第5話 奴婢としての幸せ

「それにしても、あんたも大変な目にあったねえ!」


 同輩にそんなことを言われ、ばいは洗濯物をたたつちを持つ手を止めた。そしてちょっとだけ黙考した。

 それを悲嘆と受けとめたのか、相手は慌てて梅花の背中をでさする。

「ああ、悪かった、悪かった。思いださせちゃったねえ」

「……いえ。ただ確かに大変な目だったな、と思いまして」

「そうだろうねえ」

 太り気味の女は、更に激しく背中を撫でてきた。摩擦でちょっと熱い。



 女が言う、「大変な目」とは梅花が宮城に入るまでのいきさつではない。もちろんそれも十分大変ではあった。

 しかしそれを超える出来事が、そのあとに待ちかまえていたのである。



 生まれ育ったろうを出た梅花は最初、帝都の北側にあるせんしょういんという場所に入った。

 ここは妓女を含む楽人たちが技芸を磨くところである。梅花は宮城に入る前に、ここで一時的に待機することになった。


 梅花にとっての一大事件は、このときに起こった。


 ある日仙韶院に、現在もっとも皇帝のちょうあいを受けるしんが訪れた。

 もちろんそれは、偶然の出来事ではない。貴妃は明確な意志をもって仙韶院を訪れた。

 その理由は、皇帝に関係があった。

 現在の皇帝は芸事に造詣ぞうけいが深く、寵愛する者は一芸に秀でた者ばかりである。たとえば皇后であるいん氏は舞が巧みで、沈貴妃は、歌が上手うまかった。


 そう、梅花と同じ特技である。


 したがって貴妃にしてみると、歌妓は皇帝の寵愛を自分から奪いかねない敵だ。

 もちろん妓女とひんとでは立場が違うが、皇帝が気に入りさえすれば性的な奉仕もするという点では同じである。したがって貴妃にしてみれば排除するべき存在だった。

 沈貴妃はまず皇帝に働きかけた。皇帝が聴く前に、歌の得意な自分が品定めをしたいと。そして仙韶院に行く許可を正式に得た彼女は、歌妓たち全員の歌を聴いた。

 そして自分の脅威になりかねない者を、「このような者の歌、たいのお耳に入れるに足りぬ」と言って、奴婢として後宮の隅に送りこんだのだ。


 要するに、梅花を。


 あまりの出来事に、さすがの梅花も呆然ぼうぜんとするしかなかった。

 彼女にしてみると、貴妃に歌を披露していたらいきなり引きずりだされたのだから、青天の霹靂へきれきとしか言いようがない。

 気づいたときには絹の着物をはぎとられ、粗末な衣に着替えさせられていた。そして馬車に押しこめられ、降ろされたところで簡単に事情を説明された。

 もちろん梅花には、「貴妃さまのご不興を買った」としか説明されなかったが、彼女が事態を把握するにはそれで充分であった。

 しかしだからといって、事態を打破するような手段など梅花は持ちあわせていなかった。かくしてここに、梅花の下働き生活が幕を開けたのである。



 とはいえ当初、梅花は働こうにも働き方がまったくわからなかった。

 無理もない。身分自体が低いとはいえ、梅花は労働にはまったく従事せず、教養と芸事だけを磨いて成長した娘である。


 しかし梅花にとって幸いなことに、周囲には彼女に同情的な者が多かった。情のない場所といわれる後宮で、そんな人間が複数人いるというあたり、梅花の受けた仕打ちの酷さがうかがえるというものである。


 もちろん梅花に対し、悪しざまにあしらおうとする者もいた。

 だが梅花は、それにはとんちゃくしなかった。自分が重視すべきなのは、同情的な人物だということをわかっていたからだ。


 彼女たちの憐憫れんびんは、梅花の振る舞い方次第では、あっという間に吹きとんでしまう程度のものだ。

 だから梅花はつとめてつつましく、周囲に教えを請うよう心がけた。

 また梅花の飲みこみが早いところも感じがよかったのだろう。周囲の感情が、最初は淡いあわれみ程度のものだったのが、好意にまで向上するのにそれほど時間はかからなかった。


 ここでようやく梅花は寄せた眉を伸ばした。

 ついでにそのころには、洗濯物のしわも上手に伸ばせるようになった。

 そしてそのことに、達成感を得るようにもなっていた。


 実をいうと梅花は、自らが置かれた状況に、悲観はしていなかった。

 ただもしかしたら、他の妓女ならば死よりつらい状況なのかもしれない。場合によっては自殺するくらいの。貴妃はそれを狙って、梅花をこの立場にしたのかもしれない。

 ――だとしたら狙い外れだわ。

 梅花はかすかに微笑んだ。

 あの日、歌っている最中に引きずりだされたとき、自分の死を覚悟した。その恐怖に比べれば、今の苦役はたいしたものではない。


 それに今の梅花は、いつでも自分の意思で死ぬことができるのだ。


 奴婢の立場になった時点で、貴妃の命により梅花の籍はきょうぼうから抜かれた。それは書類上で母や妹たちと縁が切れたということである。したがって梅花が自殺しても、彼女たちが連帯責任を負うことはないのだ。


 梅花はそれが、とても嬉しかった。

 同時に、それ以前がとても辛かったのだと悟った。


 後宮の一角、そこから一生出られないかもしれないという状況――皮肉なことに、そんな立場になって初めて、梅花は自由を感じていた。

 自分の将来を自分で選ぶことができる。なにを選びたいのかわからなくても、それを模索すること自体、自分の都合のいいように過ごすことができる。


 だから梅花は幸せだった。

 もう彼女は妓女ではないのだ。

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