ファティス

白川津 中々

憂国の姫君1

 陽が昇り大地に光が射す。

 豊穣なる実りが生命の輝きを放つ季節。民草は土にまみれ農業に励み、細やかかな幸福を噛み締めていた。

 ヘイレンは小国であったが作物も家畜もよく育つ豊かな土壌を持っており、気候も安定している為、過去に大きな飢饉もなかった。また、国を統治してきた王や貴族達も決して農夫から搾取するような真似はせず、国の安定と未来の為に善政を敷いてきたのだった。それは当代の王キイクロープスも例外ではなく、大器かつ慈悲深い、偉大なる王達の一員として玉座に腰を下ろしている。だがかつての賢王達とは違い、キイクロープスは今、建国以来の大有事に頭を抱えていたのであった。それは……


「陛下……」


 執務室で陳情書を読み、その返答を書いていたキイクロープスのところにやってきたのは腹心の大臣、アンセイスであった。アンセイスは地白の肌を更に蒼白に染め上げ、死人のような顔立ちでゆらりと王の側に歩を進めた。


「なんだアンセイス。ノックくらいしたらどうだ」


「申し訳ありません。火急の事態でしたので……」


 アンセイスはノックをしたのだが皺が入り皮が弛んだ腕では充分に響かず、またキイクロープスが必要以上の熱意を持って陳情書を読むものだからその音はないにも等しかった。しかしアンセイスはそれを釈明しようともせず、一向に血の回りが戻らぬ顔のまま口を開いた。


「パルセイアのクルセイセス王から書簡が……」


「……またか。これで十三通目だな」


「十四通でございます」


 キイクロープスは舌打ちをしてアンセイスから文を受け取り眉間を寄せた。そうして読み終えるとそれを机に放り投げて頭を抱え、チラと窓の外から庭園を覗いた。そこには、彼の妻子が、つまりは王妃と王女が、茶の準備をしているのが分かった……









「お母様。今年の果実も、大変よろしいみたいです!」


 鮮やかに実った果実を切って皿に並べるのは金糸のような髪に翡翠色の瞳をした少女であった。その対面に、彼女がお母様と呼ぶ淑女が一人鎮座しているのだが、その淑女もまた、少女と同じく金糸の髪と翡翠の瞳を持っている。彼女達こそが、ヘイレンの王妃アルトノと、王女ファティスであった。


「ファティスったら、はしたないですよ。声を抑えなさい」



「いいじゃないですかお母様。こんなに天気がいいのだから、少しくらいうるさくたってみんな許してくれますよ」


 アルトノは娘の無作法に苦言を呈しながらも、同じく身を包む優しい陽射しと芳醇なる果実の香りに酔いしれていた。ヘイレンの果実は他国からも評価が高く、香りも味も、味わう者を幸福にさせる。

 しかしふとした瞬間、気品漂うアルトノには似つかわしくない暗い影がその美貌を覆い、憂いを帯びた瞳が傍に立つファティスの絹のような心根を掠らせた。


「お母様。如何なされたんですか? このところ、よくお顔に雲がかかるようですけれど……」


 アルトノははたとしたように「何でもございません」と笑顔を作って見せた。それが虚であるのはファティスも察したようだったが、勤めてそれを隠し、彼女もまた作られた微笑を浮かべ、ぎこちなく茶と果実を囲むのであった。しかし、快晴に架けられた黄道と、若く瑞々しい果肉に二人はとうとう心からの笑いが溢れた。他愛ない会話をする内に二人はすっかりと先の暗雲を忘れていたのだが、一度さした魔は去ることはなく、再び不穏な空気が二人を包むのであった。


「そういえばお母様。近頃、悪い報せを聞くのですが、ご存知ありませんか?」


「まぁ。せっかく楽しんでいるのに、貴女は随分野暮な事をお聞きになるんですね」


「最初に水を差したのはお母様ではありませんか」


 アルトノは娘をじっと見据えたと思えば、溜息をついて黙ってしまった。これが娘の意趣返しならば厳しく叱責していただろうが、邪気のない、純粋なる興味と反論である事が分かっていた為、無言になる以外に道を知らなかったのである。

 しかし当のファティスは物言わぬ母の圧力などどこ吹く風で、ゆっくりと、薄桃色をした唇を動かしたのだった。


「お母様。パルセイアの軍が、この国の近くまで迫っていると……」


「ファティス」


 全てを言い切る前にアルトノは娘の言葉を遮った。


「そんな話をするものではありません。貴女が気にすることでもありませんし、万事はお父様と大臣達が、もしもの際にはエルディーンを始めとした騎士達が護国の信を持って働くでしょう。いいですかファティス。そんな事を聞くのは下賤です。わきまえなさい」


 先とは違い、アルトノは必要以上にファティスを咎めた。「申し訳ありません」と項垂れる我が娘を見て内心言いすぎたと感じているようだったが、彼女は顔を曇らす要因を実の娘に突かれ心中穏やかではいられなかったのだ。アルトノがパルセイアの件を知らぬはずがないし、実際捨ててよい事案ではなかった。

 屈指の強国であるパルセイアは、当代の国王であるクルセイセスが即位してから強大だった軍備を更に拡大させ、暴力を持って多くの国をその支配下に置いているのであった。クルセイセスが族国に求めるのは絶対なる服従。いかなる要求であっても逆らうことは許さず、応じられないのであれば地獄と表現する外のない殺戮と拷問が繰り広げられる……その暴君の魔の手が、ここヘイレンにまで迫ってきているのである。アルトノが気を揉み、キイクロープスが頭を抱えているのはまさしくそのパルセイアから脅迫文が届くようになったからに外ならない。曰く、貴国の稀有なる豊かな土壌を、華夏たる我がパルセイアの肥やしとする栄誉を与えるから従うように。との事であった。キイクロープスは今日までなんとか保留としてきたが、クルセイセスもついに痺れを切らしたと見えて、先に届いた文の最後にこう付け加えたのであった。


 陽が三度落ちるまでに秤に掛けよ。一つの歴史の終焉か、天子の傍に立つ誉を受けるかを……


 





 その夜。キイクロープスはアンセイスと、騎士団長であるエルディーンを招集し方針を固める会議を開いた。


「従う外ないでしょう。エルディーン殿には申し訳ないが、我が国の兵力ではとてもパルセイアには敵いません。隣国のローマニアに助力を乞うにもアルサッカとサンサッカの両峠が行軍を大いに遅らせるでしょうし、そもそもローマニアがパルセイアと戦をする利点がございません。いかに豪胆豪傑なファストゥルフ陛下とて、進んで火中に飛び込む愚行はせぬでしょう。遺憾ながら、私は服従する道を進言させていただきます」


「ふむ」と頷くキイクロープスは目線をエルディーンに送った。

 エルディーンは胸を張り、「アンセイス殿は弱気が過ぎる」と鼻を鳴らし嘲笑した。不遜な態度に老大臣は眉をひそめたが、若さ故と諦めた様子で「そうでしょうか」と言うに留めた。一方のエルディーンは、畳み掛けるようにして自らの論を述べる。


「敵軍は南西から侵略を開始するでしょう。そこにはちょうどマーネンという小さな村があります。そのマーネンを拠点とし敵の侵入を阻むのです。我が軍は確かに兵力では遥かに劣りはしますが、防衛戦となればその欠点も覆せます。怖いのは気力体力満ちて挑んでくる序盤のみ。後は攻めあぐねて疲弊している敵を叩くだけです。海と山に囲まれた我が国は幸いでした。天然の要塞が見事に機能するのですから」


 エルディーンの言葉にも一応の理はあったが、希望的な観測が過ぎるのも事実であった。

 しかしながら、アンセイスの策にしても、大人しく服従した結果、骨の髄まで搾り取られ枯死していくという末路を辿らぬとも言い切れない。現にパルセイアに従い、国力が著しく落ち自壊していく国も一つや二つではきかなかったし、ヘイレンはこれまで十三にも渡る族国化への要請を拒否している。それを理由に、いざ膝を屈した際どのような無理難題を押し付けられるか知れたものではない。

 いずれにしても賢君キイクロープス王は決断を迫られていた。血を捧げるか、大地を朱に染め上げるかを。


「陛下」


「ご決断を」


 エルディーンとアンセイスは同時にキイクロープスを見据え采配を迫る。王はそっと目を閉じ、国の行く先を示したのであった……








 ファティスは空を眺めていた。無限に広がる星の大海を見上げていた。

 彼女はパルセイアが迫ってきている事実を知っていた。それをあえて母に聞いたのは、自らも国の一部としてその身を捧げる覚悟があったからである。一国の姫君とあればそれは当然の責務であるし、王妃であるアルトノとてそれが分からぬはずはなかった。だが、未だ花さえ知らぬ我が娘を覇王の慰み者として送り出す非情を持つ事ができなかった。

 キイクロープス。アルトノ。ファティス。三人が三人ともに国の行く末を案じ、それぞれがそれぞれの考えを持って時代の奔流に抗おうとしている。その結果がどう出るかは、未だ誰も知らない。

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