第9話 隣のベッド

出逢ったのは小学校5年生の春。

ほんの少し緊張した面持ちで僕の部屋に現れ、キリッとして意志が強そうだなぁ、なんて思ったのが第一印象だった。

「今日から隣のベッドになりました。よろしくね」

明るいおばさんの言葉とは正反対に、こちらをにらみ付けるようなまなざしを見て、ああ、この子も一緒なんだなぁ、と本能のレベルで理解した。

彼は非常に怒っていた。

これから訪れるだろう、ベッドに縛り付けられる生活に。

たくさんの子どもたちが居る中、なぜか自分がそのような運命を背負ってしまったという事実に。

僕も同じだ。

ここにいる子たちは、みんな同じだ。

どうにもならない運命を恨み、呪い、そして諦める。

彼の発する怒りはきっと、諦めきれない自由への渇望。精神力と体力のアンバランスな均衡をぶち破りたいという願望。

その思いが強ければ強いほど、きっと彼は苦しむだろう。

自分の体が自由にならないという事実は、小学生には余りにも重いから。

この子が現実と願いとの狭間で苦しみませんように。

一年ほど前から葛藤の日々を繰り返し、ついには諦めという境地に至っていた僕は、新たにお隣さんとなった少年に、そのような思いを抱いていた。


そんな初日からしばらくの時が経った。

もうその頃には隣の彼とはなぜか非常に打ち解け、仲良く日常生活を共にするようになっていた。

木戸修一、通称しゅうちゃん。

しゅうちゃんは隣のベッドで同学年、院内学級でも隣の席、とかなり濃密な時を共に過ごす間柄だ。

しゅうちゃんはしっかりとしたリーダータイプ。自分の考えをしっかり持ち、それを人に伝えることのできる力を持っていた。

それなのになぜか、人と話すのが苦手で引っ込み思案な僕と一緒にいるのだから、つながりってのは不思議なものだ。

「オレ、こんなとこでダチなんか作るか、て思ってたんだよね」

あるときしゅうちゃんは、そんな風に話し掛けてきた。

消灯の10分前。歯磨きもトイレも済ませ、ただゴロゴロと布団に寝転がっていたときだった。

「ああ、そんな感じだったねぇ」

のんびりと僕も答える。

遠くの方で、ナースが小走りで移動する音が聞こえる。誰かが発作でも起こしたのかもしれない。

「バレてた?」

「分かるよ。目を見たら」

初めてここに連れて来られてきたしゅうちゃんのまなざしを思い出す。あの怒りに満ちた目。

「なんかさー、こんなワケの分からないところに連れて来られて、明日から厳しい治療が始まります、なんて言われてさ」

ぽつぽつと思いを吐き出すしゅうちゃんは、やや遠い目をしていた。

「認められるわけないじゃん」

「うん…」

「そりゃしんどかったけど、ちょっと薬飲んだら、ちょっと入院したら治ると思うじゃん」

「そだね」

「説明聞いて、長くかかることも分かってたけど、それでもこんなとこで普通に楽しく暮らしてたら、もう元に戻れないんじゃないかって」

声が少し震えている。

認めたくない事実を認めるのは、たくさんの勇気がいる行動だ。今しゅうちゃんは、それをしようとしている。

僕という証人をたてて。

「だからさ、居心地なんて悪くていいって思ってたんだよね」 

「うん」

「でもさ、どう考えても、すぐに退院なんてできないんだよ」

「…うん」

たしかしゅうちゃんは、今日検査の結果を知らされていた。

それを知っている僕は、うなずくしかなくて。

「だから、だからさ…」

認めたくない、でも認めざるを得ない、その葛藤。

僕に話すことで整理をつけたいということだけは分かるけれど、それを言葉にするのはまだしんどいことなのかもしれない。

だから、

「ぼちぼちやろうよ、ね」

しゅうちゃんの詰まった言葉を引き受けた。

できるだけ軽く聞こえるように。

「…うん。ぼちぼち、だな」

しゅうちゃんはちょっと泣いて、それでも消灯の3分前にはいつものしゅうちゃんに戻っていた。

「…はぁ」

「どした?」 

それでも大きくため息をつくしゅうちゃんに問いかける。まだ何か引っかかることがあるなら、掬い上げてやりたい。

「コータが悪い」

「は?」

「コータがなんか話したくなるような顔してるのが悪い」

「濡れ衣だぁ」

二人で小さく笑う。

「でも、」

と僕は言う。

「ん?」

「ダチ、なんでしょ?」

作るつもりの一切なかったしゅうちゃんの友達になれてるなら、僕はそれがうれしい。

「…うん」

しゅうちゃんは、布団を顔までかぶって、小さな声で言った。

「…ありがと」

「どういたしまして」

しっかり者のしゅうちゃんの不器用なお礼に、僕はなんとなくほっこりしてしまったのだった。


それから一週間後。

「大丈夫かー、コータ?」

日々底辺あたりで推移している体調がどん底に堕ちていたその日、しゅうちゃんは僕のベッドの横に来て、熱にしっとり湿っていた僕の頭を撫でてくれていた。

「…けっこう、キツい…」

なるべくなら弱音を吐きたくはない。

心配させることが気がかりというよりも、吐いた言葉がそのまま自分に返ってきてしまうような気がして、口には出したくないのだ。

それでもそのときは余りにもキツくて、つい口からそんな言葉が転がり落ちていた。

「だよなあ…」

具合が悪いときに大丈夫?て聞かれるのはムカつく時もあるけど、自分が誰かを心配するときは大丈夫?しか言えなくてもっとムカつく。

そんなことを以前、しゅうちゃんは言っていた。

今も僕の頭をうつろに撫でながら、きゅっと眉根を寄せている。

よく分からない無力感とか、オレが何とかしてやれたら、なんて責任感を感じているのだろう。

ほっといたらいいのにな。

心配されているのに、頭を撫でてもらっているのに、そう思う。

具合が悪くてうなっている僕の事なんかほっといたら、しゅうちゃんが無力感に苛まれることなんてなかったのに。

そう思ったら、もうダメだった。

動かすことさえおっくうになるくらい重い腕で、何とか布団を引き上げる。

しゅうちゃんが見えなくなるまで布団で顔を隠し、くぐもった声で伝える。

「もう、ほっといて」

しゅうちゃんは、ハッとしたように撫でていた手を止めた。

「体、キツイのは、もう、どう、しようもないし…た、ぶん、これ…いつまで、も、つづ、く…」

どうしようもないんだ。

病気になったこと、その治療が難しくてなかなか進まないこと、治療自体も苦しくてなけなしの体力をごっそり奪っていくこと。

全部全部どうしようもない。

「だ、から…死ぬま、で…ほっといて」

僕が入院して1年以上経つ。

そしてそれが、僕が「死ぬ」という言葉を初めて使ったときだった。

「そんな…」

しゅうちゃんのかすれた声。

ああ、やってしまった。

そんなことまで言うつもりなかったのに。僕に構うことで傷つかないでほしいって言いたかっただけだったのに、余計傷つけたかもしれない。

でも、それがそのときの僕の本心で。

疲れた。本当に疲れた。

口に出したことはなかったけれど、遅々として進まない治療と悪化の一途をたどる体調に、徐々に徐々に荒んでいた心は、もう生を諦めていた。

死ぬことさえ平常心で受け入れようとしていたのだ。

「そんなこと言うな!」

ガバっと布団をはがされる。

傷つけたかも、と思っていたしゅうちゃんは、傷つくよりむしろ怒っていた。

それはもう、入院初日の比ではなく、全身から怒りのパワーが満ち溢れていた。

「死ぬとか言うな!ほっとけとか言うな!」

怒りに満ちた瞳から、ぼろぼろ涙がこぼれている。

そんなに興奮したら、しゅうちゃんが発作を起こしてしまう。

内心それで冷や冷やしたが、僕も不調すぎて動けない。

つまり、しゅうちゃんにされるがままだった。

「ツラいよ、苦しいよ、オレだって治療してるから分かる。泣けよ。平気な顔して死ぬとか言うな!死ぬのは怖いんだよ。死ぬかもしれない病気は苦しいんだよ。だから泣いたらいいんだよ!」

ゼイゼイ言いながら言い切ったしゅうちゃんの目は、まっすぐ僕を見ていた。

その目を見ていたら、もう耐えられなかった。

僕の目から、久しぶりの涙が落ちる。

「…し、んどい…こわ、い、よ…しゅうちゃん…怖い…」

ガサガサの声で告げる。

怖かった。このままどんどん悪くなっていくのが。最終的に、たった10才で、何もできないまま死んでしまうのが。

「それでいいんだよ、コータ。しんどいな、怖いな」

しゅうちゃんも泣きながら、怖いと言い続ける僕の頭をわしゃわしゃ撫でた。

「オレだって怖い。でも、お前が隣にいるから、怖いけどしんどいけど頑張るんだ」

ダチだろ?なんて笑うから、僕も笑う。泣きながら笑う。

「ん…だから、となりに、いて…」

それだけ言って、僕は意識を飛ばしたらしい。

2~3日朦朧としながら過ごした後、なんとか回復した僕は、その時のことを看護師さんに後から聞いた。

「修一くん、幸太くんの横から離れなくて大変だったんだから」

恥ずかしそうに背中を向けて寝るしゅうちゃんに、僕は言った。

「しゅうちゃん、横いてくれてありがと」

「ん。ダチだからな」

しばらく張りつめていた心が、ほわっとゆるんだ気がした。

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