第13話 仕事

 幼い頃には、自転車で車道に引かれた白線の上を走って遊んだり、線の上だけを逃げ回る鬼ごっこもした。 

 それでも、白線を歩く。たったそれだけの事が仕事になるなんて、五十二年間生きてきて初めて知った事だ。

 そして私は今。面接時に渡された見た事もない風変わりな靴を履いて、真っ直ぐ伸びる白線を踏み締めながら歩いている。

「上手いですね、野地さん……」

 銀色のヘルメットを深く被った豊満な身体つきの濱中梨央さんが、滑走路を思い起こさせる程に真っ直ぐ伸びる白線を歩く私の横に立ち、手を取り呟く。

 柔らかくしなやかな指先が、私の嗄れた手を優しく支える。

「子供の頃は、良くこうやって道路の白線を歩いてましたから」

 私は足下から続いている白線の先に目を凝らした。強く青を主張する空と、灰色の路面から立ち上る陽炎が、その境界線を淡く歪ませる。広大な敷地内に延びている白線は、その不確かな地平線の先まで続いている。

「それにしても、かれこれ六年程。 私も介助人をしていますが、初めての方でここまで出来る人はなかなかいませんよ」

 真っ直ぐに引かれた白線の上を只歩く。ただこれしきの事が出来た事を喜んで良いのか悪いのか私には、まだ分からない。それ以上に、面接会場から扉一枚隔てた場所に、こんな驚くような空間が有ることに愕然としてもいる。

 ただ、単純に褒められて悪い気もしない。

「そんなことは無いですよ。 のせるのが上手いですね本当に」

 私は、再度足下の白線を睨み付けながら梨央さんの気配に答えた。


 数日前に、白線歩きの仕事をしてみないかと言ったのは、絵画教室で知り合った池元紀代子さんだった。絵画教室と言ってもす地区公民館で行われているシニア向けの愛好会みたいなものだが、昨年末に妻を亡くした私にとって心の拠り所になっていたのは間違いない。

 妻は辛抱強い女だった。だが、逆にそれが病気の発見を遅らせてしまったのかも知れないと最近思うときがある。不調を訴えたときには既に病魔が医者でさえ諦めてしまう程に、妻の全身を蝕んでいた。

 そして、あっという間に極自然に流れていた筈の時間は動かなくなった。

 妻が居なくなってから初めてその事に気が付いたが、彼女は私の人生と云う時計の秒針であった。つまり、私の人生は彼女を失った時点で停止している。

 それでも私の周りの環境はそれを赦さないらしく、やれ新しい生き甲斐を見付けろだとか、趣味を持てだとか、とにかく煩くけしかけた。特に子供が出来たばかりの長女は何かにつけて私の今後の人生を輝かせるのだと言っては目新しい事に無理やりに参加させたがった。そして、私は半ば流れに飲まれた木の葉のように色々な事に首を突っ込むはめになった。そう考えると、私と云う木の葉が辿り着くのが絵画教室であろうと白線歩きであろうと大して変わらない気もするが、とにかく私は今。無限に続いているようにも思える白線の上を、桃色の羽根が着いた変な靴を履いて丁寧に歩いている。

「そう言えば。 池元さんは今日、来られてはいないのですか?」

「……池元さん? 来られてはいませんが……」

 私の問いに、妙な間を置いてから濱中さんが答える。

「そう……ですか……」

 私は答えながら強い違和感を感じて、昨日の池元さんの言葉を思い出す。


『私には、もう白線歩きしかないとさえ思えるんです。 笑われるかも知れないけど、あの恐ろしい程に広大な敷地を、只々白線以外のものを考えずに歩いていると泣きそうになる程に満たされて、深い幸福感を感じるのです。 そうなる理由なんて私には関係無くて……ただ、白線の上だけを歩きたくなるんです』

 言いながら、泣き笑いのような顔を向ける池元さんの熱い何かを私は確かに感じて池元さんの両手を握り締めた。

『白線歩き。 私も、やってみます』


 あれだけ強い使命感に燃えていた池元さんの欠勤と云う事実に違和感を残したままに、そもそもの疑問が再び私の思考に触れる。私は我慢できずに訊いた。

「ところで、この仕事は一体どんな目的で行われているのですか? 白線を歩く。 それが、世の中の仕組みとして誰かの役に立てているのか分からないままに、この仕事を希望してしまったのは私自身なんですが……」

「初めは……皆さん同じ疑問を持たれますよ。 でも、それはどんな職種でも同じです。 自分の仕事を明確に理解している人間なんて、一握りに過ぎませんから。 理由なんて必要ではありません。 私達は誰かを必要として、必要とされることにだけ意識を向ければ良いのです」

 答えた梨央さんが、私の手を強く握り締める。私は、何かをはぐらかされた気がして食い下がった。

「そうですね。仕事の本質なんてものを理解している人は、いないのかも知れない。 ただ……例えば、ガソリンスタンドの店員なら燃料を求める客に燃料を売るのが仕事でしょ? 誰かが求めるサービスを提供するのが仕事で、私がこの白線を歩く事が誰の為のサービスなのか知りたいと……」

「……そうですね……ガソリンスタンドで燃料を欲しがる人は確かにいます。 恐らく何かを運搬するために車を動かす。 だから燃料が欲しい。 でも、それは『運ぶ』と云う目的の為に必要なサービスであって、その後何をどうする。 例えば、荷物が到着した後でそれがどうなる。みたいなことまでは考えていないでしょ? 私達に求められていることは目の前の事に過ぎない。 つまり、自分が白線を歩くことで誰が喜ぶのか……そんなことは考える必要がない」

 言い終えた梨央さんは、真っ直ぐに地平線の先を見詰めている。

 考えれば、確かに自分自身も現役で仕事をしていた頃に部下が同じ質問を投げ掛けたなら「目の前の事をこなせるようになってから、その後の事を考えろ」と答えていた筈だ。



  



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