだか……。


「アスディーグは、誇り高き竜族。羨ましがっても怒ったりしないさ。アタシは、その実を巡る人間同士の不毛な殺し合いを見るのが飽きちまってねぇ。アンタは、異界の者でありながらレンスターで英雄だ。物欲に駆られた醜い連中だって、全員が馬鹿じゃない。アンタがカシギの実を持っていれば、力ずくで奪おうとするヤツが減るだろうしね。使い道は、アンタが決めな。アンタ自身がその実を食っても構いやしないさ。むしろ、アタシ的にその結果の方が興味あるけどねぇ」


 シェムハザから聞いた話によれば、この実を大地に撒けば、その土地が豊作に恵まれる。そして、女性が食べれば子供に恵まれるのだとか……。それって、つまり……。考えると体が熱くなる……。でも、全身に黒鋼の鱗がある女なんて、ハルだって嫌だと思うし……。


「どうしたんだい? 顔を赤らめたり浮かない顔をしたり、忙しい娘だねぇ」


 表情がすぐ顔に出てしまうのは、私の悪い癖だ。


「べ、別に何でもありません……。わかりました、アナーヒター。豊穣の実は、私が預かり必要に応じて使おうと思います」


 私がアナーヒターにそう告げると、豊穣の天使は満足そうに頷いた。


 瓶の中の実は、全部で五つあった。アナーヒターの真意はわからないけど、私が自由に豊穣の実を使っても良いのであれば、パッチガーデンのように、戦争で荒廃してしまった耕作地を救済することが一番望ましいことだと思う。


 この先も、ヴァイマル帝国との激しい戦いが続くはず。


 パッチガーデンの戦いは、レンスター側の勝利で終わり、近代兵器を鹵獲したことで戦力が増強された。しかし、依然として劣勢な状況に変わりない。遊撃旅団の戦力は、レンスター側の倍以上の戦力があるのだから。





 それから二十日後の、帝竜暦六八三年十一月三十日。遊撃旅団による大規模な反撃作戦が、フェルダート川を越えて開始された。

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