第2話 不気味な視線
本日行われる中信地区予選剣道大会の成績で、男女それぞれ団体戦上位二チームと個人戦の上位八名が、インターハイへ向けた最終予選となる県大会へ出場できる。簡単に言うと、今日の試合は予選の予選だ。
祥鳳学園はスクールバスがあるため、剣道部員と応援の学生は、七時三十分に学校へ集合して試合会場へ向かうことになっている。それで私とハルは、始発の電車に乗るために朝早く家を出発した。腕時計を確認すると今は五時四十分。始発の上り電車まであと二十分ほどある。
まだ朝は少し寒いくらいだけれど空気はとても美味しい。東京で流行っているようなファッションやアクセサリーなどを買うのに少し不便なこともあるけど、私は豊かな自然に恵まれたこの街が大好きだ。目の前に連なる北アルプスの山々を見ると何だか清々しく壮大な気持ちになる。
「今日は防具もあるし、雨が降らなくて良かったなぁ」
私は思わず梅雨の晴れ間に対して率直な感想を口にした。今日は荷物が多いので本当にありがたい。
「大丈夫さ。もし今日が雨だったら、その時は母さんが学校まで車で連れて行ってくれたろうし」
「うん、そうだね。ママはきっとそうしてくれるよね」
ハルが言うように、本当の娘のように私に接してくれるママなら、きっとそうしてくれたと思う。ママの好意はとてもありがたいのだけれど、あまり負担をかけたくないのが私の本音だ。
「さっきメールが届いたけれど、もうじき幸村も神社に着くみたいだぜ」
携帯電話のメールを見ながらハルが言う。マナーモードにしておいた私の携帯電話も、ブルッと振動がしたのがわかった。私は一旦立ち止まって、リュックのサイドポケットから携帯電話を取り出した。画面を見るとユッキーから可愛らしいネコのイラスト付きのメールが届いていた。
『おはよう。もう少しで西門着くよ。今日はがんばって!』
「丁度私にもユッキーからメールが届いたよ」
横目で私の行動を見ていたハルにメールの内容を見せながら言った。
「幸村の奴、律儀に彩葉にも送信したのか。しかも何だかやたらと可愛く盛られてるメールだなぁ」
「男子同士でも可愛いイラストメールのやり取りとかするんだ?」
別に可愛らしいイラストメールの交換をしても悪くないけれど、ハルの性格上あり得ない。だから少しハルをからかうように質問してみた。
「いや、別にそういう訳じゃないんだけさ。俺に送ったメールとの格差があるというか」
「あれ? ハル、それって嫉妬? ユッキーのことだし、そんな深い意味なんてないと思うんだけどなぁ」
「バカ、男相手に嫉妬なんかしねぇよ!」
ハルは慌てて否定する。その慌て様が妙におかしくてつい笑ってしまう。
ユッキーこと間宮幸村は、私とハルの共通の友達だ。ユッキーの両親とお兄さんはプロの音楽家で、名古屋の方で有名な交響楽団に所属してバイオリニストとして活躍している。将来は、ユッキーもプロのバイオリニストを目指していると、以前に本人から聞いたことがある。私からすれば、もう彼は十分プロと言ってもおかしくないレベルの実力者だけれど、謙遜しているのかまだまだ未熟なのだと彼は言う。
ユッキーは同じ小学校に通っていた同級生で、中学入試で共に祥鳳学園を受験した頃から特に仲が良くなった。入学してからいつもこの神社で待ち合わせて、私とハルは彼と一緒に登校するようになった。それから、私たちが親友と呼べる仲になるまで時間はそれほどかからなかった。
中学一年生の時の学園祭の出し物で、クラスで軽音楽を出展したことをきっかけに、私たち三人は活動こそ少ないけれどフォークソングバンドを結成した。ハルがギターで私がベースとボーカルを兼ね、私とハルにユッキーが合わせるようにバイオリンを奏でてくれる。
昨日は大きなバイオリンのコンクールの予選が名古屋であって、ユッキーはそれに参加すると言っていた。予選は夜まで続くと言っていたから帰りが深夜になったのだと思う。まだ彼からコンクールの報告が来ていないので結果はまだ知らない。
私とハルが他愛のない雑談をしながら神社の表参道を歩いてると、旧役場前の樹齢五百年を超える大欅を過ぎたところで、ユッキーがいつもの待ち合わせ場所の鳥居の下へ歩いて来るのが見えた。
ユッキーは、私より十五センチメートルくらい背が高いから、百七十センチメートルくらいだと思う。体系は痩せ型で、チャームポイントの癖っ毛と優しそうなぱっちり二重のタレ目が妙に女の子っぽい。
戦国武将みたいな名前の男子だけれど、ユッキーが女装したら騙される男子は多いと思う。見た目の割に妙にスケベところが玉に瑕だけど、根は優しく友達思いで頼り甲斐がある。それを知る女子からの評判は結構高かったりする。
「おはよう、ユッキー」
「二人ともおはよう」
私は手を振りながらユッキーに挨拶をする。彼も笑顔で手を振り返す。彼はハルと同じショルダータイプの通学カバンを肩に掛けて、背中にはバイオリンケースを背負っていた。
「オッス」
ハルはユッキーに片手を上げて近づき、二人はハイタッチを交わす。二人の手と手が当たる音のほかに、もう一つ小さな音でパチッと聞こえた。
「あ、悪い。痛かったか?」
ハルがユッキーに謝る。またいつもみたいにハルから静電気が飛んだのだろう。昔からハルは静電気がよく発生する体質で、私もビリッとされたことが数え切れないほどある。ハルに触れるときは要注意だ。これも慣れなのか、ハルには静電気独特のあの痛みが感じられないらしい。
梅雨時だというのに静電気が発生するとか、いったいどんな電気体質をしているのかとても不思議だ。彼の体質の謎に少し興味があるけど、本人が割と気にしているようなのであまり詮索しないようにしている。
「アハハ。今日はいつもよりシビれたぜ。でも、こういう時はボクにとって何かいいことがある前兆なんだ」
ユッキーは笑いながらハルに言う。
「そうなのか? って、そもそも俺からの静電気で占いとかやめろよ」
ハルの静電気でシビれるといいことがあると、以前にユッキーが言っていたことを思い出す。
しかし、それにしても静電気占い。何それ、本当に変だ。私はつい吹き出して笑ってしまう。
「何だよ、彩葉まで……」
「あぁ、ごめんごめん。変な占いだと思ってつい」
ハルが少し肩を落としたように見えたので私は素直に謝った。でも、やっぱりおかしい。
ユッキーと合流した私とハルは、すぐに穂高駅を目指していつものように話しながら歩きだした。
「あ、そうだ! 報告遅れてごめんな。昨日の学生コンクールだけど、何とか予選と本選を通過できたよ」
「やったな! すごいじゃないか、幸村」
「良かった、ユッキー。夜遅くになっても連絡がなかったから、実はちょっと心配してたんだ」
「二人ともサンキューな。帰りが深夜になったから、さすがに寝てるかなって思って。それに……。実はギリギリの三位通過でさ。親父からは全然褒められなくて……。自分ではそこそこ自信あったから、少しショックだったところもあるんだけどさ」
ユッキーは少し自嘲気味に言った。
「私、ユッキーが普段から努力しているの知ってるから、予選が通過できたことは本当に嬉しいよ。予選を通過したってことは、認められたってことだし、順位なんてどうせ僅かな差だよ。何と言っても次が全国大会じゃない? 頑張れば絶対に結果に繋がるから、その調子で頑張ろう?」
彼は毎日何時間も練習をして頑張っている。それは私もハルも知っていることだ。私は自嘲気味になっているユッキーをフォローした。
「本当にその通りだぜ、幸村。次の本番で一発逆転してやろうぜ!」
ユッキーの両親がとても厳しいことは彼から聞いている。彼なりにプレッシャーがあって大変なのだと思うけれど、それは両親が彼に期待しているからこそだと思う。
「あぁ、そうだよな。サンキュー」
「ところで、幸村。その背中のバイオリンはこんな朝早くからどうするんだ?」
ハルがユッキーが背負っているバイオリンケースを指差して不思議そうにユッキーに尋ねる。
「あ、これ。松本駅から学校に行く途中に望月楽器ってあるじゃない? 店長がボクの親父と古い知り合いでさ。早朝だけど学校へ行く途中に店に寄って預ければ、夕方までにメンテしてくれることになってるんだ」
「へぇー。さすが幸村の親父さん、あの高級楽器工房も朝から顔パスとか人脈が凄いな」
「別の捉え方だけど、また今夜から特訓しろってことで正直ゾクッとするけどな」
ユッキーは苦笑いしながらハルに答える。
「それで全国大会はいつなの?」
昨日の応援には行けなかったけど、できれば全国は応援に行きたいのでユッキーに尋ねる。
「来月の十五日、海の日に東京で。ちょっと遠いけどね」
「特急乗ればすぐだし応援に行くさ」
「いいかも! 私も行きたいな。せっかく東京行くなら買い物もしたいし。もしインターハイ出場が決まっても一日くらいどうにかなると思う」
「二人が来てくれるなら心強いよ。でも特に彩葉は暇なハルと違って、予定が未定なんだから無理しないでくれよ?」
「おい、俺だけ暇人みたいな扱いしないでくれよな。まぁ、否定できないけどさ……」
私とユッキーは顔を見合わせて苦笑する。
「取り柄ならあるじゃないか。ハルは運動神経抜群だし、テストの成績なんて学年いつだってトップじゃん?」
「まぁ勉強以外にやることがないからっていうのもあるけど、運動神経は別に普通だと思うぜ? 俺は昔から何やっても長く続かない性格なんだよ」
「私もハルの運動神経は少し勿体ないって思うな。ずっと剣道やってれば凄く強かったと思うのに」
ハルの身体能力は本当に勿体ない。
「お試しでやってみたけど、俺的に剣道は見てるくらいでいいんだよ」
ユッキーはああ言えばこう言うハルに対し、両手を少し上げて『お手上げだ』という仕草を私に送ってきた。
「それより今日は私が頑張る番だから、二人とも応援よろしくね」
「あぁ。今日はボクとハルが応援しているから思い切りやってくれよな」
「いつも通りにやれば大丈夫さ。頑張れよ、彩葉」
「二人ともありがとう」
いつもの登校時のように、何気ない会話をしながら歩いていると、あっという間に穂高駅へ着いた。駅前の交差点まで来ると、さすがの日曜日でも通勤する会社員や散歩中の老夫婦といった人影をちらほらと目にするようになった。
改札からホームに入ると、電車を待つ初老の背の高い外国人の男性が新聞を広げてベンチに座っていた。日本語の新聞を読む外国人の男性が気になったのだろうか。ハルが立ち止まって横目でじっと、その男性を見つめている。私は不思議に思い小さな声でハルに尋ねる。
「ねぇ、どうしたの?」
「いや、あの人が読んでいる新聞の日付がさ、三日後なんだよ……」
ハルに言われて、男性が持つ新聞に記載されている日付を見ると、たしかに日付が違っていた。
平成十九年六月六日水曜日。今日は六月三日の日曜日のはずだけれど……。三日後の新聞?
何かのドッキリだろうか? だとしても、私たちがターゲットになるような覚えはない。遠くからなので、記載されている記事まではさすがに読めない。それにしても、模造の新聞にしては完成度が高すぎる。ただの印刷ミスなのだろうか。
そもそも駅構内の売店は、まだシャッターが下ろされたままだ。私は狐につままれ気分になった。私にこの珍事を伝えたハルと目が合うと、私も彼が言った日付を確認したことを伝えるために彼に頷いた。
新聞を読んでいた男性は、私たちの視線に気づいたようで、新聞を少し下げて鋭い目でこちらを見つめてくる。男性の顔は彫が深く、瞳が不自然に赤いのが印象的だった。
さすがにちょっとジロジロ見すぎたかな……。
「おいおい、二人ともガン見しすぎだって。少し向こうへ行こう」
ユッキーが小声でこの場から少し離れようと提案した。私たちは男性の座るベンチから電車の車両の長さで一両分ほど距離をとる。何だか朝から気味が悪い。ユッキーの静電気占いでは、良いことがあるはずなのに……。
「ごめんな、彩葉。試合前に変な気分にさせて悪かった」
ハルが私に謝った。
「たしかに気味が悪かったけど、別にハルが悪いわけじゃないし、気にしてないから大丈夫よ。それにしても何だろうね」
「さぁ、何だろうなぁ」
ハルもユッキーも首を振る。先ほどのベンチを見ると、相変わらず男性は新聞を読んだままだ。やがて始発の電車がホームに到着し、私たちは電車に乗り込んだ。車窓越しに先ほどの男性を見ると、まだベンチで新聞を読んだまま動こうとしない。車掌が笛を吹き、車両のドアが閉まると、電車はゆっくりと出発した。
「あの男の人、ホームのベンチでまだ新聞を読んでいるけど、この電車を待っていた訳じゃないのね」
私は電車のシートに腰掛けながら呟いた。すると男性は新聞を少し下げて、私の方に顔を向け、先ほどと変わらない鋭い目付きで私を見つめてきた。私は再び男と目が合ってしまう。そして、微かに男性の口元がニヤリと笑ったように見えた。
私の背筋に冷たいものが走る。私は慌てて隣に座るハルとユッキーの方へ振り向くと、すでに二人は先ほどの男性の事を気にしていないようだった。昨晩のユッキーのコンクールの話題で盛り上がっている。あの不気味な視線の男性が読んでいた、未来の日付の新聞はいったい何だったのだろう。
私はリュックのサイドポケットからイヤホンを取り出して耳に着けた。いつもの通学の時のようにオーディオプレイヤーを再生させると、ザ・コアーズの『Spencil Hill』が流れ始める。
私は車窓から、自然豊かな安曇野の風景と雄大なアルプスを眺め、好きなメロディを聴きながらざわついた気持ちを落ち着かせることにした。
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