花盗人(はなどろぼう)

此花朔夜

第1話

 われが名は 花盗人と 立てば立て ただ一枝は 折りて帰らん


 入室の合図もせずに、立て付けの悪い引き戸をがらりと開けても、部屋の主は驚いたように瞬きしただけで、俺のことを咎めようともしなかった。

「君、今日はえらく派手にやられたねぇ」

 相変わらず能天気そうな口調でそう言って、彼はおもむろに、俺の顎を長いおよびですいと持ち上げる。まじまじと傷の具合を値踏みして、花のかんばせが台無しだ、などと、胸糞の悪い感想を漏らした。

「それで、一体、誰の彼女に手を出したの」

 慣れた手つきで止血の準備をしながら、彼は決まり文句を口にする。俺は仏頂面のまま、校内一の粗暴者の名を吐き捨てた。勇者だね、と、彼は呆れたように笑いながら、拳で切れた俺の口角にガーゼを押し当てる。傷口に圧がかかって、鈍い痛みに、俺は思わず眉を顰めた。

「花盗人は、本当は罪になるんだよ?」

 幼子を諭すような口調で、この若い養護教諭にしては珍しく、説教じみたことを言う。

「……恋愛は自由です」

 俺の反論に、彼はただ苦笑を深めるだけだった。


 何故、他人の彼女を寝盗るのか。単純な話だ。美しいと思ったから。それ以上の理由も、それ以下の理由もない。別れる時だって同じだ。それは彼女を、美しいと思えなくなったから。

 正直にそう言うと、大抵、相手には泣かれるか、打たれるか。白眼視されるか。そのいずれでもなかったこの男のことを、俺は少し気に入っていたのに。

 さほど時間もかからずに出血はおさまり、続いて傷口が丁寧に清められる。汚れた脱脂綿をゴミ箱に捨て、軟膏のチューブを手に取ったあたりで、彼は不意に言葉を紡いだ。

「……隣の芝生が何故青いのか、君は知っているかい」

 予想もしない言葉に、俺はただ、胡乱げに彼を見つめ返す。もったいぶるように間を置いてから、彼は言った。

「それはね、――隣人の手入れがいいからさ」

 あまりにも陳腐な回答に、俺は眉間の皺を深める。あからさまな俺の態度に、彼は余裕のある表情で、まあ聞きなさい、と話を続けた。

「女の子は芝生と違って、勝手に自分の手入れをしてくれるから、そこは楽でいいんだけどねぇ。――それでもやっぱり、肥料は必要なんだよ」


 仕上げの絆創膏を貼り終えて、彼は医療用の手袋を外す。無言で流しに向かい、程なくして戻って来た。

「冷やしておきなさい。少し、腫れてきているから」

 濡らしたタオルを受け取って、俺は素直に、熱を帯びはじめた右頬に押し当てる。それから、ただ彼のことを恨めしげに睨めつけた。けれどもう、彼は、俺には興味がないと言う風情で、早く帰りなさい、などと言う。

「タオルは定期的に取り替えて、冷やし続けなさい。でないと腫れがひどくなってしまう。それから、今日は入浴を控えるように」

 事務的にそう告げられて、彼の意識から俺は追いやられていく。それが、たまらなく不愉快だった。

「……先生は、俺があいつらのことを、愛してなかったって言いたいの。肥料がなかったから、駄目になったって言いたいの」

 自分でも信じられないほど、声が震えた。どうしてだかわからないけれど、喉の奥が、絞られるように痛い。

「それは違うな」

 困ったような表情をして、それでも彼は微笑おうとしていた。

「君には、後悔してほしくないんだ」

 言われて、俺は先生の薬指に、在るべきものがなかったことに気がついた。

「言葉にしなければ、かたちにしなければ、わからないこともあるんだ。それを、君には知っておいてほしい」

 彼はもう、いつも通り笑いながら、あろうことか、幼児にするみたいに俺の頭を撫でる。

 男子高校生の俺にとってはひどく屈辱的なその行為が、けれどこの時ばかりは、どうしても拒絶することができなかった。

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花盗人(はなどろぼう) 此花朔夜 @MockTurtle_0v0

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