song of sakura
御手紙 葉
song of sakura ♪1
私はゆっくりと桜並木の通りを歩きながら、軽く鼻歌を唄っていた。それは私のお気に入りのバンドの曲で、思い入れのあるものだった。初めて人前で披露したものだったからだ。その大きな坂道には車の通りは少なく、高校から下校する女子高生達の背中がちらほら見られた。
かくいう私もこの女子校に通っていて、本当は友達が欲しいところなのだけれど、何分気が強くて容姿が派手で、ある趣味にのめり込んでいたことから避けられるようになっていた。悲しいことだけれど、私自身今は一つのことに執心していて、それどころではなかった。
私が志すものは音楽の道だけだった。それは私にとって心のエネルギー源だった。音楽に触れている時、私は本当に夢中でいられたのだ。そういう楽しいことに恵まれているおかげで、つらいことも乗り越えてこられたから。
女の子達のきゃらきゃらとした声を遠くに聞きながら、私は鼻歌を唄って大股で歩く。春の暖かな風が私のストレートの髪をふわりと撫でて、微かに甘い香りを運んでくる。私は周囲の桜へと視線を向けてその色合いを楽しみながら進み続けていたけれど、そこでふと何か突き刺すような視線を感じた。
私は何だろう、と立ち止まって顔を巡らせたけれど、そこでとてもおぞましいものを見てしまった。
桜の影、すぐ後ろに腰を下ろしてもたれかかり、大きく身を屈めて坂道に視線を送っている一人の男がいた。その坂道は急斜面で、ゆっくりと上らなければいけないのだけれど、女子高生のスカートがひらひら揺れる度に男の口が動き、うほっとか、えっへっへなどと零しているのがわかった。
私のこめかみにミミズが這い回るのがわかる。私は男の視線が他の女子高生に向いたところで、道から逸れ、ゆっくりとその背中へと近づいていった。男は私になど気付かず、桜から身を乗り出して覗き見しながら、鼻の下を伸ばしていた。
私はそっと鞄を持ち上げ、男の脳天に振るい落とす体勢になる。けれど、そこでその行動に踏み切らなかったのは、男が女の子達から視線を逸らして、その手元の物体に目を向けたからだ。
それは――。
アコースティックギター。男はそっと弦に指を触れ合わせると、ギターを弾き出した。それは耳に馴染むことのない、全く新しい旋律だった。そのメロディに心惹かれているのだから浸ることができるはずなのに、私の生きてきた中で全く知らない曲で、とにかく鮮烈だった。
きっと他の人にはそんなことはないのだろうけれど、私には本当にそれは衝撃だった。何かが違う。でも、何が違うのかわからない。そういう正体不明の衝撃だった。
男はその無精ひげの生えた口元を動かして歌を唄う。でも、全くうまくなかった。むしろ下手過ぎと言ってもいいぐらいのものなのだけれど、でも、何故か私は――本当に信じられなくて、耳を疑った。
これも、また正体不明。ただ心に染み込んでくる隙間風のような歌。わずかな隙間をすり抜けて、私の心の奥深くまで届く、その優しく狂おしい新しい旋律。私は彼のぼさぼさの髪を見つめながら、背後で息を呑み、彼の歌に引き込まれ続けた。
下手なのに、癖になって心を捉えて離さない、不思議な曲。それが彼の第一印象だった。
やがて彼の指が止まり、ギターが再び沈黙すると、私は思わず拍手を送っていた。下衆野郎であることはわかっているのに、私は尊敬の眼差しを向けてしまう。彼が屈み込んで坂を見上げていたことなど、もうどうでも良くなってしまった。
「誰――」
男の体が跳ね上がり、もの凄い勢いで振り向く。男の視線がすぐに上げられて、私の顔を捉えた瞬間、男の表情が変わった。そこに浮かぶのは、喜びと苦悶と怒り、ごちゃごちゃに入り乱れた想いで、彼は私を見つめて「姉さん」とつぶやいた。
「どうして、こんなところに……」
私は拍手を止めて、何のことかわからず目を丸くして男を見つめていたけれど、男がはっと我に返ったように肩を落とした。
「なんだ、ただのガキか。びっくりさせるなよ」
「ガキとは何よ! このゲス野郎!」
私が鞄を上げようとすると、男は待て、と慌てだし、弁解を始める。
「違うんだ、俺は何もしていない。決して何もしていない。ただここでギター弾いて、歌っていただけだ」
「一番良かった子の色と模様は何?」
「白い無地だな! ……て、違うんです、嘘です、ごめんなさい!」
私の鞄が上下する度に、男は掌を合わせて謝り続ける。いい加減私は呆れてしまい、全く、とつぶやいた。
「次にやったら、あんたの頭をタコ殴りにするからね」
「ちっ、本当にいけ好かないガキだな、お前。何拍手してんだよ、驚かせるつもりだったのか?」
そこでようやく私はこの男の音楽のことを思い出し、身を乗り出した。
「すごくうまいわね。どうやったらそんな風に歌えるの?」
男は呆気に取られた顔で私を見上げていたけれど、やがて「はあ?」と間抜けた声を出した。
「俺の歌のどこを聴けば、うまいって思うんだよ。ギターも歌も三流じゃねえか」
「自分で言ってるよ、この人。私は違うと思うな。あんたは歌がうまいよ」
年上のイケメンをあんた呼ばわりかよ、と男は零しながら、少しだけ照れ臭そうな顔をする。でも、断じてイケメンではなかった。むしろ彼の言葉を借りると、いけ好かないメンズと言いたいぐらいである。
「俺の歌、そんなにうまいか? 今まで俺の歌を聴いてきた奴にもそう言われたことがあるが、技術がなってない、って散々にこき下ろす奴もいたしな。どっちなんだか」
「人を惹きつける何かがあるって言うのも、一種の才能だと思うよ」
私がそう言って笑うと、男は鼻の下を擦りながら、「お前、もしかして……」とつぶやく。
「俺に、惚れたのか?」
「んな訳ないだろ、下衆野郎」
男ははあ、と溜息を吐き、ギターを膝の上で横たえると、私へと視線を向けた。
「お前、音楽やってる人間だろ。やけに歌に拘るしさ。何やってる?」
私は、とつぶやきかけようとして、すぐに首を振った。私にはこの男(下衆)のように人の心を震わせる歌を唄うことはできない。ただ、技術と経験と、それから熱意があるだけだ。
「それ」
男が私の手を見ていることに気付き、私は慌ててそれを背後へと隠した。男はにやりとする。
「ギターやってんな、お前。ちょっと弾いてみろよ」
「いや、私は……」
「人の歌だけ聴いて納得してんな。俺にも聴かせろ」
男はギターを差し出してきて、私に渡す。私は唇を噛んだままそれを受け取り、じっとしていたけれど、やがてギターストラップをかけて地面に腰を下ろした。
「まあ大して期待はしてないけどな」
「勝手に言ってれば?」
私はそう毒づくとギターの弦に指を触れ合わせて、そして――。
空気を引き裂いた。男の目が見開かれるのがわかる。私の手が動く度に男の表情が硬直していく。
それは本当に狂おしいほどの熱情に溢れた曲だった。私が作曲したもので、名前はまだなかったけれど、一番出来が良かったと周囲の人に言われたので、歌い続けている。
ストロークは雷鳴と化して、桜の花びらを散らせた。男の間の抜けた顔だけが私の目の前で変わらずに残っていた。
女性の奮起する意志を唄ったこの曲は、私が音楽に対して挑む一つの決意にも似ていた。それは心の奥深くまで突き刺さった矢のように鋭く、そして心を満たす程に優しく、柔らかい。そんな相反する二つの要素を持った曲。
私が声を張り上げる度に、男が半開きにした口をさらに大きく開けて、食い入るように見つめてくる。ビブラートが男の体を激しく震わせて、高音はどこまでも桜のはるか上まで伸びていく。そこには躊躇が入る隙間はなかった。
そうしてゆっくりと曲が終わりを告げると、男はさらに石化したまま私を見つめ続けた。
「どうだった? 私の曲、聴きたかったんでしょ?」
私がギターを男へと差し出すと、そこでようやく我に返ったのか、彼はどこか恐れ慄いた顔で私を見つめ、何も言いたくねえな、と零した。
「何よ、それ。あと何が足りないと思う?」
「足りない訳ねえだろ。もうプロになれるよ。なんでなってないのかそっちの方が不思議だろ」
男は顔を反らして皮肉を言うような口ぶりでそう返す。私は肩をすくめて、まあね、と言った。
「確かに技術は付いているんだけど、あんたのように人の心に染み渡るようなものがないのよ。それで、いつも挫折してるの」
「挫折だと? 甘っちょろいこと言ってんじゃねえ。今デビューしなかったら、チャンスを逃すかもしれねえぞ」
「私の音楽好きは半端じゃないよ。自分がこれと決めたら、絶対にやり遂げるから」
男は半ば呆れた顔で私を見つめていたけれど、やがて肩をすくめて、「馬鹿か」とつぶやいた。
「俺なんかプロ目指してるのに、全く届かないで日本全国ふらふらして、女引っ掛けたり、電柱にしょんべん引っ掛けたり、そんなことばっかりしてたからな。デビューできるならさっさとしちまえ。何も躊躇う必要なんかねえよ」
「あんたの歌のように、私も唄えないのかな」
私がそう切実な眼差しを向けると、男は「はっ」と笑ってにやつく顔を浮かべる。
「そんなの簡単じゃねえか。自分のやりたいようにやればいいんだよ。何も考えずに、適当に生きてりゃ自然とやりたいことがはっきりして、歌にも味が生まれるってもんよ」
「プロでもないあんたに言われると何だか腹が立つわね。世にいるプロミュージシャンが私達の会話聞いたら、鼻で笑って一発拳骨お見舞いするわよ」
「いいんだよ、そんなの。プロじゃねえんだから」
そんなことを言いながら、男はギターを撫でて唇の端を持ち上げて笑う。
「ねえ、とにかくさ、あんたの歌には何かあるのよ。だから、それがわかるまで、ここに来て聞き続けたいんだけど」
「はあ? 俺にそんなに惚れ込んでいるのか。まあやりたくなったらいつでも俺の元に来いよ。俺、そっちの欲望は果てしがないから」
「そのギターであんたの脳天かち割るわよ」
私達は罵り合いながら、翌日もそこで落ち合う約束をし、もう興味を失ってその場を後にした。男はまだその木に寄りかかってギターを弾いていた。その歌声がふわりと耳を撫でると、桜が舞うこの季節に聴けて良かったな、とぼんやり思ってしまう。
何故そんな気になるのかはわからなかったけれど、それでも私は音楽への道筋をどうにか見つけようと足掻いて、前へと進んでいくしかない。
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