第1部 転移編
第1章 裁きの雷
第1話 俺だけの秘密
ピリリッ……ピリリッ……。
目覚まし時計のアラームが鳴り響く。
アラームに気がついて夢から覚めた俺は、半分だけ目を開けてアラームの鳴る時計の位置を確認する。そのままの体勢で右手だけを伸ばしてそれを止める。
うーん、まだ眠い……。
先ほどまで見ていた夢がどんな夢だったか、すでに思い出せない。
少し旧式なデジタル時計の表示は、二〇〇七年六月三日の日曜日、午前五時丁度が表示されている。遮光性が高いカーテンの隙間から漏れる光は、外が明るくなっている証拠だ。
「んー……」
俺は寝返りを打って再び目を瞑る。
俺の名前は伊吹ハロルド、十七歳。愛称はハル。
俺の家は一階がカフェベーカリーで二階が住居という、よくある店舗併用型の住宅だ。ローマ神話に登場する、バッカスという神様の名前にちなんで名付けられたうちの店は、父さんがオーナーでイギリス国籍を持つ母さんと夫婦で営んでいる。
両親の馴れ初めは、父さんがパリで西洋料理の修行中に、当時シンガーソングライターだった母さんと運命的に出逢い、やがて結婚して姉さんと俺が生まれたというエピソードを何度も聞かされている。
二度寝の危険性に気がついて改めて時計を確認すると、あっという間に三分経過していた。時間の進み方は本当に一定なのかと疑いたくなる。
覚悟を決めて上半身を起こし、ベッドから両足を床に下ろしてゆっくりと立ち上がる。
「ふぁー……」
あくびをしながら背伸びをし、そして部屋のカーテンを開ける。
外の明るさに俺は目を細めた。
部屋の空気を入れ替えるために窓を開けると、爽やかな朝の風が部屋の中へと流れ込み、そっとカーテンを揺らす。初夏の安曇野の朝はまだ少し肌寒い。
一階のバッカスの厨房からは、パンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。パン職人の朝は早い。すでに父さんがパン工房でパンを焼いているのだろう。自慢ではないが父さんの焼くパンは美味しい。特に香ばしく焼きあがったばかりの塩ロールパンと安曇野特産のワサビを使ったワサビブレッドは俺の好物だ。
俺はハンガーに掛けてあったタオルを手に取り、自分の部屋を出て洗面台へと向かう。鏡を見ると、母さん譲りのブロンドの髪が寝癖でボサボサに逆立っている。
あぁ、我ながら今日も酷い寝癖だ……。
洗面台の温水シャワーを使い、俺は髪を整えてからドライヤーで乾かした。
この髪の色は地毛だから仕方がない。しかし、小さい頃の俺は、俺のことを知らない大人たちや同級生たちから、異端者扱いされることを辛く感じていた。
その影響もあり、俺は地元の公立の学校ではなく、松本市内にある姉さんと同じ中高一貫の私立祥鳳学園を受験して入学した。祥鳳学園は、ハーフの生徒や海外からの留学生がいるため、周囲の視線を全く気にする必要がなかった。むしろ、今ではこのブロンドの髪を気に入ってたりする。
“Good morning, Hal”
(おはよう、ハル)
俺に気づいた母さんが、後ろで一つに束ねたさらさらのブロンドヘアを揺らしながらリビングから顔を出して俺に挨拶してくる。
“Good morning, mom”
(おはよう、母さん)
俺も母さんに挨拶をする。基本的に母さんとの挨拶は英語だ。
「紅茶を淹れてあるから冷めないうちにいただいてね。朝食は下のお店のカウンターにあるから」
「ありがとう、母さん」
母さんは笑顔で頷いてリビングの奥へと向かった。『昼は日本語で夜は英語』という家族ルールを取り入れて育てられたため、俺は英語が自然に身についた。ちなみに家族ルールの昼夜の切り替え時間は、五時と十七時だ。
俺は自分の部屋へと戻り、壁掛けフックに吊り下げた祥鳳学園の夏服を手に取って着替えを済ませた。すると、開けたままの窓の外から、朝の風に揺れるカーテンの音に紛れて、ヒュッヒュッという長い棒が空を切るような音が一定の間隔で聞こえてくる。
窓から外を見ると、隣の家の庭で
彩葉、頑張っているな。きっと、今日も大丈夫だ。
◆
また、彼女の父親の勝彦さんは仕事が刑事ということもあり、夜勤や非番の呼び出しが多く、彼女は小さなころから一人になる時間が多かった。そう言う時は、彼女の祖父母が面倒を見に来ることもあったが、たいてい俺の家で一緒に食事をしたりそのまま寝泊まりしていた。
そのため、姉貴と俺と彩葉の三人は、まるで本当の兄弟姉妹のように幼少時代を過ごし現在に至っている。
そんな彩葉の剣道歴はもう十年以上になる。現役剣道選手である父親の影響で剣道を始め、小学校へ入る前から親子で近所の名門道場に通って厳しい指導を受けている。俺も剣道に誘われて体験で参加したことがあるけれど、子供の頃の俺は極端に体が小さく、彼女に全く歯が立たずにすぐに投げ出してしまった。
逃げた罪滅ぼしを兼ねて、俺は都合がつく限り彼女の試合の応援に出向いている。俺は過去に彼女が負ける試合を余り見た記憶がない。一番印象に残っているのは、彼女が中学一年生の時に上級生に負けた試合だ。あの時は、余りに悔し泣きをしていたので、俺はどう接したらいいのか酷く悩んだことを思い出す。
ちなみに、去年の秋の大会や年が明けてからの高校一年生大会で、彼女は全国大会まで勝ち進んで好成績を収めた。剣道の強さと母親譲りの端整な顔立ちを兼ね備えていることから、彼女は専門誌に写真やインタビューが載り、全国的に知名度のある選手になっている。
今日もまた、高校総体の中信地区予選を兼ねた試合が、松本空港に併設された公園の体育館で行われる。日曜日なのにもかかわらず、俺が早起きしたのは、彩葉の試合の応援のためだ。
知名度の高い彩葉は、早くも大学や実業団からスカウトが来ているそうだけど、彼女は自分の夢を優先させたいと言っていた。彼女の夢は、趣味で剣道を続けながら、声優やラジオのパーソナリティなど声を活かした仕事に就くことだという。彩葉の透き通る声は、たしかに聞いていて心地が良い。元シンガーソングライターの母さんも、彼女の声の質に太鼓判を押している。声の仕事に就くことは、彼女に合っていると思う。
夢や目標に向かって頑張っている彩葉が少し羨ましい。まだ俺には、具体的な将来の夢や目標がなかった。やりたいことが見つからないから、今は生徒会に所属したり、勉強で成績上位を維持しているに過ぎない。
「おはよう、ハル。起こしてくれとか言ってたけど、今朝はちゃんと起きられたんだ?」
自分で決めたノルマが達成できたのか、素振りを終わらせた彩葉が俺に気づいて声を掛けてきた。そう言って彼女は、左目が隠れるくらいの長さに流した斜めバングの前髪をかきあげる。妙に色っぽい幼馴染の仕草に、俺は朝からドキっとさせられた。
「おはよう。睡魔に打ち勝って起きられたよ。それより、今日の調子はどう?」
俺は彼女の調子を伺う。
「うーん、まぁまぁかな。しっかり頑張るから応援よろしくね」
「あぁ、任せとけって」
「ありがとう。シャワー浴びたらそっちに迎えに行くね」
「わかった」
そう言って彩葉は、俺に手を振って玄関から自宅へと入ってゆく。俺は窓を閉めてからカーテンを束ね、それをタッセルで結んで固定する。窓の施錠をしようとクレセントに手を伸ばそうとした時、パチンと静電気が飛んだ。
俺は生まれつき静電気が発生しやすい体質らしい。最初は誰もが俺と同じように、季節に関係なく頻繁に静電気が発生するものだと思っていた。しかし、小学校に入り同級生から『エレキ』とからかわれるようになってから、これは特別なのだと気付かされた。
それ以来、俺は誰かに触れた時に迷惑をかけないように、なるべく徐電リストバンドを巻くようにしている。成長期に合わせて、この電気質な体質も成長した。意識を集中させると電気を溜めてスパークさせたり、差込プラグを握れば携帯電話の充電が可能な電気的なエネルギーを作れるようになっていた。
過去に一度限界に挑戦してみようと、母さんのヘアドライヤーをあっという間に過電流で発火させてしまったことがあった。さすがに自分でも驚いてしまい、それ以来限界に挑戦することをやめている。
これは両親を始め、まだ誰にも言っていない俺だけの秘密だ。彩葉にこんなことを言えば間違いなく馬鹿にされる。もしかしたらドン引きされるかもしれない。変に噂が広まれば、特殊機関に監禁されて、自由を奪われてしまうという不安もあった。
現実離れした馬鹿ばかしい話だけれど、これはいわゆる魔法の一種なのだと俺は思っている。
◆
身支度を終えて出発の準備ができた俺は、バッカスのカウンター席で朝食を取り、母さんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、テレビのニュースや天気予報を見て彩葉が来るのを待つことにした。
天気予報の話では、今日は梅雨の中休みで晴れらしい。それでも降水確率は午後になると三十パーセントとやや高めだ。この三十パーセントという確率は、傘を持つかどうか悩んでしまう曖昧な数値だ。きっと彩葉は、天気予報なんて見ないだろうから傘は持たないだろう。
俺は念のため折りたたみ傘を二本用意して、通学用のショルダーバッグに入れた。今日の俺の持ち物は、筆記用具と期末テストの範囲を予想してまとめた暗記系のノート。それから、昼食のサンドイッチと携帯歯ブラシなどの洗面用具くらいだ。日曜日で授業がないため、俺のバッグの空きスペースは十分な余裕があった。
しばらくテレビのニュースを見ていると、バッカスの入り口のドアが開いてカラカランとドア鈴が鳴った。
“Good morning, mom!”
(おはよう、ママ!)
「ハル、お待たせー」
制服に着替えた彩葉が、カウンターに立つ母さんに、いつものように元気よく挨拶をしながらバッカスに入ってきた。彩葉は母さんのことを本当の母親のように親しみを込めてママと呼んでいる。もちろん彼女も、一緒に育った過程で英語が話せる。
“Good morning, Iroha. You can do it”
(おはよう、彩葉。頑張ってね)
“Thanks, mom. I'll try my best”
(ありがとう、ママ。頑張ってくるね)
母さんが試合へ挑む娘を応援し、彼女はそれに応える。俺は椅子から立ち上がって出発することにした。
「それじゃ、彩葉行こうか。行ってきます、母さん」
ドア鈴に気付いた父さんも、厨房から出て来てガッツポーズを彩葉に送る。
「行ってきまーす」
彩葉も母さんと厨房から出てきた父さんに手を振りながら言った。
「いってらっしゃい」
両親に見送られてバッカスを出た俺たちは、最寄りの穂高駅に向かう途中にある、由緒ある神社を目指して表参道を歩いた。
彩葉は試合の前に竜神伝説が残るこの神社で、必ず戦勝祈願をしてから試合会場へ向かっている。今日は出発が早かったので、昨日の学校の帰りに、彼女の戦勝祈願に俺も付き添って一緒に参拝した。
「俺、手空いてるし少し持つぞ?」
防具一式が入れられたキャスター付きのバッグを右手で引きながら、通学用のリュックを背負い、『彩』という彩葉の名前の一文字が大きく刺繍された竹刀袋を持つ彩葉に俺は言った。
「ダメダメ。自分の物は自分で持つ。こういう基本は本当に大事だから気にしないで」
周りに人がいたら『そこの男子、荷物くらい持ってやれよ!』と、言われ兼ねない程の量だけど、彩葉は頑なに手助けを拒んだ。
「わかったよ。でも、俺は両手が空いてるし、いつでも言えよ?」
「ははぁー。お気づかい感謝致します、ハル殿」
俺の一歩前を歩く彼女は、少し振り返って時代劇のような言い草で戯れながら俺に言った。
「はいはい」
俺は片手を上げ、苦笑いしながら彼女の意思を尊重することにした。
モノトーンカラーのスカートにオーバーブラウスの祥鳳学園の制服は、黒髪の彩葉によく似合う。再び前に向き直って歩く彼女の髪から、シャンプーのいい香りが初夏の朝風に乗って流れてきた。
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