Chaper1:偽りの《楽園》
Episode1:はじまりの《日常》
2388年5月25日(水)7:20A.M. 《エデン》第13居住区・ニューアシヤ
「あれが宇宙客船グレート・アルゴ号か。《エデン》は周航コースに入ってないはずなのに、珍しいな……。」
港を臨む坂の上に建つ、30階建ての高層マンションの一室。そこから紺のブレザーを纏い、左手に革製の手袋をした金髪の少年が、自分の顔より大きな双眼鏡を目に当て、熱心に港の方を覗いている。遥か港を見つめる少年の眼に映るのは、今にも《エデン》の大海原に着水しようとしている、火星~グリーゼ581c間を周航する豪華宇宙客船、グレート・アルゴ号の姿だった。この惑星では滅多に見られない豪華客船の、あまりに壮大で華麗な装飾に見とれている少年は、ベランダの柵にその小柄な上半身をすべて乗り出しており、今にも落ちやしないかというような体勢である。
少年は双眼鏡を眼から外し、前のめりの状態から身体を起こしていく。双眼鏡で隠されていた少年の眼は、《エデン》の海よりも青く透き通り、どこまでも真っすぐな瞳をしている。両手で包めてしまうほど小さな顔に、大きな瞳と、小さな鼻と口。ヒゲもニキビもない艶やかな素肌をした少年の顔は、女の子と見間違う程の綺麗な顔立ちをしている。
「この惑星に寄港したのは、燃料か物資の補給が目的だろうか。それとも何かトラブルがあったのか。――見た感じ、ジェットエンジンも主翼も故障していないように見えたけど――ひょっとして、どこかのセレブが権力を使って、船長に命令して《エデン》に立ち寄らせた、とか……?」
本来この惑星に来るはずのないグレート・アルゴ号が《エデン》を訪れた理由について、少年があれこれ妄想を広げていると、
「光ーっ。朝ごはんの時間よー。」
母親の呼ぶ声が、キッチンの方から木霊する。その呼びかけに反応して、
「はーい。今行くー。」
と、少年は双眼鏡を机に置き部屋を出て、リビングに繋がる廊下を進んでいく。
この少年、望月光のいつもの朝は、港に停泊する宇宙船観察から始まっていた。
「おはよう、光。今朝も宇宙船観察?」
スーツにエプロンという妙な出で立ちをした母親の
「うん。グレート・アルゴ号が着水するところを見ていたんだ。普段は写真とかでしか見たことなかったけれど、まさか《エデン》にいながら実物を見れるなんて思わなかったよ。」
光は制服のネクタイをいじりながらゆっくりと椅子に腰かける。光の目の前にクロワッサンサンドと一杯のコーヒーを置いた燈は、幼い頃の我が子の姿を思い出していた。
「ほんと小さい頃から変わらないわね。その趣味。」
「まあね。」
望月家は、母の燈と息子の光の二人暮らし、いわゆる母子家庭である。光は第13居住区内の区立高校に通う高校生、燈はUGEの専門機関で働く職員である。燈はこのニューアシヤ地区から30km離れた第5居住区・ノイエミュンヘンで働いており、本来ならばこの時間には既に家を出て居なければならないのだが、学校へ行く光をいつも元気で見送りたいという想いから、すぐに出勤できる準備だけしておいて光の朝食を毎日作っているのである。
光は角砂糖2つをコーヒーに入れ、火傷しないよう慎重にふーふーと息を吹きかけている。ふと燈が、思い出したかのように口にする。
「――光、今も《地球》に行きたいって気持ちはある?」
「もちろん!」光は即答した。「だって僕のお父さんが、地球にいるんでしょ?」
「ええ、そうね……。」光の問いかけに、燈は少し間を置いて返答した。
まだ一般人の入植が始まる前の2368年、UGEの意向で《エデン》に赴いた燈は、そこで光の父親と知り合い、約3年の交際を経て2371年に二人は結婚した。光が産まれたのは、二人の結婚の翌年のことである。「お父さんはね、光がお腹の中にいる時、ずうっと光のそばにいてくれたんだよ。」という燈の話を、光は何度も聞き入った。燈の話によれば、父親は大変子煩悩だったらしく、仕事の合間を縫っては光に会い一緒に遊び、光が風邪を引いたという連絡があれば、仕事そっちのけですぐに飛んできて看病してくれたという。だが2377年のクリスマスの日、父親は
だからこそ光は《地球》に行き、そんなにも自分を愛してくれていた父親に再会するという夢を抱き続けているのである。光が宇宙船観察という趣味を5歳の頃から続けているのは、半分は《地球》を含めた他の植民星への憧れからだが、もう半分は、あの宇宙船に自分の父親が乗っているのかもしれない、という淡い期待によるものである。
「僕はずうっと《エデン》の港に泊まる船を観察してきたけれど、《地球》を周航している船は、ほんのわずか。その中でも特に、《エデン》と《地球》を直通で繋ぐ船は、たったの一艇しかない。『宇宙船ノアーズ・アーク号』。僕は絶対にそれに乗って地球へ行き、もう一度お父さんに会うんだ!」
左の拳を胸のあたりでぐっと握りしめ、光は自らの夢を高らかに叫んだ。燈は再び昔の光を思い出し、フフッと微笑みながら、
「――ほんと、光は小さい頃から何も変わらないわね。夢も好みも、“身長”も。」
自分の変わらないものの中に“身長”というワードが入っていることに引っかかった光は、必死に弁明しようとする。
「いやいや、身長は伸びてるから?!こないだ測ったら155センチあったんだよ?!去年から1センチ伸びたんだよ?!」
「たった1センチ……ププッ、かわいいwwwまるで女の子じゃーんwwwアハハハハ!!」
「わっ、笑うなああああ!!すっごく気にしてるんだからああああ!!」
立ち上がって抗議する光の顔が赤くなっているのを見て、燈は更に腹を抱えて笑い転げた。光は呆れた表情でどすっと椅子に戻り、程よく冷めたコーヒーを一口すする。まだゲラゲラ笑っている燈を無視して、光はふと部屋の隅にあるテレビの画面に目を向けた。
「本日未明、第13居住区にて原生生物“レリギオス”が出現し、付近の公園の街灯が倒れるなどの被害が出ました。UGEの調べによりますと、レリギオスはコウゴエン駅近くの路地裏で発見され、発見されるや否や、鎌鼬を起こすなどの攻撃を行ったということです。現在UGEによる懸命な駆除作戦が行われていますが、一体のレリギオスがなおも逃走中であり――」
ニュースは光の住む居住区内で起きた、原生生物レリギオス出現の騒動を伝えるものだった。ニュースの画面に映し出された公園は、光の通う高校の近くにあるもので、光も時折訪れていた場所だった。
「レリギオス――最近よく発見されているけれど、この第13居住区にまで現れるようになったなんて――」
レリギオスとは、人類が《エデン》に上陸する前から生息していた、原生生物の名称である。その特徴としては、火を吹く、鎌鼬を起こす、地震を起こす、水を操る――など、レリギオスには、いわゆる《魔法》にも似た超自然的な能力を持つことが公に知られている。人類の《エデン》上陸から入植開始まで10年の月日を要したのは、この強力な力を持つレリギオスの駆除に苦戦を強いられていたからに他ならない。だが、肝心の外見に関する情報は、UGEの一部の人間しか知らない機密事項となっており、一般には公開されていない。ゆえに一般人でレリギオスを見たという者はこれまで報告されていない。
――という知識を思い出した光は、笑い疲れてむせている燈に問いかける。
「ねえお母さん。レリギオスってどんな姿しているのか知ってる?お母さんがUGEの職員なら、知ってるかなって思って。」
それを聞いた燈は、一息飲んで呼吸を整えてから、質問に答えた。
「げほっ……そうね……違う機関の人から聞いた噂話だと、それは翼の生えたドラゴンのようだとか、頑丈な顎を持つ巨大な昆虫のようだとか、はたまたスライムみたいな不定形の生命体だとか――とにかく色々な説があるけれど、どれが事実かは私にも全くわからないわ。」
軽々とレリギオスの目撃証言らしいことを口にする燈。あれ、機密事項じゃなかったのか?と、光は少し戸惑った。光は慌てて問いただす。
「え?いいの?それUGEの機密なんじゃ――」
「これらはあくまで『説』だから。どれが本当か分からないんじゃ、事実を言っていないのと一緒よ。」
もっともらしくも、もっともではないようなことを言ってのける燈。光はそれにしぶしぶ納得せざるを得なかった。さらに燈の口が開く。
「ま、私の理想としては、レリギオスは私たち人間みたいな姿であってほしいかな。リトル・グレイみたいなのでもいいけど、案外私たちとあんまり変わらない外見だったりして!……なんてね。」
ドラゴン説、巨大昆虫説、スライム説に続いて、ここにきて燈は『レリギオス人型説』を提唱した(厳密にいえば『説』などではなく単なる『願望』だが――)。でもって根拠も証拠も何もない燈の話を聞いた光の脳内には、ただただ謎しか残らなかった。とりあえず光は、テーブルに置かれたままのクロワッサンサンドを思い出し、右手で手に取り頬張ることにした。
「おっと、もうこんな時間。私そろそろ出かけなきゃ。」
気が付けば時計の針は、7時35分を指していた。燈は冷蔵庫の脇に置いてあった自分の鞄を担ぎ、そのまま玄関の方へ――
「あ、いけない。忘れてた!」
と思ったら、燈はいきなり回れ右をして、光の傍まで歩いてくる。燈は、椅子に座り香ばしく焼けたクロワッサンをもぐもぐしている光の左側に立ち、ただテーブルの上に置かれたままの光の左手をそっと持ち上げる。そして光の左手を覆っていたグローブをすっと外し、彼の左手の白い地肌と、幾何学的な模様をした黒い痣を露にさせた。
「今日もこの、《希望の痣》のご加護があります様に。」
そう言って燈は、光の左手に優しくキスをする。ここまでの一連の燈の行為に、光は特に抵抗の意志や恥じらいの気持ちなどを生じさせてはいなかった。これは光が幼い頃から続いてきた、いわば望月家の毎朝の習慣とも言える行為であり、燈にとっては験担ぎの意味も込められている。燈がその《希望の痣》から唇を放した時、痣が一瞬青色に煌いた。既にテレビでは朝の星占いのコーナーが始まっていた。
「今日の第1位は……おめでとうございます!“おとめ座”の貴方です!!仕事がスムーズに捗る日。思いがけない幸運が舞い降りるかもしれませんよ?」
「あら、
燈は前に屈んだ身体を起こし、ようやく仕事へと向かう体勢を整える。
「じゃあね、光。学校がんばってね。」
「うん。お母さんも気をつけて。」
振り返って手を振りながらドアの向こうへ消えていく燈の姿を、光は軽く微笑んで見送った。それから5分後、クロワッサンサンドの香ばしさと、コーヒーの芳醇な味わいを堪能し終えた光は、先ほど燈に外されたグローブを左手にはめ直し、更に右手には腕時計?のような装置を取り付け、リュックを背負い玄関に向かって歩き出した。
望月家の何気ない朝は、この日もいつも通りに存在していた。
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