天使とヒーロー〜天使と〇〇番外編〜

片宮 椋楽

第1話

 私は今、トイレにいる。


 空色のタイルが一面に貼られ、入って右手側に3つの小便器、左手に鏡の付いた手洗い場が2つ、正面奥には左から和式、洋式と扉に書かれた大便器が1台ずつあり、一番右端には掃除用具入れが、どの扉も閉じられているごく一般的な男性トイレだ。


 ちなみに私には排泄など必要ない。要するにトイレにに来たのは私ではない。


「質問いいか?」


 今、話しかけてきたのは当然ながら今回の担当死確者——渡辺秋人わたなべあきひと、30代後半の男性である。私は、この死確者の未練を解消するために現世へと、その手助けをするために派遣されている。

 新たな死確者と出会うたびに信じてもらうことから始めなければいけないので、毎回毎回大変だ。

 だが、これも仕事。我慢せねばならない。


「何でしょう?」


 死確者は小便器へ向かっていた足を止める。


使ってのはみんなそんな格好なのか?」


 とは言っても、今回の死確者は私が天使であるとすんなりと信じてくれた。まあ、天使である証拠としていつも通り、脳に語りかけるなど規定に反しないことはひと通り行ったので、疲れてはいる。


 「何か……おかしいですか?」私は視線を落とし、体を揺らしながら見てみる。容姿におかしな点はないはずだ。私の見た目は人間でいう男性と同じなのだから。


 死確者は歩みを再開し、便器の前へ。


「スーツやネクタイどころか、被ってるボーラーハットから履いてる靴まで、何もかも真っ白ってのは絶対おかしい」


 どうやら格好のことだったらしい。


「そうですかね?」


 「……気になんなきゃいいや」死確者は顔を正面にし、用を引き始めた。


 私は待ってる間どこがおかしいかを自分の目で確かめるべく、また体を見てみる。


 すると、


「テメーらぁ! 動くんじゃねぇっ!」


 男の怒号が聞こえた。


 普通の音量ではないし、あちこちに点在する小さな銀行から聞こえてくるようなセリフでもない。相手を脅迫し、追い詰めるような強圧的な感じである。


 直後に聞こえるは、幾人もの女性の叫び声。


 店内に2種類の声が響く中、死確者は先ほどと変わらず、仁王立ちで小便器の前に立っている。悲鳴の動揺から顔や体を動かすこともしていない。


 別に死確者の耳が悪いからというわけではない。悪いのはここの造りだ。


 もしかすると、ここがトイレだからなのかもしれないが、店内とここを隔てる扉は、とても分厚い金属製なのである。そのため銀行店内の音は死確者には聞こえないというわけだ。

 逆もまた然りで、トイレ内の音は外には聞こえない。


 だが、私にはそんなのは関係ない。どんなに厚かろうが扉など無いに等しい——少し誇張してしまった。

 訂正する。扉など無いに等しい、かもしれない。

 要するに私が言いたいのは人間よりも耳が良いということ。あと、目も同様。


 私は音を立てぬように入り口のドアを開け——ず、いつものようにヒョイっと体を通り抜けさせ、外の様子を伺う。

 自在に通り抜けられるこの能力からはいつも恩恵を得ている。

 もちろん、私が望めば何かを持ったり、わざわざ扉を開けるようなこともできな——おっと。これは驚いた。




 「天使も驚きます」と言うと「意外だ」と担当した死確者から言われることがある。というか、言われないことの方が少ない。何故なら皆、「だって未来とか予知できるんでしょ?」と、思っているからだ。


 勘違いして欲しくないのだが、天使にだって予想外なことは当然にある。私たちは未来予知ができる特殊能力者でも、ましてや未来を創造できる神——上司でもない。

 哲学的な話になってしまうのだが、もし予想外という概念が私たちに無いのであれば、スムーズに冥界に逝ってもらうよう死確者の未練を解消するためにわざわざ聞かなくていいはずだ。それさえも含めて想定内なはずなのだから。


 ちなみに、私たちが配達課の死神から受け取る封筒から得られるのはあくまで死確者についての細かな個人情報といつ死者となるのかの残り時間だけ。

 その他のこと、つまり死者となるまでの間に死確者の身に起きること、については、私たち天使のみならず死神たちでさえも、知らない。

 そのような予想外に対応できるように、私たちには特殊な能力が備わっている。特殊な能力が備わっているから対応できるわけではない。順番が逆だ。


 なので、常に予想外はつきまとっている。

 だからこそ『おっと。これは驚いた』なのだ。




「何してんだ?」


 振り返る。語りかけてきたのは、死確者だ。

 

「もう用は引いたんですか?」


 私がそう訊ねると死確者は「は?」と眉を上げ、キョトンとした顔になった。


「だから、用は引いたんですか?」


「引く?」


「用を」


 私が主語を繰り返すと、死確者は小さく口を開き、そして、ため息。


「用はな、引くんじゃなくて、んだ」


 えっ?


「そ、そうなんですか?」


「そうだよ。てか、せっかくトイレに来て、引いちまったら意味ないだろ?」


 確かに。


「これは……失礼しました」


 どうやら私は勘違いしてようだ。恥ずかしい。


「で、頭を扉に突っ込んで何してたんだ?」


「実は、今外で——」


 すると、奥の和式トイレの戸がこちら側に開く。

 開く音が聞こえたのか、私がそちらを凝視していたからなのか、死確者は振り返り見た。


 開けたのは少年だった。黄色のTシャツに青色のオーバーオールを身につけている。

 見た目的にも、また名前の分からない戦隊モノのフィギュアを抵抗なく堂々と手に持っている姿からしても、かなり幼いことが伺い知れる。


 今更になって、水の流れる音が聞こえてきた。どうやら自動で流れる仕組みらしいが、それにしても遅い気がする。

 もしかしたら何らかの機能が壊れているのかもしれない——まあそんなこと、今はどうでもいい。


 少年は下げていた顔を上げて、一瞬体を強張らせる。

 開けたら大人が自分のことをジロジロと見ていたわけだから、まあ当然といえば当然だ。

 少年の状態は、肉食動物と目が合い、どう動こうかと動向を探っている草食動物のそれ。


 死確者は少年の緊張が分かったのか、すぐさま目をそらし私の方へ元に戻す。

 視線が解かれた少年は死確者を見ながら恐る恐るトイレから出てきて、手を洗い始める。


「で、外で何だ?」

 死確者は再び私に訊ねてきた。


「あ……今はちょっと……」


「ちょっとって、言いかけてたんだから隠さないで教えてくれよ」


「そうじゃなくて、今私に声をかけてしまうと」


 「おじさん」私と死確者は素っ頓狂な声を発した少年の方に目をやる。


「おじさんはだれと、おはなししてるの?」


 やっぱり。懸念した通りだ。


「誰って……そりゃここに——」

 そこまで言いかけて死確者は口をハッと慌てて閉じる。


 言ってるうちに思い出したのか、それとも私が自身の顔の前で手をクロスさせ合図していたからなのか、それともその両方なのかは分からないが、とにかく気づいたのには間違いない。


 担当している死確者——今回で言うと渡辺さん以外には、私の姿は見えないし、私の声も聞こえない。

 つまりはたからは、死確者が誰もいない空間と会話している変な人に見えてしまうというわけなのだ。


「えぇっと……それは——」


 言い訳を考えていた死確者はおもむろに、後ろのポケットからケータイを取り出す。


 何か思いついたようだ。

 少年に目線を合わせるため、死確者はひざを折り曲げた。


「おじさんの知り合いとお電話してたんだ。それでね今、お外で何が起きてるか教えてもらっているんだ」


 死確者はケータイを少年に見えるよう前に持ってきて、小刻みに揺らす。

 さっき怖がらせてしまったことを生かし、今度は物腰柔らかく声をかける死確者。口角も上がっている。


「そうなんだ。じゃましてごめんなさい」


 「大丈夫」ケータイを耳につけ、振り返る。

 物分かりのいい少年でよかった。


「外で何が起きてる?」


「……」


「……」


 「……あっ私?」左人差し指を自分に向ける。


「他に誰がいんだよ?」


「いや、本当に電話してるのかと思って」


「アンタまで騙されてどうする? いいから、今外で何が起きて——」


です」


 私は平然と問いに答えた。


「……は?」


が起きてるんです」


 死確者は呆然と聞いていた。

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