科学世界5 二億の仕事

「――きて」


 誰かの声が聞こえた。でも、それはきっと、俺の聞きたかった声ではなかった。


「起きなさい!」


 大きな声が耳元で聞こえ、体をびくりと震わせ目覚める。視線だけを動かし、隣をみると、そこには心配そうな表情をする俺を雇った女。

 視線を正面に戻した俺は、ゆっくりと目を閉じたあと、息を深く吸い、吐いた。


「ぐう……」

「寝るな!」


 面白くも何ともない、ありふれたボケをかました俺の頬を、女はぺちっと叩く。

 最悪の、目覚めだ。この女がうるさいことではない。向こうの俺が、大変なことになっていた。いや、なっている。

 次、寝たらどうなるの? 死ぬの? それとも、すでに死んでいるのか? 女が視線を向けていることには気付いていたが、俺は無視を決め込み、窓の外を見つつ考える。


「ちょっと!」


 考えられなかった。俺の顔は両手でつかまれ、ぐるりと女のいる方へ向けられる。


「随分とうなされていたみたいだけど、怖い夢でもみた? すごい汗よ、あなた」

「汗……」


 夢、とは言えないが、確かに怖かったな。今まで生きてきた中で、ぶっちぎりで怖い夢。夢であれば、よかったんだけど。


「うん? 泣いているの? ソラ」

「え?」


 言われてから、気付く。頬には一筋の涙が伝っていた。

 おかしいな。汗にしろ、涙にしろ、俺が魔法世界での感情を引きずることはなかったはずなのに。

 硬直していた俺の顔に伝う涙を、女が人差し指を丸め拭う。そこでやっと、頭が回転し始めた俺は、少し照れくさくなり女から顔を背ける。


「すみません。あくびが」

「あくび?」


 訝しげな目をする女に、俺は続けて言った。


「怖い夢は見ましたけど、ただの夢ですから。心配いりません。ありがとうございます」

「そう?」


 理由は分からない。だが、あれほどのことがあったのだ。少しは、こちらの世界の俺に、影響がでたとしてもおかしくはない。

 科学世界の俺と、魔法世界の俺。感情が漏れたのだとすれば、最悪だ。想像でしかないが、想像ですら悲しくて、痛くて、辛い。あんなの、俺には耐えられそうもない。

 嫌な考えは振り払い、今は、頭の片隅にしまっておく。


「むふ。ぼーっとしていた君の顔、ちょっと可愛かったなぁ」


 突如、俺と女が座る座席の間に、にゅっと顔を伸ばしてきた奴がいた。列車の座席で戦った、大学生くらいの化粧が濃い女だ。


 そう。現在俺は、まだ列車の中にいた。誘拐事件の真相を聞いた後、この事件を仕組んでいた奴らと一緒に、仲良く帰宅中なのである。

 ナイフを振り回してきたこいつも、途中に現れた二人の男たちも、女を守るボディガードという話だが、一時は本気でやりあった相手。うまくやっていけるかどうか……不安だ。


「今はこんなだけど、あんな隙のある顔されたら心配しちゃうわよ。ね? お嬢様」


 こんな? こんなって何だ? 俺に隙なんてものはない。乳揉むぞ、てめえ。


「お姉さん、母性本能くすぐられちゃった! ソラ君、おっぱい舐める?」


 なめるぅぅぅぅ。


「は? あまり、からかわないでください」

「冗談だってば」


 冗談か……。

 ほらな。不安的中。この派手な女はさっそく、新入りである俺の評価を下げようとしてきたのだ。常に冷静さを欠かさない俺でなければ、卑劣な罠にはまっていたところだ。


「でも、私と戦闘中の君は、なかなか格好良かったよ。それは、本当」


 一つ溜息を吐いた俺は、派手な女から目をそらし、お嬢の方を向く。

 ちなみに、派手な女の持っていたナイフは、刃が引っ込む種類のナイフだった。つまり、女の太腿には何の傷も残ってはいない。

 そのこと自体は構わないのだが、あのナイフ、横に振るだけであれば普通に切ることができていた。本当、色々な意味で危ない奴。


「それで、僕を起こしたのは、うなされていたという理由だけですか?」


 あのタイミングで起こされたのは、良かったのか、悪かったのか。今の心情的にはありがたいような気もするが、こうなると、次に寝るのが怖すぎる。

 いずれにせよ、目的地まで寝ると言ったはずの俺を起こしにきたのだ。何か理由があるだろうと考え、俺は問いかけた。


「あ! そうだった! お父様が目を覚ましたの。隣の車両で待っているから、一緒に行きましょう」

「……ぐう」

「寝るな!」


 過去の夢より、今の現実。先程目覚めた時よりも、俺の気分は沈んでいた。



 ……。



「二億積もう。やってくれるな?」


 目の前に座る、髭を蓄えた男がそう言った。

 男の頬には、なぜか湿布のようなものが貼られており、俺はその部分を出来る限り意識から逸しつつ、男の目を見る。


「分かりました。やらせていただきます」

「うむ。期待している。他に質問はあるか?」

「いえ、特には」


 改めて、整理しよう。俺が引き受けた仕事は、大変な大富豪でいらっしゃる、髭男の令嬢を護衛するというもの。詳しい理由は教えてもらっていないが、日常的に命を狙われるような状態にあるらしい。

 否定はできなかった。初めてあいつと出会った時に、俺はすでにそれらしき現場に遭遇したからだ。というより、当事者であり被害者だ。


 この国でそんなことが……金持ちの娘ってのも大変だなと、仕事の内容を聞いている間も、俺はどこか遠い世界の出来事のように感じていた。

 質問することなど、これといって何も思い浮かばなかったが、一つだけ、頼み事をしておかなければならないことに気付く。


「すみません。質問ではないのですが、よろしいでしょうか?」

「ん?」

「スーツとサングラスは、そちらで用意しておいてくれませんか?」


 必要か? と、訝しげな目を向ける髭男。

 必要だろ。大金が手に入ることは確定したが、それはまた別の話。仕事では、皆と同じものを着ていたい。俺の想像しているボディガード。おそらくは、黒色のスーツあたりで統一しているはずだが、万が一ということもある。

 もしも、皆が真っ白のスーツで、俺だけ黒色だったらどうする? 二億という大金。俺は、お嬢の近くに配置されるであろうエリートのはずなのに、目立って仕方ない。敵に位置を知らしめる、もはや的だ。


「この際、それくらいは別に構わんが、必要ないだろう? 結婚でもするのか?」


 結婚式ならやはり白か? と、ふざけ始める髭男。

 おいおい。危機管理が甘いんじゃないの? それともまさか、俺だけ色違いにして辱めるつもりか?


「皆と同じものをお願いします。あまり、ふざけないで下さい。そういうちょっとしたところから、全ては始まるのです。いくら仕事ができても、新入りは新入り。僕が、仲間内から孤立してもよいのでしょうか? イジメ等にあってもよいのでしょうか? おそらく、仲間内でのあだ名はス○ミー」

「それは別に、いいけども……」


 いいのかよ。やはり、金持ちはだめだな。庶民の気持ち、部下の気持ちを何一つ分かっていない。

 俺がやれやれと肩をすくめていると、隣で俺達のやり取りを見ていたお嬢が、口を挟む。


「どうでもいいけど、話がまとまって良かったわ」


 どうでもよくないけど。


富豪姫乃ふごうひめのよ。確か、まだ言ってなかったよね」


 富豪の姫? いや、確かにお前はそうなのだろうが。


「お嬢さんが、お金持ちだってことは存じ上げております。ですが、何もそこまでアピールしなくても……」

「ちがっ! 富豪は名字よ!」


 ま、そうだよな。そうだと思った。そうで、よかった。


「夢見ソラです。改めまして、よろしくお願いします。お嬢様」

「姫乃でいいわよ」


 俺の言葉に、考えるような素振りを見せた姫乃がそう言った。さすがにそれは、と雇い主である姫乃の父親の方を見るが、姫乃の父親は渋い表情をしたあと、最後には頷いていた。――ん? いいのか? 俺は別にどっちだっていいが。


「だって、これからは一緒の学園に通うのに、それだと不都合でしょう?」

「はい?」


 一緒の学園? なんだそれ。聞いていないぞ。


「あとは私が説明してあげる! さっきの車両へ戻りましょう。ではお父様、またあとで」


 俺が再び父親の方へ顔を向けると、姫乃にぐいぐいと腕を引っ張られ、席を立たされる。


「僕はもう少し、旦那様とお話しておきたいことが……」

「お父様はまだ本調子じゃないの。誰かが殴り飛ばしたせいでね」


 そう言われては返す言葉もなく、俺は黙ってついていく。

 しかし、どういうことだ。俺はボディガードの仕事を引き受けたはずではなかったのか?


「あ、お嬢様。ソラ君は……」

「受けてくれるって!」

「わぁ。良かったですねぇ。これでやっと、念願の学園生活を送ることができますね!」

「うん!」


 俺に説明をする前に、盛り上がっている様子の女二人。それだよそれ。学園って何? 念願の?


 姫乃は、ボディガードを探していた。

 とある理由から命を狙われるようになった姫乃は、学園に通うことを許されず、日々を自宅で過ごすようになったのだという。

 何不自由ない生活に、優秀な家庭教師たち。望めば何でも叶えてくれたし、欲しいものはすぐに用意された。学園生活を送ってみたいという願望、その一点を除いて。


 最初は黙って従っていたし、朧気ながらも、自身がどのような状態に置かれているかは理解していた。それでも年々、少しずつでも鬱憤は溜まり、憧れる気持ちは強くなっていく。

 そしてある時、姫乃は言った。学園に通いたいと。要求が通らないようであれば、家を出てやる。そんなことまで、言ったらしい。


 姫乃の父親を始めとする周囲の者たちは焦った。叶えてはやりたいが、難しい。学園という、大人数がいて、かつ部外者が入り込みづらい閉鎖的な空間では、目が届かないことも多いからだ。

 しかし、それまでは見せたこともなかったような、姫乃の真剣で必死な様子に、納得させるのも難しい。どこまで本気か分からないが、家を出るとまで言ったのだ。

 そこで、学園に通うことを認める代わりに出した案が、ボディガード。


 姫乃はボディガードを探していた。それも、一緒に学園に通うことのできる、年の近いボディガードだ。

 それだって、見つけるまでには相当時間がかかったらしい。当然だ。年齢、戦闘技術、その他諸々。どれをとっても、容易いことではない。自慢をしているようで恐縮だが、今回の一件をクリアできるやつが、この国に何人いるというのか。

 姫乃の父親には、最初からその気はなかったのではないかと、俺は疑っている。


 だが、見つかった。偶然だった。

 姫乃の父親たちは、それでも本気で探してはいたようだが、結局見つからず、痺れを切らした姫乃が、家を飛び出してしまったのだ。そこで出会ったのが、俺だった。


 ここまでが、俺が雇われた経緯ではあるのだが、こんな責任重大な話、聞かないほうがよかった。と、今は思う。断っておけばよかったと。

 俺は、心の中で深く息を吐き、窓の外を流れていく夜の街を眺めた。


「ソラ君。私の名前は、あおいって言うの。今後も、結構顔を合わすことになると思う。よろしくね」

「ええ、よろしくお願いします。葵さん」


 派手な女が、俺に話しかける。


「もう~。堅苦しいなぁ。私のことは、葵ちゃんって呼んで」

「葵さんは……」

「んもう! 葵ちゃん!」


 そういえば、と俺はまじまじと葵を見る。年の近いボディガードというなら、この女でも。ああでも、そうか。


「少々、無理がありましたね。すみません」

「何が~? 何で今謝ったの? ソラ君? ……おい、こっち見ろ」


 個人的には全然ありだが、やはり足りないな。何をとは言わないが、現役の奴らに比べるとさすがにな。

 怖い顔をするお姉さんから視線を逸し、俺はそれが足りている方の女を見る。


「一週間後には私も。へへ」


 嬉しそうな声。


「どんなお洋服を着ていこうかな」

「お嬢様、あの学園は指定の制服があったはずです」

「あ、そうよね! 私ったら」


 少しばかり、覚悟決めないとな。

 俺は、楽しく笑う女を見て、ニヘラと笑った。


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