驕るなかれ

 病は気が付かないうちに、取り返しがつかないほど、その人を蝕んでしまう。

 気が付いた時、もうすでに手の施しようがなかった場合。


 その時何を考え、その先をどうするかは、その人の意志にゆだねるべきかもしれない。


 残された命、そして残された時間。

 その限りあるものを、どんな形で残すかは。


 ……その人次第だ。




 お袋は俺に、自分が最後になしえる最高の笑顔だけを残して、俺の前からその限りある命の火を消した。


 俺が今思い出せるお袋の思い出は、最後に見たあの笑顔だけだ。

 自分の残された時間、そしてもうなすすべがない事。


 何も残すことが出来ない事を、お袋もわかっていた。

 だから、あえて俺に残したのは。


 あの笑顔だったのかもしれない。


 お袋が残してくれた笑顔。

 その笑顔は俺と、まゆみを引き合わせてくれた。


 あの笑顔があったから、俺はまゆみと言うかけがえのない女性と出逢えた。

 そう、俺にとって生涯忘れる事の出来ない人。

 俺の人生にとって、大切な時を分かち合える。

 石見下まゆみと言う、女性に出逢えた。



 膵臓癌すいぞうがん

 あの青いノートの最初に書かれていた文字。

 そして「妊娠」と「胎児」の文字

 これは何を意味しているのだろう。


 ページをめくる。


 検査結果……。


 血液検査データのコピーが、そのノートに張り付けられていた。

 患者名は記載されていなかった。

 その検査結果の内容には、特別これと言った変化は見られなかった。

 次のページをめくる。


 一か月後の再度の検査結果。


 ある項目ついて若干の変化はあるが、このくらいであれば要観察の対象であろう。

 その下に妊娠9週目とあった。

 この患者は妊婦でもあるようだ。ならばこの血液検査の結果も、納得がいくのかもしれない。


 常見准教授が静かに俺に語り掛ける。

「どうですか? このクランケの状態。田辺君、君はどのように考察しますか?」


 俺は少し考えて。


「妊娠9週目でもあり、それによるものと思われる変動数値は見られますけど、これと言って、何かを予測するような題材は、見受けられないと思います」


「そうですか……。まぁ、一般的な所見での回答でもあると思います」


 常見准教授は、なにを言わんとしているのだろう?


 そしてまゆみはなぜ、この患者の経過を別のノートに、わざわざ記載させる様な事をしているのだろうか。

 この担当する患者が、何か特殊な症例を持っているとても言うのか?


 ページを無造作に数枚めくる。


 俺はその開かれたページに記載されている、データに目が留まった。

 腫瘍癌マーカーの数値が上昇していた。アミラーゼによる検査数値、エラスターゼの数値が異常に高くなっていた。


 常見准教授が、それとなくまた質問する。


「この数値結果からおよそ推測される病状は、何でしょうかね」

「……た、多分膵臓癌。造影による所見は在りませんが」


「うむ、まずは疑うべき所見でもあるでしょう」

「一体、この患者は誰なんですか?」


 医者には守秘義務と言うものがある。

 患者のプライバシー、つまりその患者の病状を、他の第三者に漏らす事は出来ない。


 だが常見准教授は、そのかたくなな口を開いた。


「それは、石見下君の診断カルテのレポートです」


 思わず俺は耳を疑った……。


 まゆみの……? このノートに記載されている検査結果は、まゆみのものと言うのか!

 では、……まゆみは、まゆみはこの病に侵されていたと言うのか? 膵臓癌と言う、お袋と同じ病気に。


「ちょうど彼女が亡くなる。……そうですね、3か月位前の事だったでしょうか。オペ中に急に気分を悪くなされてね。その時は大事にはいたらなったが、念の為、検査を受けてもらったんですよ」


 その時の検査で、まゆみのお腹の中に、宿してまもない、小さな命が育っている事が判明した。

 だが、皮肉なもので、病と言う病魔も生まれていた。


 常見准教授は、おもむろにまた窓の傍に行き、少し窓を開け煙草に火を点けた。

 たばこを吸いながら、背を壁につけ、窓の隙間から流れるように出ていく煙を眺めながら語った。


「今更こんなことは言えないんだが、田辺君。彼女は立派でしたよ。私は彼女、まゆみ君がフェロー時代に、わざと難題ばかりをわざと押し付けていた。いやな上司でね。まっ、なんて言うか。正直に、彼女のプライドの高さに少々、いや、気に入らなかった。嫉妬していたんだ」


 鬼の常見が嫉妬?


「でも、彼女はその難題を根気よく、一つづつ解決していった。そのバイタリティには、さすがの私も認めざろうえなかった。それに私は彼女に気づかされたんだよ。医師として一番大切なことを……。そう、もう私が忘れかけていた、医者であるべきことの意味を」


 口から放たれる白い煙が、窓の隙間から逃げるように流れていく。


「あの頃のまゆみ君を見ていて、思い出したんだよ。若かりし頃の私のあの想いを……」


 吸い終わったたばこを携帯灰皿でもみ消し、そのまま常見准教授は、窓の外を眺めながら話をつづけた。


「今回の助手は石見下君だったのか」

「常見先生、私では何か不服でも?」

「いや、そう言う訳でもないが……」


「準備は整っていますか?」

 麻酔医師に確認を取るように問いかける。

「はい、バイタル110の72でサイナス。安定しています」


「では、始めましょう」


 昨夜緊急搬送されてきた32歳女性、胸部圧迫骨折、骨盤外傷骨折。

 搬送されてすぐに処置は施された。

 緊急オペは難なく終了。患者も安定しだした。

 ICUにてその後の経過を観察。


 だが早朝、患者の容態は急変した。

 そしてこの患者の体内には、小さな命も宿っていた。


 初期処置時において、胎児への影響度は低いと判断。

 MRIによる造影検査の結果では、内臓その他には、その時は異常はなかった。


 それでも、彼女は急変した。

 VF、ハートラインモニターからは、警告音がけたたましく鳴り響く。


 当直の担当医だった僕が、がすぐさま駆けつけた。

「VFだ、除細動の準備!」

 除細動器がセットされ「離れて」と言う声と共に、パットが患者の胸部にあてがわれる。


 だが、ハートラインの波形は正常値を示さなかった。

 再度モジュールを変え行う。だが反応は変わらない。


 胸部エコーを取る。胸部に落とされたジェルを伸ばすかの様に巻き込み、プローブを滑らせる。


 その造影に映し出されたものは、内部出血……。


「そ、そんな。最初の検査の時には、内臓損傷はなかったはずなんだが……」

 スッと、聴診器を持つ手がその胸部に触れる。


「常見先生!」この騒ぎに気が付いた石見下君も駆けつけてきた。

「肝臓脈の破裂だ。出血によって心臓が圧迫して起きる現象だ。開胸する、開胸セット準備しろ!」

「はい」

 けたたましく周辺の看護師が動き出す。


 患者の胸部に赤茶色の消毒液が塗られ、ドレープがかけられた。

「10番でいい、メス」

「はい」


 外皮から押し込むようにメスが入り込む。

「輸液全開にしろ。一気に血圧下がるぞ」


 メスが一定の位置に達すると、そこから溜まっていた血が流れだしてきた。

「血圧70まで低下」


「よぉし、まずは応急処置だ。出血している静脈をまずはクランプする。サテンスキー」

「はい」鉗子が手渡され、患部を慎重に挟み込みカチカチと音を立て、ラチェットをかける。


「心拍、血圧戻りました」

「ガーゼパッキングをする。まずは一時しのぎだ、すぐにオペ室に運ぶぞ!」

 患者はすぐさまオペ室に移動された。


 その時のオペの助手に、そのまま石見下君がついたんだ。

 常見准教授は言う。あの時、自分は彼女が助手に就いた事に少し苛立ちを覚えたことを。


「あの当時私は、自分の腕に絶大な自信を持っていた。それが自分のステイタスであるというように。いや私はどんな症例でも、どんなことでも必ずやり遂げる事ができると言う、自信だけが先行していた医者だったんだよ」


「だから彼女を見ていると、正直いい気はしなかった。何故ならまるで自分そのものを見ているようでね。むろん彼女も私の事を目標にしていることは、十分知っていたよ。指導医としては誇らしかったよ」


 あの顔のしわがより深くなる。そして、彼はつづけて言う。


「正直、そんな彼女を見ているのが怖かった。いずれ彼女は私など、あっさりと追い抜いてしまうと言う事を、私は知っていたんだよ。こんな小娘に、今まで積み重ねて来た私の栄光が、もろくも消し去らてしまう事に」


 オペが開始された。


 緊急処置に手押し込められたガーゼを、一枚づつ取り除く。

「石見下君、ガーゼが癒着してる場合があるから慎重にやってくれ」

「はい」

 彼女は軽く返事をする。


「彼女のその術技を見て僕は思ったよ。外科医はその経験が何よりものを言う。彼女はそこらの外科医よりも、その腕は繊細であって、しかも的確だった。損傷部の血管を縫合し、このオペは終わるものだと思っていたが、彼女はすでにもう次の段階を予想していた」


「先生、胎児心拍数落ちています」


 この状況から考えて、最悪の場合、母体優先の順位を選択するのは適切な事だ。それに関して彼女も意義は唱えなかった。


 そして次の瞬間

「先生、母体の心拍も落ちています」

「そんな馬鹿な」

 今施した患部を再度注意深く見る。


 しかし、出血などは見られない。

 だとするならば考えられることはあと何か?


 石見下君は再度注意深くMRIの画像を見つめていた。

「もしかして……」と彼女が呟いた。


「常見先生、これを見てください」


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