第一章 九官鳥の場合
名探偵という生き物がいる。
それは職業ではない。生き物の名前だ。
名探偵は、世の中の難事件を解決し、喰らい、生きている。妖怪のようなものだ。見た目は人間の形をしているし、戸籍もあるし、生物学的にも人間だが。それでも、名探偵がそういう“生き物”なのは間違いない。
私の、認めたくはないものの一応、ひとまず、形式的には主人もそうだ。
今、私の眼の前で一生懸命スマートフォンをいじっている男。名前は渋谷慎吾。この渋谷探偵事務所唯一の人間であり、所長である。
唇を尖がらせて、いかにも名探偵! な感じの革張りの椅子に座り、彼がなにをやっているかというと、
「またソリティア?」
呆れたような声が、入り口の方からする。
凛とした女性が立っていた。新緑を思わせる人だ、といつも思う。
「違うよー。花札」
慎吾が顔を上げないまま答える。
「違わないって。ゲームでしょ?」
「そういう類推解釈ってよくないよ、茗ちゃん」
ひょうひょうとした慎吾の物言い。女性が溜息をつきながら、机の方に近づいてきた。
「なに? なんか依頼?」
画面からは目を離さずに慎吾が言う。
「私が約束もしてないのに昼前にあなたの事務所にくるなんて、他に理由がないでしょう?」
「デートのお誘いかと思った」
そこで初めて慎吾が顔を上げ、ちょっといたずらっぽく笑う。
「寝言は寝てから言って頂戴」
のんびりとした慎吾の言葉に、そう冷たく彼女は返した。
実に妥当である。
「アホシンゴ!」
私も思いの丈を叫んでおいた。
「……なんで、お前、そういう言葉ばっかり覚えてるわけ?」
慎吾が私をみて嫌そうに呟いた。それは慎吾がアホなのだから仕方あるまい。
「賢い、いい子じゃない」
ふふっと女性が笑う。
この女性は、硯茗さん。彼女はなんの間違いか、このクソ駄目探偵慎吾の恋人である。
若くして優秀な弁護士、おまけに美人。そんな彼女の唯一の欠点は男を見る目がないことなのだろうな、と密かに私は思っている。
「で、依頼って?」
もう一度画面に視線を落とし、慎吾が話を促す。そんな慎吾を見て硯さんは何か言いたそうな顔を一瞬してから、すぐに諦めたかのように話始めた。
「殺人事件。依頼人にはあなたに相談することの許可を取ってある。依頼人は今、警察にマークされてる。ただ、証拠がない。そもそも、どうやって殺害したのかがわからない。から、逃れているだけ」
「そのこころは?」
「密室殺人です」
慎吾がトンっと強く画面を押すのと、茗さんがそう言うのは同時だった。
慎吾が顔を上げる。子供のような無邪気な笑顔。
「いいね、そういうの。俺、好きだよ」
彼の手にある画面は、ちょうどYOU WINと表示したところだった。
「私、シンのことなんだかんだで好きなんだけど」
「うん、ありがとう知ってる。俺も大好き」
「……その事件で生き生きするところだけはたまに嫌い」
「え、なんで?」
慎吾が心底驚いたような顔をする。なぜ驚けるのかが私には不思議だ。
「あなたの名探偵の効力のせいで、私までただの弁護士に過ぎないのに、密室殺人に巻き込まれているじゃない? そういうところ」
「んー、まあ、しょうがないよ。俺、名探偵だし」
普通に、何事もないかのように言い放つ慎吾に、硯さんが呆れたと溜息をつき、私にむかって、
「あなたのご主人さまは本当にだめね、くーちゃん」
「なんだよ、いいじゃんか。なー、キュー」
「ゴンベイ!」
私の返答に二人は顔を見合わせ、
「なんで、ごんべいなんて教えたの? なんの小説?」
「俺じゃねーよ」
私はごんべい。
渋谷探偵事務所の唯一の愛玩動物であり、看板九官鳥である。
なぜかくーだの、キューだの、勝手に変な名前を付けられていて不満である。
硯さんが持ってきた事件は、最近ニュースになっている資産家老人殺害事件だった。
応接セットに移動した二人は、話を続ける。
私のところからは少し遠くなってしまったが、話は十分に聞こえる。
「あー、ニュース見た見た。あれって、密室とかそんな面白い展開だったんだ?」
「さすがにマスコミには、密室のことは伏せてあるの。どうせろくでもないことになるでしょう?」
なるほどねぇ、と呟いた慎吾の唇が、少し楽しそうにあがる。
この男は本当、骨の髄まで名探偵だ。謎を見るとテンションがあがるのだ。
二週間前、資産家の老人・金持万次郎が自宅で遺体となって発見された。死因はナイフで刺されたことによる失血死。
動機の面で最も疑わしいとして警察にマークされているのが、硯さんの依頼人でもある金持豪志、三十歳。万次郎の孫にあたり、万次郎の相続人のひとりである。
「借金まみれの相続人ときたら、そりゃあ警察も疑うわな」
豪志は金遣いが荒かった。三年ほど前に、豪志の両親、万次郎から見ると息子とその嫁が亡くなり、豪志が彼らの莫大な遺産を相続した。
もともと怠惰なくせに見栄っ張りだったら豪志は、その遺産を使ってぱぁーっと遊びほうけた。
女性のいる店に通いつめ、貢ぎ、酒を飲み、騒いだ。仲間の分も豪快におごったという。
金銭の残りが危うくなった豪志だが、派手な生活をやめる気はなかった。お金を増やすために、働きたいとも思えない。
そこで彼が実践したのが、ギャンブルでお金を増やすことだった。
「まぁ、よくある話よね。そのままお金がなくなっちゃって、今度はギャンブルに手を出すなんて」
「なまじ、最初の頃は勝負運があったのがよくなかったよな。最初からボロ負けしていれば、もっと早く更生できたかもしれないのに」
競馬や競艇で、最初のうちは勝ち越していたらしい。それで、より多額の金を賭けるようになった。ところが、多くの金を賭けるようになったころ、彼の勝率は落ちていく。
「本当にもう、救いようのないアホよね」
「アホダアホダ」
焦った彼はより手早く金を儲けようと考えた。そこで彼が下した決断がどうしようもなく、アホだった。
「あれ、茗ちゃんにしては依頼人に対して手厳しい」、
「そりゃあ、違法賭博に手を出す決断をしちゃう人なんて、ちょっとアホじゃないかなーって思っちゃうわよ」
硯さんが面倒くさそうにため息をつく。いくら依頼人とはいえ、真面目な彼女にとって嫌なタイプの人間だろう。
違法賭博に手を出し、お金を失い、借金をして……。それも、黒いところから。アホ以外に何と言えばいいのか。
「まあなー。しかもよりによって、くっそ評判悪い組がバックについているところに手を出すなんてなー」
「こわーいお兄さんに追いかけられて、売り飛ばされそうになったりして」
「コワイコワイ」
そこまできてようやく、豪志はヤバイと気づいたらしい。祖父である万次郎に泣きついたそうだ。
しかしまあ、万次郎から見れば、豪志の自業自得。金持家の恥晒し。ふざけるな! と一喝した。
「使用人の話を聞く限り、依頼人が心を入れ替えて、ちゃんと頭を下げれば金を貸すつもりはあったみたいなんだけど」
「そんなに危機的状況にあっても、祖父にすらちゃんと頭を下げられないおぼっちゃまだったってことか」
「そう。ああもう、正直、めんどくさいからこの仕事おりたくてしょうがないの」
げんなりと硯さんが言う。本当に嫌な人物らしい。
「ってか、なんで引き受けたわけ。こんな事件。国選でもないだろ?」
「もともとは、上泉先生が金持家の顧問弁護士と付き合いがあって。顧問弁護士は刑事事件は得意じゃないからって上泉先生を頼ってきたんだけど……」
上泉先生というのは、硯さんの上司。いわゆるボス弁だ。
「ああ、手がいっぱいだからって茗ちゃんにお鉢が回ってきたんだ」
「そういうこと」
アンニュイに硯さんがため息をつく。
「まあ、引き受けた以上はちゃんとやらないとね」
「そうだねー。まあ、今の所、依頼人が露骨に怪しいけど」
「そうなのよねー」
金に困っているという事情がある以上、豪志が一番怪しいと思われるのは仕方がない。金を貸してくれない祖父に腹をたてたとも考えられるし、それに祖父が死ねばその遺産は豪志のものになるのだから。
「でも、まだ逮捕には至ってない。それが、密室だったから?」
「金持万次郎氏は疑り深い人でね、玄関の鍵は二重どころか、四重。もちろん、警備会社は雇っているし、防犯カメラも設置されている。怪しい人物は誰もうつってない。窓ガラスもきっちりしまっていて、どこも割れていない。殺害現場である彼の書斎にも、二重の鍵がかかっていた」
「うわぁ、密室殺人してくださいと言わんばかりの状態だね。合鍵は?」
「ないの。万次郎氏が管理しているだけ。それから、犯行当時、屋敷の中には誰もいなかったのよ」
「じゃあ、被害者以外誰もいない、完全な密室ってことか」
「そう、使用人も。たまたまみんな外出していたらしいの」
「なるほどね」
慎吾が笑う。楽しそうに。
「というわけで、シンにお願いしに来たってわけ。あなたにってはこんな事件、小説の冒頭の顔見せレベルのものでしょう?」
硯さんがあまりにも「名探偵」という存在をわきまえた発言をする。
「……茗ちゃんも、ずいぶんメタ的なこと言うようになったねー」
「幸か不幸か、あなたとの付き合い長いからね。もう慣れた」
淡々と言われると、いつものように「まあ、俺が名探偵だからさ」だのなんだのと、おどけるのもできなかったらしい。慎吾が珍しく苦笑いでごまかした。
「今更、名探偵様について色々言っても仕方ないからいいんだけど。本当、お願いだからなるべく早く、解決してちょうだい。この際、依頼人が犯人でもいいから」
「いいんだ?」
「だって、救いようがない馬鹿だもん」
本当、胃が痛い。二度と接見行きたくない、と続ける。
真面目な彼女にここまで言わせるとは、恐ろしい人物だ。
「りょーかい」
慎吾が軽く片手をあげてを返事をした。おおよそ、仕事を引き受けた人間の態度とは思えないが、慎吾の場合、これがデフォルトなので仕方があるまい。
「茗ちゃん、それじゃあ報酬はさ……」
悪戯っぽく笑った慎吾は、硯さんの方に顔を寄せると、耳元で何か囁いた。
少しの間のあと、硯さんの顔が赤くなる。
「なんで! あなたはいつもそうなのっ!」
悲鳴のような言葉。まったく、今度はどんな卑猥な交換条件を出したのやら。
「アホシンゴ!」
硯さんが帰ってすぐ、慎吾は身支度をし、外に出た。私を移動用キャリーに入れて。
やってきたのは、私にとっても馴染みの警察署である。
慎吾は受付である人を呼び出す。
そして嫌そうに現れたのが、
「何しに来た、馬鹿探偵」
笹倉譲巡査部長。捜査一課の刑事さんで、慎吾とは大学時代の同級生なんだそうだ。慎吾とはよく事件現場で顔をあわせることが多い。
つまり、名探偵の効力に巻き込まれた被害者の一人である。かわいそうに。
「ご挨拶だなー、笹倉。茗ちゃんからの依頼だよ」
「硯さんの? あー、金持の……」
「そうそう。だから、資料見せろー」
「部外者が無茶言うんじゃねーよ。つーか」
そこで巡査部長の視線が、私に移った。
「なんでクロ連れてるんだよ」
「今日はこの後、キューの健康診断なんだよ。一ヶ月も前から予約してたんだから」
「ゴンベイ!」
「ついでか」
呆れたような顔を巡査部長はする。まあ、気持ちはわかる。所詮、この名探偵にしてみればその程度の事件、ということなのだから。
「いや、でも笹倉。冷静に考えてみろ?」
真面目な顔をした慎吾が、人差し指を突きつける。
「俺に見せた方が、はやい」
「悔しいけどそのとおりなんだよ……。だからむかつくんだけどな」
民間人に頼るなど、おおよそ警察組織の人間とは思えない発言だ。だがしかし、この名探偵にいつも振り回されていれば、あきらめが先に来てしまうのもよくわかる。最近知った言葉によると、慎吾はそう、「チート」なのだから。
ここじゃなんだから、と案内されたのは、捜査一課。もちろん、私も一緒だ。置いていかれても困るからな。
「おい、笹倉。またあいつが来たのかよ」
「いや、でもほら。あいつならさっさと解決するじゃないですか」
「ああん? あいつの手を借りないと俺らが事件解決できないって言いたいのかよ」
「いや、本当、先輩のお怒りはごもっともなんですけど……」
「まあ、実際、手詰まりっすからねー」
「密室殺人とか、明らかにあの死神の領分だからな」
「つーかなんだ、あのカラス」
ひそひそと刑事たちのやりとりが聞こえる。うざいのはよくわかる。しかし、私はカラスではない。
慎吾は、そんな言葉に耳を貸さず、資料をぺらぺらとめくっていく。やる気なさそうに。
この男のことを心配しているわけでは、けっしてないが、損をしていると思う。
そんな風にやる気がなさそうだから、嫌われるのだ。もう少し、やる気を見せればいいのに。優秀なことに間違いはないのだから。
「九官鳥だー」
「やーん、可愛いー」
「こんにちはー」
「コンニチハ!」
「わー、かしこーい」
私は私で、通りすがりの婦警さんたちに遊ばれていて忙しいのだが。
「なるほどね」
そうこういうしているうちに、慎吾が資料を閉じながら、そう呟いた。
慎吾に敵意の眼差しを向けていた刑事たちも、私と遊んでいた婦警さんたちも、みんなの視線が慎吾に向く。
「笹倉。犯人は被害者宅の使用人、小豆畑だ」
いきなりの犯人名指し。巡査部長が慌てて、慎吾の隣までくると、資料をめくる。
「小豆畑って……、ああ、この大人しそうな若い子?」
「どんな人だっけ?」
「あの、おさげの子だろ」
「ああ。あの、雇われたばっかりとかいう?」
「おいおい、探偵。そんな子がどうやってヤったっていうんだよ」
刑事たちのやりとりから、この人物はそもそも重要視されていなかったのがよくわかる。
しかし、それでも、名探偵が犯人というのならば、その人物が犯人なんだろう。
「つーか、雇われたばっかりっていうのが、怪しいだろうが」
まあ、確かに。通常の事件ならばそうでもないが、名探偵が出てきた以上、雇われたばかりというのは疑ってください、と言わんばかりの役どころだ。
「裏はとれてないから現時点では、ただの勘だけど……、彼女は金持が金貸し業をしていたころ、なんか関係があるはずだ。まあ、ベタなところだと、両親があいつから金を借りて、取り立てに苦労して自殺、とかかな?」
「根拠は?」
「金持が金貸し業をしていたのは、二十年以上前の二年間だけだ。金持の仕事内容といえば、今ぱっと思いつくのは」
「不動産業?」
「そう。それなのに、彼女は取り調べのときにこう答えてる」
そこで慎吾は、ちょっと声色を変えて、
「借りたものを返さない人には厳しい方だったので……恨まれているということも、あるかもしれませんね」
とんとん、と資料の該当箇所を指で叩く。というか今のは、物真似のつもりか? 本物を見ていないから似ているかどうかもわからんが。
「不動産で揉めるのは、借りたものを返さないというよりも、家賃が払える払えないだろ、普通。これは金貸しの頃の話だ。二十年以上前のことを、この二十二歳の女の子がここまで細かく知っているっていうことは……身に覚えがあるんだろうよ」
おい、誰か小豆畑の居場所を確認しておけ! そんな声がする。
「じゃ、じゃあ渋谷。 部屋が密室だったのは?」
「密室に関わってるのは……、残念だけど、茗ちゃんの依頼人だろうな」
「金持豪志?」
「ああ、おそらく、金を盗みに入るつもりだったんだろうよ」
慎吾が一つため息をつく。
「犯行時、部屋には隠れた豪志がいたんだと思う」
「現場を見ていたってことか?」
「ああ。金を物色しようとしていたら、被害者が帰ってきて慌てて隠れた。そんな感じだろうな」
そのまま出るに出られずいる間に、小豆畑が被害者を殺害した。
「いやいや、待てよ。そもそも金持豪志はどうやって被害者の部屋に入ったんだよ?」
鍵は被害者しか持っていなかったというのに。
「写真を見る限り、犯行現場の鍵は簡単にピッキングできるものなんだ」
「え、あんな古そうで厳重そうなのに?」
「古いからこそ。ちょっとネットの質問掲示板にでも書けば、さくっとあけ方を教えてもらえるよ。コツがあるんだ」
「……なぁ、お前なんでそんなこと知ってるんだ?」
「探偵としての基本情報だよ」
どんな基本情報だよ。
「部屋を密室にしたのは、豪志だ。あの鍵、開けるのも簡単だけど、閉めるのもコツさえつかめば簡単なんだよ。それで、部屋を密室にして不可能犯罪っぽくしたんだ。あーあと、それから、防犯カメラ。あれもイジっただろうな。ここで使っている防犯カメラは、あるコードさえ知っていれば、簡単に上書きできるからな」
「……お前、まさかやってないよな?」
「やらねーよ」
どうだか。時と場合よっては、やりかねないぞ、この男は。
「屋敷に誰もいなかったのは?」
「それは、偶然の産物だろうよ。密室トリックだのなんだの、壮大なトリックを使っての殺人なんて、現実ではそうそうないしな」
「……名探偵なんていう非現実的な存在に言われるとは、おそれいるよ」
まあ、現実なんてそんなもんかもしれない。
「じゃあ、なんであいつは何も言わないんだ? 実際自分が疑われているんだ、犯人を名指ししてもおかしくないだろう」
「強請るつもりなんだろうよ、小豆畑を」
本当、クズだよなーとため息混じりに慎吾が言う。
「密室殺人、不可能犯罪にして小豆畑に恩義を着せ、犯行を黙っている代わりに金をよこせって、強請るつもりだったんだろう」
「クズダ!」
「クズすぎるな……」
巡査部長がしみじみとつぶやいた。
周りの警官も口々に同様のことを口走っている。
金持豪志、一体どれだけの人間に、ダメ人間だと思われているのだろうか……。一周回って、ちょっと会いたくなってきた。
「つーか、絶対あいつなんか屋敷からパクってるから、そっちも調べといてよ。あいつ、このまま野放しにしてたら、世の中の害悪だし」
「なんか、もう、豪志が犯人でいいんじゃねーか?」
「いや、本当に」
真面目に不真面目な内容で頷き合う、探偵と刑事。だが、まあ概ね私も同意する。
「と、まあ、資料見ただけの雑推理だが、大枠はこれで合ってると思うよ。あとは、裏づけ捜査頑張ってくれ」
「おい、裏をとってこい」
推理を黙って聞いていた警官たちが、慌てて動きだす。
なんだかんだで、ここでは慎吾は名探偵としてきっちり認識されているのだ。
「軽く言うけどな、それが一番面倒なんだよ。名探偵様がおっしゃっていたので、裁判にはなんねーからな」
「そりゃあ、事件を解くまでが探偵の仕事だからな。あとの手続きについてまで関与しないのが、名探偵の存在意義なんだよ」
「お前のそういうところがダメなんだよ。ちゃんと裏付けしないと、小鳥遊検事に文句言われるのは、こっちなんだからな」
小鳥遊検事は、なんの因果か慎吾が解決した事件を担当することが多い女性検事だ。彼女はドラマでいうと準レギュラーといったところだろうか。
「大丈夫だよ。本当に怒っている時の小鳥遊女史はわざわざ事務所にまで来て、俺に文句言って帰っていくから」
「全然ダメじゃねーかよ!」
「なんで謎を解明したのに怒られなきゃいけないんだろうなぁ。証拠がないと裁判が維持できないっていうのはまあ、わかるんだけど」
そう、私が見かけるのは怒っている彼女ばかりだ。どこか爬虫類めいたところがあって好きではない。今回は来ませんように……と心の中で祈っておく。
「まあ、今回は確かに茗ちゃんにさっさと片付けろ、って言われたから巻きでやったところあるしな。あと、キューの健康診断の時間も迫ってるし」
「この事件は動物病院よりも優先順位が低いのかよ」
「万が一、何か行き詰まることがあったら連絡してくれ。アフターサービスだ」
と、怠惰な慎吾にしては珍しいことを付け加える。それがサービスなのかは、甚だ疑問だが。
「じゃあ、キュー。病院行くか」
「ゴンベイ!」
巡査部長に送られて、警察署の一階まで戻る。
「あ、いた、慎吾」
受付付近にいた硯さんが駆け寄ってきた。
「時間が空いたから。気になって。解決した?」
「俺サイドでは。あとは、笹倉たちの仕事」
「それが大変なんだってば」
「ごめんね、笹倉くん」
「いえいえ、いいんですけど」
「仕事だからな」
「お前に言われると一気にむかつくの、なんでだろうな」
そんな会話をしながら、玄関まで向かおうとしたところ、
パシャパシャ!
何かたくさんの音と光がして、そちらに視線を向ける。騒がしい。
ちょうど、玄関を偉そうな人が出て行くところだった。それを取り込む人々。カメラ。必死にその人をかばおうとする警備員のような人。今のはカメラのフラッシュだったか。
「あー、例の政治家の汚職事件のやつか」
つまらなさそうに巡査部長がつぶやく。
なるほど、取り調べを終えて出てきた政治家を、マスコミが取り囲んでいる図、といったところか。
シャッターとフラッシュが続く。
がっしゃん!
すぐ近くから別の音がして、私がそちらに視線を移すのと、
「茗!」
慎吾が叫ぶのは一緒だった。
流れるように私を巡査部長に預けると、座り込みそうになった硯さんの肩を支える。
硯さんの足元にはカバンが落ちている。
ああ、さっきの音は彼女のカバンが落ちた音か。
慎吾に支えられた硯さんの、顔色は悪い。真っ白だ。
どこか、目の焦点もあっていない。
「ダイジョウブ?」
「硯さん?」
私と巡査部長が、状況がつかめないまま呟く。
慎吾が硯さんの頬を両手で挟むと、自分と強引に視線を合わせる。
「茗!」
それで、さまよっていた彼女の視線が慎吾に向き直った。
「あ……、シン」
そのか細い声に、少し慎吾が安心したような息を吐く。
そのまま、硯さんは両手で顔を覆った。
「ごめん、なさい」
そんな彼女をなだめるように、慎吾が頭を撫でる。
「仕方ないよ。急だったから」
「ごめんなさい、大丈夫だと、思ってたけど」
「謝らなくていいから」
慎吾にしては、真剣に心配そうな顔をしている。真面目な顔も、やろうと思えばできるじゃないか。
「大丈夫。油断していたから、びっくりしただけ」
と、なんだか二人にしかわからない会話をする。
「あの、硯さん? 大丈夫ですか?」
置いてけぼりの我々を代表して、巡査部長が問いかける。
「心配かけてごめんなさい、大丈夫」
笑う硯さんの顔色はやっぱり悪い。慎吾の腕にすがりつくようにして立っている。
「貧血的なあれだよね」
慎吾が言うと、硯さんが小さく頷いた。それは事実の確認というよりも、事実の強要のようだった。
嘘だなと私も思ったし、巡査部長も思っただろう。しかし、賢い我々はわざわざここでその話を広げようとはしなかった。触れていいことと、悪いことの違いぐらい九官鳥にだってわかるのだ。
納得できるかは別として。
「笹倉悪い、あとは大丈夫」
慎吾が言う。それは、巡査部長をねぎらうというよりも、あとは放っておけという言い方に近かった。
落ちた硯さんのカバンを拾い、巡査部長から私を受け取る。
巡査部長は何か言いたげに慎吾を見て、硯さんを見て、もう一度慎吾を見てから、
「わかった。硯さん、お大事に」
そのまま、自分の職場に戻っていく。その後ろ姿に少し視線をやってから、慎吾は置かれたソファーに硯さんを座らせる。
「ちょっと、休んでいこうか」
そのまま、私を硯さんの横に置き、自分は彼女の正面にしゃがみ込んだ。
子供にするかのように目線を合わせ、彼女の両手を握る。
「なんか飲む? 大丈夫」
「もう大丈夫。何年前だと思ってるの?」
「何年前でも辛いことは辛いよ。時間が経ったからこそ、辛いこともある」
この二人はたまに、私には全くわからない会話をする。それはきっと、私が渋谷探偵事務所に来る前にあった何かに影響しているのだろう。
いずれにしても、私にはわからないことである。知らないものは知らないのだから。
それでも、こうやって私にはわからない話をしている二人を見ていると、硯さんが慎吾を好きになるのには、何か深淵な理由があるのだろうか、と思う。
私が知らない、過去に何かがあったんじゃないか、と。
ただの恋人同士、ではないのだ。きっと。
「でも」
納得していないかのように、さらに言葉を重ねようとする慎吾を、
「……だけど、何かあったら助けてくれるでしょう?」
硯さんが愛情のこもった声で遮った。
慎吾がちょっと驚いたような顔をして、
「もちろん、いつでもウェルカムだよ」
おどけて手を広げる。硯さんが笑った。嬉しそうに。
「なんだったら今からでもうちで……」
「まだ、仕事あるから」
慎吾の言葉を硯さんはあっさり却下して、
「でも……今日、泊まりに行ってもいい?」
「もちろん」
笑う硯さんの顔は、少しだけ血色が戻ってきているようだった。
ここだけ見ると、比較的いつもの二人だ。
しかし、何で警察署でいちゃついているんだ、このカップルは。
名探偵という生き物がいる。
それは職業ではない。生き物の名前だ。
そいつは、世の中の難事件を解決し、喰らい、生きている。妖怪のようなものだ。
見た目は人間の形をしているし、法律上も生物学的にも人間だが。それでも、名探偵がそういう生き物なのは間違いない。
だから、名探偵の周りには不可解な事件がうようよしている。一度名探偵の物語に巻き込まれると、無事で逃げることは難しい。
殺されるかもしれないし、殺すかもしれない。身近な人を失って、心を病むかもしれない。そうじゃなくたって、死体を、それも誰かにむりやり命を奪われた死体を見るなんて、普通の人にはあってはならない事態だ。
硯さんや巡査部長のように、レギュラーとして振り回されるなんていうことだってある。
至極、迷惑な男だと思う。我が主人ながら。
名探偵ははた迷惑で、おぞましい生き物だ。
それでも、この男もただの人間なのだろうな、と思う瞬間がある。それが、硯さんと一緒にいる時だ。仕事が絡んでいない時に二人は、ただのバカップルだ。
何か、訳ありではあるようだが。
だが、私にはわからない。尋ねることもできない私には、過去にあったことを知ることはできない。
私が知っているのは、事務所に来た日以降のこと。あの日、別れようと硯さんが切り出したことからしか知らない。
そう、確かにあの日一度、硯さんは別れを切り出したはずだ。なのに、なぜか今でも二人は交際を続けている。
あの時、慎吾は殴られていたはずなのに……・
何れにしても、今の二人はとても仲が良い。
私にできるのはただ、今を見ることだけ。今の二人が幸せそうならば、ペットとして私も本望だ。満足だ。
あとは、ちゃんとした名前で呼んでもらえるようになれば、言うことはない。
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