02. 使者の憂いと春の月
「……俺が、か?」
春色の穏やかな日差しに、暖かな風が混じり込む。目の前の青年はそんな春に似ているが、どこか冬の厳しさも感じさせる存在だ。
「おや、ご不満かい?」
「いや、そういうわけじゃ……」
考えの読めない柔らかな笑顔。強く輝く紅色の瞳のせいだろうか? 彼は幼い頃からそうだ。華奢な体格ながらも、逆らうことは許されない精神的な威圧感を放っていた。
「ふふっ、そう言ってくれると思ったよ」
彼は遥か昔からこの街を治めている血筋に生まれた。要するに、由緒正しき家柄というやつだ。まだ若いながら、人の上に立つ素質と貫禄は十分にそなわっている。
「月の女神のお迎えだ。腕が立つのはたくさん知ってるけど、信用できるのは君しか知らない」
月の女神――。
それはかつて魔界の象徴とされ、崇められていた少女。
古代の時代には魔族として生きていた彼女だが、現代では人間として魂の転生を繰り返している。本来なら人間として静かに暮らしていてもいいはずだ。しかし、彼女の中に眠る最強の魔力がそうはさせない。
この世界のすべてを滅ぼしかねない大きな魔力──。
月の女神には、そんな物騒なものが宿っているからだ。
だから魔界は彼女を保護するという名目のもと、半ば強引にこの街へ招いていた。その役目を担っているのが、ここ古の月の都──レゴリスなのである。
そして、自分を呼びつけたこの青年こそが、現在の街の統治者──ノイン・テーター=ヴコドラクだ。
「街一番の精鋭たちをつけるから、そこは安心して。統治者の兄君に何かあるわけにはいかないからね」
この街は三つの地区に分かれており、それぞれ別の人物が治めるというめずらしい形態をとっていた。
そのうちのひとつ、西側の地区を担当している人物は自分の弟にあたる。
西の地区は代々うちの家系が治めていた。そう、本来なら自分もノインと肩を並べる“可能性”があったのだ。今となっては過ぎ去った可能性でしかないけれど。
しかし、現役統治者の兄だからこそ、月の女神を迎えに行くという大役がまわってきたと言ってもいいだろう。なんせ月の女神は魔界の象徴であり、街の統治者たちの“婚約者”になる運命。身元があやふやな人物に任せるわけにはいかないのだ。
「──ねぇ、シェイド」
不意に呼ばれた名前。話の主旨を変えようとする際に相手の名を呼ぶのは彼の癖だ。
シェイド・イングナル。
それが今の自分の名前。“資格”を失った、統治者の兄としての……。
ノインに逆らえる人物など、この街にはほぼいないだろう。彼女を迎えに行くという大役も断る道はない。だからこそ彼は話を変え、世間話に持っていこうとしている──といったところだろうか。子供の頃からの長い付き合いだからこそ、お互い深くまで踏み込まない場面も多くなってきた気がする。
「月の女神ってどんな子かな?」
他愛もない口調で、ノインはまだ見ぬ婚約者の話題を楽しげに口にする。
彼は女性関係の噂が絶えることのないタイプだが、何度も同じ異性について口にすることは稀だ。昔から何度も話題に出すのは、幼い頃に決められた婚約者である“月の女神”についてだけである。彼女は神話の登場人物であり、絵本の題材にもなるくらいの有名な女神だ。そんな伝説の月の女神が婚約者だというのだから、興味がわくのも無理はないのかもしれない。
「来年で十七歳になるんだったな、確か」
月の女神は十七歳になったときに魔界へ呼ぶ決まりとなっている。まだ魔族であった最後の月の女神が亡くなった年齢が十七歳だったことに由来しているらしい。
「人間年齢で比べても八つも下か……、若いな」
思い出すのは十八歳になったばかりの弟。身体は大きくなれど、まだまだあどけなさも残る微妙な年頃だ。そんな弟と変わらない年齢の少女が、遠くの地へ連れて来られる。本人の意思とは無関係に。
自分だって街を構成する人物のひとりだ。彼女に同情する資格は無いのかもしれない。だが強制的に運命を変えられる苦悩の存在は痛いほどに知っているから……。
あれこれ思考を巡らせていると、からかい半分、ノインに笑われる。
「それ、年寄りくさいよ」
魔族の寿命は人間の何倍も長い。人間に置き換えた年齢ではたった八つの違いでも、実際にはもっと長い時の流れを生きてきている。
「女神から見たら嫌でもそうなるさ」
正直言うと自分には人間の時間感覚が分からない。彼女に魔族はどう映るのか。人間とは違う世界の感覚を恐れず受け入れてくれるのか。不安な気持ちの方が強い。
「おや、統治者の中で一番年上の僕に対する嫌味かな?」
ノインは二十二歳。自分の三つ下だ。
「お前とロキはあまり変わらないだろう」
「変わるよ~。人間で言ったらひとつ違うんだよ?」
統治者のひとりであり、南側の地区を担当するロキは二十一歳。生まれ年にほんのわずかな差があっただけで、ノインとはほぼ同年代だ。
月の女神には東、西、南地区の統治者たちが“婚約者候補”として与えられる。三人の候補からひとりを選び、婚約するという流れだ。弟のフレイは十八歳。十七歳になった彼女の婚約者という意味では、今回の統治者たちは年齢のバランスが取れていると言えるかもしれない。
「けど春生まれか。きっと花のように可憐で、春風のように暖かで……」
相変わらずの語り口調に苦笑い。歯の浮きそうな台詞をサラッと言ってしまう、自分にはとても真似できそうにない。そんな言葉を言いたいわけではないが、いざという時に口が回るというのは羨ましい限りである。
「とにかく、僕の大切な婚約者だ。傷のひとつでもつけたら……、分かってるよね?」
暖かな空気が突然、冷ややかな感触に変わる。
冗談ではない。その瞳を見れば分かる。真紅の瞳の激しい輝きを見れば……。
「──あぁ、分かってるよ。お前の恐ろしさは特に」
こちらは冗談半分。まともに彼とやり合う勇気は残念ながら持ち合わせていない。
満足げな紅色は、つい先ほどまでの凍てつく空気が嘘のように柔らかだ。
「頼んだよ、シェイド──」
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