科学世界9 踏み出した一歩
最終試験が始まった。何がそんなに楽しいのか、わくわくうきうきといった様子の姫乃と共に、街を歩く。
「なんだか、少し緊張するわね。どこからでもかかってきなさい! 私のソラが相手になってやるわよ!」
「何を言っているのですか? やめてください」
緊張するのは俺のはずだし、なんで守られる側がこんなに好戦的なんだよ。危険は避け、迅速に、穏便に目的地を目指すのが、この試験の趣旨なはず。自分から敵を呼んでどうする。
「よーし、最速最短。正面突破よ」
「少し遠回りですが、こちらの道にしましょう。そこまで時間は変わりません。開けてもいますし、突発的な事態にも対処しやすいです」
「ええ、つまんない」
普段であれば文句は言わないのかもしれないが、これは試験であることが分かっている。安全そうな道を選ぶ俺に、姫乃は不満を隠さない。
「僕は、自分が正しいと思える仕事をしているだけです」
「していない。あなたは、自分の仕事をどういうものだと思っているの?」
そんなの、簡単だ。俺は答える
「主人の命を守ること」
姫乃は首を振ったあと、窘めるように言った。
「主人の日常を守ること。普通のボデイガードなら、それでいいのかもしれない。でも、あなたにはそうあってほしい。できる力がきっとあると思う。私は、信じている」
表情を見るに、冗談半分でそれらしいことを言っているだけ。自身の意見を通すためにといったところだろう。
彼女は何も知らない。知る必要も、知らせる必要もない。だが――
主人の日常を守る。その言葉に、俺の胸がちくりと痛んだ。
「ありがとうございます。でも、今回はこちらの道に行きましょうね」
「いけずぅ!」
……。
試験は順調だった。犬を散歩させていた男、子供を装った女、試験官らしき奴らの妨害を処理していき、チェックポイントもいくつか回る。しかし。
「ふう。まさかこのような方法で襲い掛かってくるとは」
「ソラ」
「僕のような素人ですと、試験とはいえ勉強になりますね」
「ソラ!」
姫乃の大きな声に、振り返る。これまでは、特に何も問題はない。独りよがりに進んで来たわけでもない。姫乃と相談し、本当に危険そうなルートのみを避け、あとは彼女の意見を尊重した。彼女も納得していた。
険のある声。理由の分からなかった俺は、落ち着いた表情で、何でしょうと返す。
「なんだか、変」
「は?」
怒っているかと思いきや、不安そうな表情を滲ませる姫乃。
変? 何が? 何も問題はない。このまま行けば、時間にも十分余裕はある。
「順調だと思いますが、何か気になることでも?」
「こんな試験、どうだっていいの」
「それは、姫乃様からしたらそうでしょう。ですが、僕には給料の問題が――」
「ううん。違う。そんなことを気にしているなら、私の財布から出してあげる」
それはそれで、すごいな。俺は苦笑いする。
「変なのは、ソラ。あなた」
試験は問題ない。俺自身のことだってそうだ。何も問題ない。少し気になることと言えば、そうだな。
「護衛失格だと思いますし、恥ずかしいことではございますが、少々寝不足でして。でも、大丈夫です。早く先へ進みましょう」
俺の言った言葉に、唇を結ぶ姫乃。落胆させただろうか、怒らせてしまっただろうか。仕方ない。隠していたつもりだったが、何かおかしいように見えたと姫乃は言うのだ。言っておいた方が良いだろう。
俺が内心考えていたこととは違い、姫乃は結んでいた唇をほどくと、微笑を携え言った。
「ソラ? あなたの好きなようにしていいよ」
何を……。姫乃の意思を優先している部分はあるが、俺だって納得して進んできた。ある意味、安全な環境で実戦の経験が積めるというのも悪くはない。そう思っている。
「でしたら、このままで問題ございません。さあ」
「ソラ。いいのよ、別に。こんな試験、合格しなくたって。さっきも言ったように、お金だって私が何とかしてあげる。私は、あなたがこの先も護衛を続けてくれるのなら、それでいいの」
「それは非常にありがたいお話ですが、ここまで来たのです。どうせなら……」
「何を隠しているの? ソラ」
俺の言葉に被せるように、姫乃は言った。俺は笑う。笑った、はずだった。
「何も、隠してなどございません」
「だったら! 何でそんな顔しているのよ!」
怒っているような、泣き出しそうな、どちらともつかない表情をする姫乃。正面から見ていられなくなった俺は、視線を一度逸す。
「そんな顔って、ひどいなぁ。僕の顔、何かおかしいですか?」
「私は、あなたの秘密を知っているわ」
秘密? その言葉が気になり、視線を逸していた俺は少し顔を上げる。
「あなたの、妹の話。あなたの妹、病院にいるそうね」
「それは」
俺は、言葉に詰まる。
「今も、何年も前から、ずっと」
「待て。ああいや、待ってください。それ以上は……」
「ずっと、眠っている。眠り続けている。息はしているけど、目を覚まさない」
「……黙れ」
「病気なんかじゃない。ただ、目覚めないだけ。それというのも――」
「黙れって言ってるだろうが!」
体を硬直させ、口をとめる姫乃。目が潤い始めたのを見て、やってしまったと俺は下を向く。
「う……。や、やっと見せてくれた。それが、あなたの素なのね」
声は震えているのに、話を続けようとする姫乃。必死に笑顔を作り出そうとしているのが分かった。
俺は一度息を吸うと、問いかける。
「何で今、それを? あまり他人のプライベートを覗くのは、よろしくないように思いますが」
「あなたが、何も言ってくれないから」
姫乃の正面に立っていた俺は、少し距離を詰める。
「出会ったばかりのあなたに、何でそこまで。僕とあなたは、他人同士でしょう」
距離を詰めた俺に対して、姫乃は一歩もその場を動かない。それどころか、俺を睨み返してきた。
「他人だから。出会ったばかりだからこそ、私は……。私は、あなたとずっと距離のある関係なんて嫌。どちらかが身を切らないと、何も始まらないじゃない」
涙ぐみつつも、気丈に振る舞う姫乃。目を逸したのは俺の方だった。
「神経を撫でるようなことを言ったのは、ごめん。勝手に調べたことも謝る。でもね!」
芯の通った声を聞き、また姫乃を見つめる。
俺は考える。それでいいのかと。そんなことが許されるのかと。小さく心が揺れていた。
「私は、あなたに決めたわ。これから一緒に過ごしていく相手を、あなたに決めたの」
そんなの、条件に合うのが、俺しか見つからなかったからじゃ……。
「求める護衛が見つからなかったって、理由じゃない。少しはそれもあるけど、そうじゃない。もちろん、あなたに一目惚れをしたわけでもない」
俺の思っていたこと。それを姫乃は引き取り、否定した。
もちろんは、余計だろ。少しだけ、俺は笑う。
「でも、これも一目惚れってことかもしれないわね。あ、勘違いはしないでよ?」
そこまで否定するなよ。悲しくなる。俺は何も言わず、先を促す。
「あなたに出会って、あなたを調べて、あなたと話して、あなたとなら、やっていけるって思った」
そう、言ってくれるのはありがたい。光栄だ。主人に仕える身としては、最上級の言葉だろう。だが、何でだ。
「何で姫乃様は、そんなにも僕を信じられるのでしょう?」
それだけは、口にだして問いかけた。
「あなたは、後悔しているようだけど――」
話を蒸し返しちゃってごめん。姫乃はそう前置きをして、話し始める。
「あなたは、守ったわ。あなたの大切な人を」
そんなことはない、と俺は否定する。
「気を悪くしないでね。私から言わせれば、運が悪かっただけ。あなたの妹が目覚めないのも、その妹を襲った男が死んでしまったことも」
そう。妹は襲われた。正確には未遂だ。男は、その前に死んでしまったのだから。
俺がやった。俺が、あいつを死に至らしめた。殺してしまった。
運が悪い。そうだよ。その通りだ。仲睦まじい両親に、二人の子供。絵に描いたような幸せな家庭。実際、幸せだった。その時は何も思わなかったが、失ってから気付いた。
その幸せな場所に、知らない男が上がり込んでいた。明るい家の中にあった異質。その男は、俺から全てを奪っていった。
その日も、いつもと何も変わらなかった。だが、買い物から帰ってきた俺が見たものは、血に濡れ、ピクリとも動かない両親。
男は、立ち尽くす俺を生気のない顔で見た後、持っていた刃物を捨て、両親の体を横にどかした。その先には、妹がいた。動かないのは両親と同じだが、異なっている点があった。妹は、まだ生きていたのだ。
ゆっくりと視線を動かし、俺がいることに気付いた妹は、目に力を取り戻した気がした。これは、俺がそう思いたかっただけなのかもしれない。しかし、それだけは聞こえた。
半開きに口を開けていた妹。小さく、かすれるような声で、確かに言った。
助けて、お兄ちゃん――
妹の声を聞き、俺はやっと体の感覚を取り戻した。感覚がなかったことにも、あとで気付いた。
俺の体が自由を取り戻した時には、男はズボンをおろし、妹に手を伸ばしていた。何をするつもりだなんて、聞かなくても分かった。
倒れる両親。助けを求める妹。俺の中の何かが、弾けていた。
途中の記憶がない。妹に向かって伸びる男の腕を、折ったところまでは覚えている。そこまでだ。気付いた時には、誰も動いていなかった。
聞こえてくるのは、俺が息を切らす音だけ。ごとりと、力の抜けた男の体が床に転がった。俺が、男の襟首から手を離したのだ。
すぐに、妹に駆け寄った。意識がなかった。あとから、医者に聞いた。妹に外傷はない。両親を目の前で殺されたショックで、意識を失ってしまったのではないかと。
あれから数年が経つが、妹はまだ眠ったままだ。大きな病院に妹を移したあとは、俺もその近くに移り住んだ。
当時は、さすがにニュースにもなった。状況が状況、さらには年齢。何の罪も背負うことなく俺は解放された。名は伏せられていたが、事件を調べること自体は容易い。姫乃の情報網であれば、なおさらだ。
出来る限り伏せられていたとはいえ、地元の人間には隠す通すことは不可能だった。友人はいなくなっていた。声をかけてくれた者もいたが、どこかよそよそしかった。
当然だ。声をかけた相手は、人を殺しているのだから。
犯人の家からは、恨みつらみのこもった日記が発見された。俺たちには、全く関係のないこと。ただ、幸せそうな家庭が憎い。そういった内容に、最後は収束されていた。
それからは、目立たない生活を送ろうと決めた。言葉遣いを丁寧なものに変え、誰とも深く関わらないよう、注意を払った。
妹が目を覚ました時、俺はその妹の前からも消えようと考えている。あいつには、何の枷もない人生を歩んで欲しい。
殺人を犯した兄なんて、必要ないのだ。
「私に、あなたをみせてよ。これは命令ではなく、お願い」
そんな俺に、自ら関わろうとしている奴がいる。全てを知った上で、それを認め、言い方はどうかと思うが、評価していると。
じっと俺の顔を見つめる姫乃。俺は考える。本当に、問題はないのか。一時の感情にのせられ、あとで後悔はしないかと。
「あなたは、私を見ていないよね。私に、誰かを重ねてる」
そこまで気づいていたのか、と俺は素直に驚く。表情に出ていたのか、気付かないとでも思った? と、姫乃は挑発的に返してきた。
「でも、今はそれでいいの。あなたは、私を守ってくれる。それは変わらないから」
姫乃は茶目っ気のある笑顔を見せると、最後にこう言った。
「後悔しているソラに、私はチャンスをあげるの。私をしっかり守りなさい。その上で、今度は全て守ってみなさいよ。あなたの守りたいと思うもの、全て」
こっ恥ずかしいことを言うもんだ。俺は、苦笑する。
後悔しているかって? しているに決まっている。あの時、すでに力はあったんだ。何かが少し変われば、俺は全てを守ることができたはずだ。
再度、姫乃の顔を見つめる。この先、どう動こうとも、後悔する未来がみえる。でもそれなら、そうであるなら俺は、より後悔しない道を選びたい。今までなら考えもしなかったこと。姫乃と出会い、姫乃の思いを聞き、今はそう思えるようになっていた。
照れくさくなった俺は、下を向き頭を掻く。そして、覚悟を決めると、顔の緊張を解き、深呼吸した。
「どちらかが身を切るってお前、ああいや、姫乃様」
「そのままでいいわよ。……ううん。多分、その方がいい」
俺は、溜息を吐く。
「話を切り出したのはお前だけどな? この場合、身を切ったというか、切らされたのは俺じゃないか。不公平だろ」
「私はお嬢様で、あなたの主人なのよ。当然でしょう」
これだから、お嬢様ってやつはよ……。
俺と姫乃は、笑いあう。ぎこちなくはあった。それでもこの時、俺と姫乃の関係は、少し先へ進んだ気がした。
「距離のある関係じゃ嫌って、なんだか告白されたみたいだよな」
負けじと、俺も話を蒸し返す。
「ち、違うわよ! そんなんじゃないから!」
俺は姫乃に近づいていく。姫乃は一瞬体を震わせたあと、身構えた。
俺のせいではある。口調と態度を素に戻した俺に、怖がっているのかもしれない。だが。――何してんだこいつ。何だそのポーズ。
「そっか、残念。大丈夫だって。分かってるからさ」
「何か、言いたそうな顔ね?」
そうだな。言いたいことはある。言ってもいいか?
「姫乃。悪いが、今回のライセンスは見送りだ。俺についてきてくれ」
「あなた、まさか……主人である私を」
何を、勘違いしているのだろう。面白そうなので、俺は黙って続きを待つことにした。
「そうだったのね。ずっと悩んでいたのも、そういう。確かに、私は可愛いかもしれないけど」
何が確かに、だ。俺はまた一歩、さらに姫乃に近づいていく。
「えう……。あ、あなたのことは嫌いではないけど、でもそんないきなり。考える時間が欲しい、かも」
「あー、変な妄想はそこまでにしておけ」
俺がそう言うと、姫乃は赤面し、頬をぷくっと膨らませていた。
「お前のことは、危険にさらさないと誓う。でも、完全にとは言い切れない。勘違いの可能性だってある」
そう。勘違いかもしれない。冷えた頭でよく考えてみると、ライバルを蹴落とすための罠だったかもしれない、とも。
だが、やっと頭が回転を始め気づいたこともある。いや、心のどこかで否定していた。覆い隠そうとしていたのだ。巧妙に偽ってはいたが、あの粘り気のある嫌な声は、耳に残っている。そして、俺へのあの質問。
「助けたい奴がいるんだ」
「うん。いいよ」
優しい声で、姫乃は微笑んだ。
「ありがとな。あと」
「うん」
これから、初めての学園生活を送る姫乃だ。女の世界は怖いと聞く。言っておいた方がよいだろうと、俺は判断した。例え、それが事実でもだ。
「俺は、自分で自分のことを可愛いなんて言う女に、興味はない」
「それはちがっ……もう! ソラ!」
俺はこの日、新しい人生の一歩を、踏み出した気がした。
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