第5話 虐待
① 末端の仕事
須田周二は、ドアノブに手を掛けた瞬間に嫌な予感がした。郊外の古びたアパートのドアノブに違和感を感じた訳では無く。ドアの奥にある異臭の原因に嘔吐感に似た不快な何かを感じた。生物が腐り果てた悪臭。鼻を突く刺激臭を通り越した、粘るような腐敗臭。鼻腔から侵入して気管全てにコールタールのように絡み付く。
「どうした、代わるか?」
後方に立つ上司の飯野潤一が、気乗りしない顔を向けている。
「大丈夫です」
須田は短く返してドアノブを捻る。僅かに開いたドアが、強く抵抗するようにピタリと動きを止める。ドア枠から延びているチェーンが須田の視界に入る。
「ドアチェーンか、どけ」
細く頼りないチェーンが強く引き付けるドアノブを握り締めた須田を押し退けて、準備していた大きな工具をドアの隙間に差し込む飯野。
「大丈夫です。届けを出してもらえれば、修理は出来ますから」
飯野が自分達の後ろで不安そうに見詰める初老の管理人に背中で訴える。そして、そのままドアチェーンを切断する。
「飯野さん……これ、ヤバくないですか……」
ドアを全開にした瞬間に、閉じ込められていた臭気が一気に溢れ出して須田は思わず呟いた。
警告は事前に散々出している。書類や各方面への根回しも完璧に押さえてある。後は保護すべき児童が生存していれば全てが上手くいく。生きてさえいれば対処の方法は幾らでもある。逆に、どんな形であれ保護対象者が死亡していた場合は、一番に槍玉にあげられるのは自分達(要保護児童対策地域協議会の末端職員)で間違いない。いつでも責め立てられるのは末端で現場に立つ人間だ。公的権限を殆ど有しない機関が強制的な行動を取る事の難しさを枠外の人間は知らない。知らなくても分かりやすい批難の対象者を欲しがる。世論とはつまりそんな圧力だ。それを理解しているからこそ、国は公の機関を守るために緩衝材としての自分達を利用し続ける。須田は歯痒さに苛立ちながらハンカチで鼻を押さえた。
「是枝さん? 入りますよ? 入りますよ」
ドアを抉じ開ける前に散々呼び掛けて、返事が無い事を確信しているのに呼び掛け続けるのは、恐怖に思考が凍りついてしまわないようにするためかも知れない。須田は玄関まで散乱している塵の山を靴先で押し除けた。
「是枝さん。失礼しますね」
言いながら靴のまま玄関と繋がるキッチンに踏み込む。食べ掛けのカップ麺。コンビニ弁当の容器。キッチンシンクから溢れるようにして床に散乱する全てのものから異臭が立ち込めている気がする。
「是枝さん……」
須田は、もう一度呟いた。意識していても侵入してくる臭気に内蔵のどこかが強烈に収縮するのを感じる。直後に、胃の辺りが熱く滲むような痛みを発する。それでもキッチンを区切る磨りガラスの引き戸まで進んで取手に手を掛ける。踏み込んだ瞬間のキッチンの熱気が玄関ドアから放出されて、代わりに新しい空気が流れ込んでいるのを首筋に感じる。
「是枝さん……」
物音はしないが、ガラス戸の向こうでテレビが何かを映し出している気配がする。
須田は勢い良く引き戸を引いた。
② そこにある
須田梨佳は寝室の鏡台に写る自分の顔を見詰めて小さくタメ息を吐いた。結婚してからの自分を思い返す。電話口で、倦怠期と笑い飛ばす亜樹は結婚生活に置いて数年分の先輩になる。
「たまには、ガス抜きが必要なのよ。七年も旦那だけを見ていたんだから二、三回位の食事なら浮気には成らないよ」
梨佳は、亜樹の声に好奇に似たものを感じていても、それを明確に批難できない自分を鏡の中で睨み付ける。絶頂期を過ぎた美貌。誰かに指摘されなくても理解している倦怠感のような老い。日毎、目許に、口許に、抗う事の出来ない印が刻み込まれていく。そんな、一番近くにいる夫でさえ気が付かない疲弊に、新藤秀は優しく触れて包み込む。逢う度に強がる自分を弱くする。「綺麗だ」と囁かれる度に自分の内側に築いた防波堤が僅かずつ浸食される。親友も知らない逢瀬を重ねれば重ねる程に、肉体的な繋がりを自ら欲している事を無視できなくなる。
「瑠璃がいるから頻繁には無理だよ」
「大丈夫。瑠璃ちゃんは私が見るから。それに、女は優しくされないと直ぐに枯れてしまうのよ? 旦那さんが、梨佳を追い詰めてるのよ。それを分からせてやらないと何時までも言葉の暴力は無くならないよ?」
新藤と引き合わせてくれたのは亜樹だった。夫の愚痴を互いに言い合うようになってから直ぐの事だ。夫の再就職で地方に来た人見知りの自分に、同じマンションに住んでいた亜樹が色々な事を教えてくれた。出会った切っ掛けは覚えていない。朝のごみ出しの時だったかも知れないし、近所のスーパーで買い物をしている時だったかも知れない。ただ、亜樹が何度も話し掛けて来て、ランチに出掛けるようになり。互いの中にある鬱憤を少しずつ話せるようになり。亜樹が引っ越しをしてから、やっと自分は心を開いて全てを話せるようになったのを覚えている。目の前にある優しさに人は弱い。心の強度は保てない。時間が掛かったとしてもいつか必ず溶けて滲み出す。時間が多く費やされればされる程に、溢れ出したものの中に人目に晒せないものが含まれていて当然だ。
梨佳は新藤から貰ったピアスを耳に当てて首を振る。胸元の大きく開いた服には合わない。そこまで考えて背徳感に胸の奥で何かが痛む。不確かな場所で確かに痛む。そこにある、目には見えない確かなものが疼いて自分が立つべき場所を混濁とした純粋で無いものと摩り替える。
「大丈夫だよ」
所在なく呟く亜紀の声に頷いて、梨佳はオウム返しに答える。
「大丈夫だよね……」
③ 蜜
質問の度に変わる今までと違う間合いが、少しずつ須田周二の気持ちを苛つかせたていた。
「誰に、会ってたんだよ……」
「だから、亜樹さんだって言ったでしょ? 何度も、何度も。しつこい!」
尖った声で答える梨佳に苛立ちが更に増す。須田はキッチンに置かれたテーブルの上で両手を握り締める。冷めた夕飯。ラップの掛かったままで温められる気配も無いままに並べられた白い皿。スーパーの惣菜コーナーから選り取られた筈の料理。眺めている内にあからさまに蔑ろにされている自分を強烈に理解する。胸の辺りにある内蔵が捻れるような痛みと苛立ちを感じる。堪らずテーブルを拳で殴り付けた。
「男か? お前、浮気してるのか?」
須田が踏み込んだ部屋の中に放置されていたのは自分の娘なのか……
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