黒猫のみぞ知る

神條 月詞

ある日のこと。



 長く続いていた冬がようやく去り、そよぐ風にもどこかあたたかさが混じってきた。ぽつぽつと芽吹き始めた大地には、太陽が光の肥料を蒔く。

 市街地からは随分と遠い、高い塀に囲まれたこの場所にも春は顔を覗かせていた。真新しい白い建物の前にある広い庭では、幾人かが思い思いに過ごしている。

「先生、あの女性は何をしているのですか。夏でもないのに日傘を差して、やけに着込んでいますね」

「ああ、彼女はね、自分はヴァンパイアだと思っているんですよ。陽射しに当たると灰になってしまう、とね。だからあんなにも重ね着をしているのです」

「なるほど、ではあちらの、指で輪を作ってじっとしている男性は」

「あの男は、精神統一をすると指の輪がレンズになると思い込んでいるのです。日光を集めて火をつけようと考えているんじゃないでしょうかね」

 精神科の病棟に配属された新米医師は、建物の中から庭を眺めつつ、院長の話を興味深く聞いていた。精神を患った者が隔離されるこの施設に、かねてより勤務したいと思っていたのだ。

「彼らはそれぞれ、自分の夢を持っています。メディアに流され、皆同じように泣いたり、笑ったり、怒ったりして日々を過ごしているような人たちとは違いますよ」

 そんな院長の言葉に、医師は頷く。

「そうなのですね……ひとりひとりにお話を伺いたいのですが、よろしいですか?」

「ええ、構いませんよ。ただ、中には少し気難しい人もいますから、気を付けて。下手に逆らったり話を遮ったりすると口をきいてくれなくなりますからね」

「わかりました」

 庭に出ようとした医師は、ふと頭をよぎった疑問を口にした。

「先生、まさかとは思いますが、殺人狂なんて患者さんはいないですよね?」

「ああ、それはご心配なく。彼らは自分たちの作り上げた世界を信じはしますが、それ以外の点においては善良そのものですから。私は仕事に戻りますので、患者さんたちのお相手を頼みましたよ」

 院長がその場を立ち去ると、医師は今度こそ庭に出た。未来が視えると言う女性、何者かに追われていると思っている男性、雑草から秘薬を作ると言う女性。さまざまな世界を渡り歩き、次に話しかけたのは一心に穴を掘る男性だった。

「こんにちは。今日もいいお天気ですね」

 声をかけられた男性は、古ぼけたマントを羽織り、紙で作ったおとぎ話に出てくる海賊船の船長のような帽子を被っていた。

「やあ、お若い方。新しく入られたのですかな。よろしくお願いしますよ」

 穴の中から仰ぎ見て返事をした男性に、医師は自分は医者だと言い返そうとしたが、院長の「下手に逆らうな」という言葉を思い出して踏みとどまった。

「こちらこそ、よろしくお願いします。ところでこれは、なんの穴ですか?」

「なんだと思いますか」

 男性は穴から出てくると、小さく山になっている土のそばでぱんぱんと手をはたいて、言う。

「なんでしょう……ここから外に出るための穴ですか?」

「ここから出る? どうしてです」

 医師が聞くと、男性は不思議そうに首を傾げた。

「それでは、へびを探しているのですか?」

「まさか、へびなんて探してどうするというんです。それに、こんなところにへびはいませんよ」

「ああ……そうですね」

 医師は面食らったような顔をして、誤魔化すように咳払いをすると先ほどまで男性が持っていたシャベルを手に穴に入った。

「お一人で穴を掘り続けるのはくたびれるでしょう。僕もお手伝いしますよ」

 その台詞に気をよくしたのか、穴の縁近くに腰を下ろした男性はにこにこと話し始める。

「これは誰にも内緒の話なんですが……実はですね、ダイヤモンドを掘り当てようと思いまして」

「それはまた、素敵なお話ですね」

 シャベルで土を掘りながら、男性の機嫌を損ねないようにと医師は言葉を発する。

「いまの世の中、よくも悪くも他人から金を巻き上げることばかりを考える人が多いような気がしますね。そこで私は考えました。何か別の方法はないものか、と」

「なるほど」

「私は海賊船の船長となり、黒猫とともに宝探しの旅に出ようとしたのですが、いつの間にかここに連れてこられましてね」

「つまり宝のありかを示した地図に、ここがその場所だとあったわけですね?」

「いえ、地図ではありません。実は昨夜、この黒猫が教えてくれたんですよ」

「……どの猫ですって?」

 医師は、少し深くなった穴の中から尋ねた。

「こいつですよ。足元でじゃれている、この黒猫です」

 けれど男性の足元には何もいない。思わず苦く笑った医師は、土を掘っていたシャベルを地面に突き立てると男性の話を聞こうと上を向く。

 男性はそんな彼の様子などお構いなしに、嬉しそうに目を細めた。

「どうです、可愛いでしょう。賢くて、よくなついてくれて、自慢の相棒ですよ」

「ええ、素敵な黒猫ですね」

 医師は、大げさな身振りで応える。

「この瞳を見てください」

「まるで宝石のようですね。とても賢そうだ」

「毛並みも素晴らしいでしょう」

「よく手入れしているのですね。艶があって、本当に美しい」

 愛想よく、逆らわないように、医師は盛んに相槌を打った。

「……あなたには、見えるんですね」

「もちろんですよ。誰か見えないと言う方がいらっしゃるのですか?」

 男性はどこか寂しそうにしながら説明する。

「残念ながら、私のこの可愛い相棒を見えないと言う人が多くて困っていたところなんです。穴を掘っていれば、そのうちに認めてくれる人が出てくるんじゃないかと思っていたわけですが、本当にあなたが現れてくれました。こんなに嬉しいことはありませんよ」

「そうだったのですね」

 医師は穴の外にシャベルを放り上げると、着ていた白衣のポケットから小さなデジタルカメラを取り出そうとうつむいた。

「あなたと黒猫との写真をお撮りしましょう。ところで、その子は男の子ですか、それとも女の子ですか?」

 彼の問いかけに対して返ってきたのは、答えではなく土の塊。

「すみません、土が落ちてきましたよ」

 上に向かって声を張り上げようとした口の中にも、それを吐き出そうとしてかがんだ背中にも、土は容赦なくなだれ込んでくる。隙間から覗く青空と白い雲が、医師の見たさいごの色だった。

 やがて、地面を綺麗にならし終えた男性はその場にしゃがみ込むと黒猫に話しかける。

「なあ、お前は『自分の存在を認めてくれる者を埋めておけば、一年後にはダイヤモンドに変わる』と、そう教えてくれたよな。嘘じゃないんだろうな? まさか自分から埋まってみるわけにもいかないし困っていたんだが、ちょうどよかった」

 他の患者たちは、男性の独り言など気にもとめず、風が冷たくなり始めた春の夕暮れの庭で、それぞれの世界に浸っていた。


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