第106話 豊穣の天使

 氷雪竜アスディーグの導きにより、氷の橋を渡った俺たちは、ヴィマーナの内部へ足を踏み入れた。


 ヴィマーナの船内は、まるで高級ホテルさながらの雰囲気で、騒音もなく程良い気温と湿度が保たれており、照明があるわけではないのに全体が明るい。意外なことに緑も多く、通路の脇に小さな水路があり、そこに一定の間隔で、観葉植物や奇麗な花が咲いた植物が置かれている。


 船内の通路の先で、俺たち六人とシェムハザは、自らをリグと名乗る二体のロボットに出迎えられた。リグは、流暢なシュメル語で俺たちに挨拶をすると、そのままヴィマーナ内の案内を始めた。シェムハザの話によると、人工的な知性を持つリグは、アヌンナキの生活を補佐する目的で作られたオートマタと呼ばれるロボットなのだという。


 リグの大きさは、体長一メートルに満たないくらいのサイズで、頭部が尖った円筒形をしている。リグの移動手段は、車輪や脚によるものではなく、床面から五センチメートル位の高さで浮揚した状態で自在に移動するものだった。


 リグの体の透明なガラスの中に、基盤やカラフルに発光するライトか見える。たぶん動力源は、電気なのだと思うけれど、魔法的な力で動いている可能性も考えられる。


 何も持たないシェムハザの説明だけでは、あまり説得力がなかったけれど、実際にヴィマーナやリグを見たことで、天使たちの科学技術が地球人類の文明を凌駕していることがよくわった。


 誘導する二体のリグが、最初に俺たちを案内した場所は、ヴィマーナ内の浴室だった。リグの説明によると、アナーヒターは、雨に濡れたことで体が冷え、体力が落ちている俺たちのことを気に掛けているらしい。


 シェムハザは、アナーヒターのことを変わり者呼ばわりしていた。けれども、アナーヒターの配慮は、少なくともヤマネコの天使よりも人間味や温かさを感じる。そもそもシェムハザ自身が変わり者の天使だ。変わり者から見た変わり者は、に近い常識を持ち得ているのかもしれない。


 ただ、ヴィマーナの浴室は、俺のイメージと掛け離れており、浴槽らしい等身大のカプセル型の機械が二基設置されているだけで、仕様がさっぱりわからない。他にこの浴室にあるものといえば、入浴後に羽織る丈の長いバスローブが掛けられたハンガーラックがあるくらいだ。


「ワシまで湯浴みする必要などないと思うのだがのぅ。体が乾けば問題なかろう?」


「シェムハザ様に問題がなくても、姫君が問題を抱えます。姫君は、シェムハザ様の体臭と体に纏わりつくのみがお好きではありません。我儘を言わず、どうぞこちらへ。この浴室では、シェムハザ様を洗うことができません」


 入浴を拒むシェムハザに対して、紳士的な男性の声のリグが、洗われることを嫌がるヤマネコの提案を退けた。どうやらリグは、アナーヒターのことを姫君と呼んでいるらしい。


「蚤と体臭って……。リグは容赦ないなぁ……」


 容赦ないリグの発言に、幸村がボソッと呟いた。リグの言葉は丁寧だけど、言葉が直球過ぎて言い方がキツい気がする。


「仕方がないのぅ……。あの者の言うことを聞かないと、後が面倒くさいからのぅ……。汝らはここで身を清め、リグに従って先にアナーヒターの元へ向かうがよい……」


 シェムハザは、力なく俺たちにそう言うと、先導するリグの後をのそのそとついてゆく。耳を垂らし、尻尾を丸めて歩くシェムハザは、本気で湯浴みが嫌いなのだろう。


「シェムハザ、可哀そう……」


 彩葉がシェムハザの背中を見て心配そうに気遣った。彩葉の猫好きは、猛獣の類にまでその範囲が及ぶらしい。


「まぁ、シェムハザのことは、リグに任せておけば大丈夫だろ? それより、この浴槽みたいなのは、どうやって使うんだ?」


 俺は、シェムハザを心配そうに見送る彩葉を宥めながら、もう一体のリグに浴槽の使い方について尋ねた。


「それでは、入浴方法について説明いたします。まず、私がカプセル型の浴槽の扉を開けます。その後、あなた方は、着用している衣類を全て脱ぎ、浴槽内で仰向けになっていただきます。カプセルの扉が閉まりましたら、あなた方の任意のタイミングで、右の手元にある緑のスイッチを押してください。それで湯浴みが始まります。湯浴みの時間は、約四十秒程で終わります。あなた方が現在着用している衣類は、私どもが責任を持って洗浄いたします。必要がありましたら、衣類が乾くまで、そちらのバスローブをご利用ください」


 俺の質問に答えたリグの声は、落ち着きのある女性の声だった。ロボットに淡々と脱げと言われても、いささか抵抗がある。入浴後だって全裸で歩き回るわけにいかない。仮にバスローブしかないとしても、バスローブが必要に決まっている。


「想像もつかない湯浴み方法なのですけど……。全員ここで脱げとか言いませんよね?」


「それは……、さすがに抵抗あるわね……。男女で入浴の時間を分けるとかできるのかしら?」


 キアラとアスリンが恐るおそる、俺と幸村の顔を見ながら呟いた。まぁ、当然その話の流れになるだろう。さすがに俺だって抵抗がある。抵抗せず喜ぶのは、幸村くらいだろう。


「男女……、なるほど。人間は、身や心をさらけ出すことを恥じらいと思う種族でしたね。時間は十分あります。男女別に入浴の時間を分けていただいて結構です。入浴を不安に感じているようですが、心配には及びません。人間の体を媒体とする姫君は、毎日数回これを使用しております。入浴後は、身も心も完全に洗い流され、爽快な気分になると仰っております。ただ、起動してから約四十秒の間は、目を閉じて呼吸を停止させないと、大変苦しい思いをするそうです」


 まさか、溺れたりするわけじゃないだろうな……。


「何だかよくわからないシステムだけど、スパリゾートのアトラクションみたいで楽しそうじゃない? ボクが先に試してみてもいいかな?」


 幸村だけは、ヴィマーナに入ってから異様にテンションが高い。オカルト好きもここまでくれば立派なものだ。


「なに、その毒見的な……。だいたい、こういう場合は、レディに譲るものじゃない?」


 彩葉が先走ろうとする幸村に食いついた。彩葉は、猫好き以上に大の風呂好きだ。


「そうか、彩葉! 二基あるし一緒に入ろうぜ?」


「はぁっ?! どうしてそういう流れになるのよ?!」


「遠慮するなよ! そう恥ずかしがら……」

「さっさと入っちゃいなさいっ! この変態っ!!」


 幸村の変態発言を彩葉が遮り、彩葉は顔を真っ赤にしながら浴室を出て行った。


「まったく、ここまで来て何やってるんだか……」


 予想通りの結末に、俺は右手を額に当て首を横に振った。


 日常化しつつある馬鹿なやり取りを見て、アスリンは嘆息し、リーゼルさんとキアラは、顔を見合せて苦笑いした。


 この後、入浴までの間にもうひと悶着あったのだけど……。


 いつものように、幸村に変態のレッテルが貼られて事なきを得たため、今回その話は割愛しようと思う。



 ★★



「狭い風呂だったかもしれないけど、疲れが取れて温まっただろう?」


 私をジッと見つめたまま質問する、二十代半ばに見えるこの女性こそ、豊穣の天使アナーヒターだ。豊満な胸元まで届く長い黒髪は、彩葉さんのように艶やかで美しく、切れ長の目とシャープな輪郭が東洋人を思わせる。


 天使アナーヒターの身形みなりは、応接室内の豪華なインテリアと対称的に、私たちと同じ白いバスローブ一枚を羽織っているだけ。もしかしたら、彼女自身も入浴を済ませたばかりなのかもしれない。


「は、はい……。短い時間の割に、体がしっかり温まりました。入浴後に持続する保湿と、汗腺や毛孔の何とも言えない解放感は、慣れると癖になるかもしれませんけど……。ただ、少し私には刺激が強過ぎて、堪えるので精一杯でした」


「刺激を堪える……? プッ……。アハハハハハハハッ!」


 私が正直な感想をアナーヒターに伝えると、彼女は思い切り吹き出して腹を抱えて笑い始めた。天使独特の不気味に輝く赤黒い瞳に涙まで浮かべている。私の発言がそんなにおかしかったのだろうか……。


 先程体験したヴィマーナの湯浴みは、私が想像できる領域を超える仕組みだった。カプセル型の浴槽内に入ってスイッチを押すと、浴槽内全体が温かい湯で満たされた。リグが呼吸を停止させないと苦しむと言った意味が良くわかった。そして、その湯で満たされたカプセル内に、高圧の洗浄液が噴出され、体の隅々まで自動で洗浄してくれたのだけど……。


 自動で体を洗われる感覚は、他人に全身をくすぐられる感じに近かった。それが約四十秒間、足の裏やデリケートな部分に至るまで襲いかかってくる。私の個人的な感想を言えば、爽快な気分とは程遠く、激しい疲労が残る最悪な入浴システムだ。高圧の洗浄が終わるまで、声すら出せずに水の中で耐えるという表現が適切だった。


「いや、笑ってすまなかった、キアラ。シェミーから事前に聞いていた通り、アンタは嘘がつけない素直で正直者なんだね」


 驚いたことに、アナーヒターは私の名前を知っていた。


 アナーヒターがシェミーと呼んだ相手は、きっとまだ体の洗浄から戻っていないシェムハザのことだと思う。『事前に』ということは、シェムハザが何らかの手段を使って、私たちのことをアナーヒターに伝えていたということになる。


「天使アナーヒター。あなたは、俺たちのことをシェムハザから聞いているということですか?」


 ハロルドさんがアナーヒターに質問した。


「そうとも、ハロルド。アタシの耳にあるこれだけどね。これは、装身具じゃなくアートマという通信具なんだ。言葉だけじゃなく、記憶の一部も送れる優れものさ。アタシらアヌンナキの間では、広く出回っているものだよ。仕組みは至って簡単。竜族が使う高周波数帯の念話に、錬金術で磁気を加えたものさ」


 アナーヒターは、ハロルドさんを名前で呼び、彼女の左の耳朶みみたぶにつけられたイヤリングのような物に触れながら答えた。仕組みは簡単と言ったけど、私には何がどうなっているのかさっぱりわからない。


 天使たちは高度な文明技術と魔術を駆使する宇宙の民だ。普通に考えれば、私たちが使う無線のように、遠く離れた相手と連絡を取る手段を持っていても不思議ではない。


「記憶の一部……、ですか?」


 彩葉さんがアナーヒターに尋ねると、アナーヒターは笑顔で彩葉さんに頷き、鮮やかなデザインの煙管きせるを手に取りながら、更に言葉を続けた。


「香りや目で見た光景など、五感で感じた情報をそのまま伝えると言えばわかるかい? アートマで伝えられる情報は、言葉だけじゃない。だから、より綿密な情報が相手に伝えられるってわけさ。ラファエルたちの動向やシェミーが置かれている現在の状況。そして、アンタたち六人のある程度細かなことまで理解しているつもりだよ」


 アナーヒターは、淡々と語りながら右手に持った煙管を口へ運び、オーブを潰してそれに火をつけた。そして、ゆっくりと煙を吸い込んでから、気持ち良さそうにそれを吐き出す。


「ある程度の細かなことまで……、ですって? また、随分と上から目線な言い草ね。私はシェムハザに、個人的なことを語った覚えはないのだけれど? それとも、これはシェムハザの呪法『星読み』の側面的効果なのかしら?」


 天使嫌いのアスリンさんが、アナーヒターに突っかかる。


「概ね正解だよ、トゥーレの民アスリン・リル・アトカ。アンタが仲間にすら話していないようなことまで、アタシは知っている」


「へぇ、興味があるわね。例えば、どんなことかしら?」


 アナーヒターは、挑発するアスリンさんを見つめてほくそ笑んだ。


「まぁ、気分を害すようなら途中で制してくれて構わないさ。答え合わせのつもりで聞いておくれ。これは、はぐれエルフのアンタが、阿漕な商売から足を洗い、人間社会で精霊術を売りにして傭兵稼業に就いた頃の話だ。各国を流浪していたアンタは、ある時をきっかけに同業者の仲間ができた。その傭兵仲間と共に諸国を旅するようになったアンタは、仲間の一人である人間の男に恋をした。しかし、アタシらと同じに縛られないエルフ族のアンタは、その人間の男と同じ時間を生きる中で、人間と深く関わることに限界を感じていた。だからといって、同族を嫌うアンタは、エルフ族の社会に帰順できるはずもなく……」

「も、もうそれ以上言わなくていいわ! あなたが言ったことは……、だいたい正解よ。本当に、そんなことまで……」


 アスリンさんは、少し強い口調でアナーヒターの言葉を遮った。先程まで強気だったアスリンさんは、表情が凍りついていた。その手は強く握りしめられ、小刻みに震えている。きっと、アナーヒターが言ったことは、知られたくないことだったのだと思う。


 かつての恋人……。そして、人間とエルフが生きる時間の壁……。


 私だけでなく、この場にいる全員がアスリンさんに注目していた。幸村は、アスリンさんに好意を抱いているだけに、アスリンさん以上に動揺しているように感じられた。


「大丈夫、アスリン?」


 アスリンさんの隣に座る彩葉さんが、心配そうにアスリンさんを気遣った。


「う、うん……。大丈夫よ、彩葉。ごめんなさい、私のせいで空気を悪くしちゃったわね」


「これで理解できたかい、アスリン? ふざけた姿をしているけど、アタシらのリーダーの呪法は、未来視に限るものだけじゃない。対象の記憶を見るという優れた能力もあるのさ。それを証明するために、アンタを利用したことは謝るよ」


 シェムハザの星読みは、他者の記憶まで覗き見る……。


 私の過去もシェムハザに見られていたかと思うと、腹立たしさと気持ちが悪さが押し寄せてくる。


 しばらくの静寂。場の空気が重くなる。


「て、天使アナーヒター、一ついいスか……ね?」


「何だい、ユッキー?」


「このヴィマーナって空を飛べるんスよね?」


 幸村さんが話題を変えてくれたお陰で、重苦しくなっていた空気が少し和らいだ。


「それはもちろん」


「それだけシェムハザと連絡を密にしていたなら、ヴィマーナがレンスターへ来てくれても良かったんじゃないスかね? ボクたち、この山を登るのでさえ、割と命懸けだったんですけど……」


 私も幸村さんの意見に同意だ。


 私たちの任務は、あくまでもシェムハザの警護。シェムハザがアナーヒターを求めていたのだから、ヴィマーナがレンスターへ迎えに来るべきだと思う。


「それができればいいのだけどね。今はアタシのヴィマーナにシャストラがいなくて動かせないのさ」


「シャストラ……。そういえば、大天使ラファエルのヴィマーナの操縦室に、シャストラがいるという話を聞いたことがあります」


 リーゼルが何かを思い出したように呟いた。アナーヒターは、そんなリーゼルに頷くと、シャストラについて説明を始めた。


「シャストラってのは、リグに似た知能を持つオートマタでね。リグとの大きな違いは、ヴィマーナを操縦する技術を持っていることさ。ヴィマーナの操縦は、難度が高くてねぇ……。アタシらアヌンナキでも、ヴィマーナを直接操縦できる者は、そう多くない。もちろん、ウチの船にもシャストラはいたんだけど、サウバブラという小型のヴィマーナに乗って、に向かっている」


「その言い方だと、動けるシャストラは外出していて、動いていないものなら、ここにいるということかしら?」


 アスリンさんが、アナーヒターに尋ねた。小型のヴィマーナという情報が気になるところだけど……。


「察しが良くて助かるよ、アスリン。実は、このヴィマーナ内に稼働していないシャストラがいるんだよ。稼働していないオートマタは、初期動作として雷属性の呪法かオーブを付与する必要があってね」


「まさか、それにハルが……?」


 彩葉さんがハロルドさんを見つめながら声を上げた。


「そう、雷天使ラミエルのルーアッハを宿すハロルド、アンタの力が適任なのさ。雷属性を使いこなす希少な呪法使いを探す方が手間って奴でね。アンタたちをここへ招いたのは、シェムハザの依頼というより、アタシからの要望だったのさ。いつだって言葉が足らないシェミーのことだ。きっと、この話も聞いてないと思うけど……。頼めるかい、ハロルド?」


「そうですね……。毎度、シェムハザの説明不足に困惑していますけど……。ヴィマーナが飛べるようになるなら、俺たちが目指す場所までの距離もグッと縮まるような気がします。断る理由などないし、どうだろう? 彩葉、幸村、いいかな?」


「うん、もちろん!」

「当然だぜ、ハル!」


 彩葉さんと幸村さんは、力強くハロルドさんに返事をした。


「フフッ……。アンタたちの目的は、竜の祠が眠るヴァルハラか……。その前に、大仕事があることを忘れてないでおくれよ?」


「もちろんです、天使アナーヒター」


 ハロルドさんは、大きく頷いてアナーヒターの要求を引き受けた。


 利害が一致したハロルドさんたちと豊穣の天使アナーヒター。このヴィマーナがすぐに動くようになれば、私たち国防軍にとってもプラスになるはず。


 今は、豊穣の天使アナーヒターを信じるしかない。まだ先が見える状況ではないけれど、意義のある未来に向けた大きな一歩が、確実に踏み出せた気がする。

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