第104話 天使の方舟

「リーゼルさん、ロープの端末を固定できる場所を探してもらっていいですか?」


「承知しました、イロハさん。あの針葉樹の幹に結んで固定してみます。根の張り具合が立派なので、支点として十分使えるはずです」


「はい、お願いします! これが最後の難所みたいだし、どうにか全員登れそうね……」


 レターケニ山の麓まで来ると、そこからは徒歩での移動を余儀なくされた。私の予想では、静かな山の麓の小屋にアナーヒターが住んでいると思っていた。しかし、それは見事に裏切られた。


 まさか、この雨が降り続く中、約四時間掛けて難所を伴う岩山を登ることになるだなんて……。シェムハザは、アナーヒターがいる場所を知っていたのだから、事前に教えてくれても良かったのに……。


 レターケニ山は、獣道すらない剥き出しの断崖が切り立つ険しい休火山だった。そのため、標高が千メートルに満たない山の割に、魔の山として恐れられ、近づこうとする者は誰もいない。シェムハザが言うには、見えている山頂部分が山の外輪部で、その内側の小さなカルデラ内にアナーヒターの住まいがあるそうだ。


 私たちは、ブリッツに積載された細いロープを使って、ルートを作りながら少しずつ上を目指した。危険な岩場や勾配のきつい斜面にロープを張るのは、身軽な私と地中を移動できるリーゼルさんの仕事だ。ヤマネコの天使、シェムハザも私たちについてきているけど、私たちの作業を興味深そうに眺めているだけ。


 厳しい環境は、レターケニ山の地形だけじゃなかった。地上よりも標高が高いため、吐く息が少し白い。体温が低くなったドラゴニュートの私でも肌寒さを感じる。この雨と気温は、みんなの体力を奪ってゆくはず。


「あの尾根を越えれば、後は下るだけ。そこにアナーヒターの拠点があるはずだのぅ。この雨には、ワシも嫌気がさすのぅ……」


 シェムハザが、私に聞こえるように呟くと、平らな岩場に移動してから全身をブルブルと震わせて体の水分をはじき飛ばした。その仕草は、愛おしく可愛いらしい。


「ねぇ、シェムハザ。アナーヒターは、どうしてこんな切り立った岩山の奥にいるの?」


 私は、左手の甲で額の雨水を拭いながらシェムハザに質問した。今のは、質問というよりも、どちらかと言えば愚痴だ。


 雨具代わりに羽織るケープは、効果がないに等しい状態に濡れている。靴の中まで雨水が滲み込み、肌着も体に張り付く感じで気持ちが悪い。時々、濡れた前髪が額や頬の鱗に挟まって痛いし、もう最悪……。帰り道のことを考えると気持ちが憂鬱になる……。


「それは、レターケニ山の頂上近くの水辺に、カシギの木があるからでのぅ」


「カシギの木?」


「カシギの木は、マナを宿す希少な月桂樹。丁度この雨の季節が、カシギの実が採れる時期での。その実に、アナーヒターが呪法を施こすことで豊穣の実が完成する。欲深き人間どもは、アナーヒターが作り出す豊穣の実を欲しがるからのぅ……」


「豊穣の実……。どんな効果なの?」


「全てが事実かどうか、定かではないが……。その実を耕作地に植えれば豊作となり、枯れ果てた荒れ地に撒けば水が湧き、また、本来であれば繁殖することのない多種族間のつがいですら、子宝に恵まれるという代物でのぅ。アナーヒターは、播種はしゅの時期になると各地を巡り豊穣の実を配布しておる。ただ、その実自体が希少で数に限りがある。それ故、豊穣の実を巡った人間どもの、命の奪い合いや揉め事が後を絶たなくてのぅ……」


 シェムハザが、カシギの木と豊穣の実について説明してくれた。たしかに、それだけの魔力を持つ実であれば、是が非でも欲しがる人間が大勢いるような気がする。人間の欲が、争いや犯罪の元になる現実は、同じ人間として恥ずかしい。


「折角アナーヒターが豊穣の実を人間に配ってくれるのに、それが戦争や犯罪の引き金になるだなんて……。アナーヒターも、さぞかし心を痛めているでしょうね……」


 私だったら怒りと悲しみで、豊穣の実なんて作るのをやめてしまうと思う。


「それはどうかのぅ……。ワシには、あの者がそれを愉しんでいるように思えるが……。あの者は、いささか変わっておるからのぅ……」


 それを愉しむ……?


 理由が理解できず、私はそれ以上何も言えなくなった。変わり者のシェムハザが変わり者と言うのだから、相当なのだろう……。天使の思考や性格は、本当に良くわからない。


「イロハさん、ロープの支点が取れました。皆さんに伝えてください。私はこの先の尾根を伝って、このまま頂上まで行けるか様子を見てきます」


 シェムハザと雑談をしていると、リーゼルさんがロープの固定ができたことを報告してきた。


「はい、ありがとうございます! それじゃ、私はみんなをここに連れてきます」


「承知しました」


 リーゼルさんは、私に頭を下げると、そのまま地中へ溶け込むように姿を消した。


 私は、支点を取ったロープ伝いに岩肌を駆け降りて、みんなが待機している比較的平らな岩場へ向かった。


 竜族の質量は、見た目と違ってとても小さい。だから、ドラゴニュートの私の体はとても軽く、二十メートル程度の高さなら飛び降りても何の問題もない。私は、飛び石渡りの要領で何度かステップを繰り返し、最後にみんながいる岩場に着地した。


 大きな石に腰掛けて待機していた、みんなの視線が私に集まる。ハルは、私の姿を見るなり笑顔を作り、片手を上げて私を迎えてくれた。私もハルに笑顔を返した。


 雨を遮るものが何もないため、みんなも私と同じく全身ずぶ濡れだ。雨に濡れて体が冷えているため、誰もが疲れ切った表情をしている。早く雨を凌げる場所へ行かないと……。


「みんな、お待たせ。ロープの設定ができたから、しっかり掴まって気をつけて登ってね。難所はこれで最後みたい。頂上までもう少しだから、気を抜かずに頑張ろうね」


 私は、みんなにロープの設定ができたことと、残り僅かで目的地に到着することを伝えた。すると、みんなは安堵の表情を浮かべて一斉に立ち上がった。


「サンキュー、彩葉。何度も往復させてごめんな。疲れたろう?」


「ううん、気にしないで。ずぶ濡れで服が張り付いて気持ち悪いだけ。体力的な疲れは、放っておいても回復するから大丈夫。体温も低いせいか、寒くないし……。これも、ドラゴニュートの特権なのかな?」


 私を労ってくれたハルに、私は冗談を交えながら答えた。


「特権って……。頑張り過ぎはダメだぜ? 今みたいに飛び降りて足を滑らせたら、さすがに危ないだろう?」


 ハルは、ため息混じりに私に言った。ハルは、私のことを心配してくれている。それは、素直に嬉しい。


「ハル殿のご配慮、ありがたき幸せ」


 少し照れくさくなった私は、ハルに深々とお辞儀をしながら、時代劇風に感謝を伝えた。


「あのさぁ……。見ている方が恥ずかしくなるような茶番は、二人の時に夜のベッドでやってくれないかな? まぁ、二人のお陰で体が温まったし、さっさと行こうぜ?」


「ベッ……」


 嫌みたっぷりなユッキーのセクハラ発言。私は、恥ずかしさのあまり言葉が出せず、反論できなかった。鼓動が早くなり、顔がほてるのがわかった。私を見るユッキーの不敵な笑みが非常にムカつく。


「悪い、幸村。たしかにいつまでもここにいたら、体が冷えて体力が奪われる。雨に濡れた時間の分だけ危険が増えるし……。幸村の言う通り、先を急ごうか」


 ハルは、ユッキーのセクハラ発言を軽く聞き流していた。ハルの言葉に、ユッキーとアスリン、そしてキアラの三人が頷いた。


 ハルは、ユッキーと同じ部屋で生活しているから、ユッキーのシモネタ話に慣れているのだろうか? ユッキーの発言を真に受けてたじろぐ自分が恥ずかしい。


「それでは、また私が最初に登れば良いですか?」


「そうね、ここに来るまでと同じ隊列で行きましょ」


 キアラが誰に言うともなく質問すると、それにアスリンが答えた。難所の隊列は、キアラを先頭にユッキーとハルが続き、最後尾にアスリンという順番だ。アスリンが最後尾を務める理由は、もしも、誰かが誤って滑落してしまった場合でも、彼女なら風の精霊術で落下速度を緩和できるからだ。


「もし、キアラが足を滑らせたりしたらさ。ボクが全力で受け止めてあげるから安心してね!」


 キアラの耳元でそう言ったユッキーは、いかがわしい笑みが浮かべていた。本当に、この男は……。


「そ、それは結構ですっ! 幸村さん、先程の岩場を登った時ですけど、私との距離が近過ぎましたよ?! 今度は、もう少し間を空けていただかないと……。後ろが気になって登れませんっ!」


 キアラが顔を赤くしながらユッキーに文句を言った。この際だから、もっと言ってやって欲しい。


「はいはい、了解ですよー」


 ユッキーは、両手を頭の後ろで組み、キアラに適当な返事をした。ここは、キアラが本当にセクハラされないように、見張った方がいいかもしれない。


「ユッキー?『はい』は、一度でよろしい。もしもの時は、私が風の精霊術を使うから。それでも、足を滑らせれば怪我をしてしまうでしょうし、ふざけたりせずに気をつけてね」


 アスリンがユッキーをたしなめた。


「す、すみません……アスリンさん……」


 ユッキーは、アスリンに極めて弱い。ユッキーがアスリンに好意を抱いてることは知っているけど……。アスリンは、ユッキーのことをどう思っているのだろう?


 そのアスリンは、シェムハザの呪法『星読み』で未来を見てから少し様子がおかしい。普段通りに振舞っているように見えるけど、私にはわかる。綺麗な緑色の瞳は曇りがちだし、いつもの語尾の力強さがどこか弱々しい。アスリンが言うには、星読みのせいで、彼女のマナまで使ったからだと言っていたけど……。


 アスリンが見た未来の世界は、大人の姿になった彼女自身と私の姿以外あまり覚えていないらしい。ただ、アスリンが成人を迎えたということは、少なくとも私たちが厄災を乗り越えた後の世界になる。その話を聞いたシェムハザは、たいそう満足した様子だった。


 未来の私は、髪を長く伸ばしていたらしい。未来のハルは、未来の私の髪型をどう感じるのか気になるところ。私の髪は、アルザルに来てからニセンチメートルくらい伸びていた。美容室があるわけでもないし、このまましばらく伸ばしてみようかな。


「……葉、おい、彩葉ってば」


 私の名前を呼ぶハルの声で、私は我に返った。考え事に集中し過ぎて、周りが見えていなかった。


 キアラとユッキーは、私が呆けている間にロープを伝ってもう随分上まで登っていた。


「ご、ごめん……。ちょっと、考え事しちゃってて……」


 私はハルに謝った。


「大丈夫?」


「う、うん。大丈夫よ、アスリン。心配掛けてごめんね」


 元気がないアスリンを心配していた私が、逆に彼女に心配されている。


 ダメだな、私……。


「やっぱり、疲れてるんじゃないか、彩葉?」


「本当に大丈夫。ほら、私って、いつも妄想がエスカレートしちゃうじゃない? あの現象だから……」


「なんだ、妄想癖を自覚してたんだ?」


 私が心配してくれたハルに弁解すると、ハルはニヤニヤ笑いながら私の頭を軽く撫でた。妄想癖だなんて……。なんだか馬鹿にされているようで少しムカついた。けれども、ハルの隣でクスクスと笑いだしたアスリンを見たら、腹立たしさがすぐに収まった。


 良かった……。アスリンが笑ってくれた。


「とりあえず俺たちも行こう、アスリン」


「えぇ。それじゃ、彩葉。後からロープの回収お願いね」


「うん、了解」


 私がアスリンに返事をすると、ハルとアスリンは、ロープを伝って難所の岩肌を登り始めた。私が見守る中、二人は順調に登って行く。


 アスリンが難所を登りきる時、先に登り終えたハルが笑顔で彼女に手を差し出した。ハルは、基本的に誰に対しても優しい。それがハルのいいところの一つ。けれど、私の目の前で、私以外の女の子に優しくするハルを見ると、たとえアスリンでもジェラシーを感じてしまう。


 面倒くさい上に、嫌な性格だな……、私……。


 はぁ……。


 私は、自分自身にため息を吐いた。


 そして、ロープの端末を手に取り、それを束ねながら、みんなが登り終えた難所の岩肌を駆け上がった。




 最後の難所を過ぎてから尾根伝いに進むと、シェムハザが言った通り五分も歩かないうちにレターケニ山の外輪部の頂上に到達した。もし、雨じゃなければ、最高のロケーションを楽しめたと思う。


 頂上の外輪に着いた私たちは、アナーヒターの住まいを知るシェムハザの後に続き、緩やかな傾斜のカルデラ壁を下り始めた。


「登ったと思ったら、今度は下り坂ッスか、シェムハザさん? 道のりが厳しすぎッス……」


「文句を言うでない、ユッキーよ。汝ら人間が、ここまでレターケニ山を登るのに苦労するとは思わなんだ。それはワシの誤算だが……。目的地は、もうすぐ目の前だからの」


 愚痴をこぼすユッキーをシェムハザが宥めた。


「シェムハザ、霧で先が見えないけど、これを下ればカルデラ湖でもあるのか?」


「明察通りだの。その湖にアナーヒターの拠点が着水しておっての」


 ハルの質問に答えるシェムハザ。しかし、私には『拠点が着水』という意味がわからなかった。


「ひょっとして、それはヴィマーナですか?」


 そう発言したのは、リーゼルさんだった。リーゼルさんは、天使ラファエルたちと接していた過去を持つだけに、天使のことを少し知っていたのだと思う。


「いかにも。アナーヒターは、ヴィマーナを所持しておるからの。サウバブラのように、戦闘向きではないがの……」


 話が難しくて、シェムハザが何を言っているのかさっぱりわからない。


「マジっすか?! 本物のUFOが見られるだなんて!」


 オカルトが大好きなユッキーは、興奮のあまり疲れが吹き飛んでるように見える。私だってUFOを見ることになるだなんて思いもしなかった。


「ヴィマーナというのは、彩葉たちに出会った時に伝えた天使の方舟よ」


 私がよくわかっていないことに気がついたアスリンが、私の隣に並んでそっと耳元で教えてくれた。


「ほれ、汝らと話しているうちに湖に着いたのぅ」


 私たちは、シェムハザの案内でカルデラ湖に到着した。しかし、視界は先程より悪くなって何も見えない。


「霧で何も見えませんけど……?」


 キアラが見たままの状態を口にした。まさか今度は、ここから泳げと言いださないか不安になってくる。


「ちょっとシェムハザ? ここからどうするつもりなの?」


 私が感じた不安を口にすると、シェムハザは、口角を吊り上げて二本の長い髭を揺らしながら私に答えた。この表情は、コノートヤマネコの笑みだ。


「安心するがよい、彩葉よ。ワシに気づいたあの者が、霧を晴らして迎えに来るはずだからのぅ」


 シェムハザが、そう言い終わると同時に、突然もの凄い風が吹き始めた。


 風の影響で、雨が横殴りに打ち付けてくる。私は、思わず下を向いて、フードの端を手で掴んで顔を覆った。乱気流のようなこの風は、ほんの二十秒程ですぐに止んだ。


 私が顔を上げて視線を正面に戻すと、カルデラ湖上の霧は、風に押し出されるように徐々に晴れてゆく。


 そして、湖の全貌が明らかになった時、私は信じがたい光景を目の当たりにすることとなった。

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