第4話 キョウチョウ
フィリピンでの出張は、思いのほか順調で、3日で帰国することに現地マネージャーから特に意見はなかった。期間中は、実家に戻っている沙希に頻繁には連絡をした。田舎に居るから心配しなくても大丈夫だよと言ってくれたが、犯人は実家までも知っている気がしてならなかった。さもすると、今俺が海外にいることも筒抜けなのではないかと勘繰った。
沙希の実家は、長野県の諏訪湖周辺で、奇祭と呼ばれる『御柱』や、花火大会が有名な場所だ。
実家は、蔵付きで庭に大きな松があるのが印象的だった。富豪の娘かと沙希に尋ねたこともあったが、田舎の古い家はこんなもんだとあっさり言われた。東京多摩の団地で育った俺にとっては、考えられなかった。
沙希の実家には、今は親父さんしかいない。お袋さんは、沙希が高校生の時に病死していた。俺も、遺影の優しい顔しか見たことがない。親父さんは、今年で65歳だが会社役員を続けており、年老いた印象はまるで感じない。会社に上司として居たとしても違和感がないほどだ。結婚の報告に行った時も、会社面接のように張り詰めた空気だったのを覚えている。結婚自体には反対していなかったが、一人娘の沙希には田舎に戻ってきてほしいと、酒の席で漏らしたことがある。
沙希は、高校卒業後、東京の美術専門学校に入った。描くことが得意な絵を使って、デザイナーになることが当時の夢だったという。しかし都会の生活を初めて体験した沙希は、遊びに夢中になった。デザインの勉強も疎かになり、卒業したものの仕事に活かせる技術は身に付かなかったらしい。それでも、今でも時々スケッチブックを取り出しては、デッサンをしたり、空想の風景を描いているのを見たことがある。絵心のない俺は、上手だとは思ったが何がどう上手なのかは、説明もできない。何だか優しい絵という印象が強い。で結局、デザイナーの仕事をあきらめた沙希は、いくつかのバイトを経て、派遣会社に身を置いた。専門学校を卒業したら田舎に戻ると約束していたらしいが、都会の暮らしが楽しくて仕方なかった沙希は、特に了承も得ず東京に留まった。
結婚してから、盆は沙希の実家に帰省するようにしているが、多いとは言えない。
だから、今回実家に帰ることを伝えたら、真っ先に離婚を疑われたと沙希は話していた。
あの事件から3週間が経過した
沙希は幾分痩せていたが、血色は良く以前よりは睡眠も取れているようだ。『狂喜の蝶』なる犯人からも
その後、何も連絡はない。幾度か沙希にメールが来ていないか尋ねたが、来たら教えると言った。
赤羽刑事からは、出張中も含め3回電話があったようだが、犯人が見つかったという報告ではなく、
その後変わりはないかと心配してくれただけだったらしい。
事件から時間が経ったこともあり、少しばかり『平穏』を取り戻しつつあった。だが、夫婦としての夜の営みは全くする気になれなかった。汚れた女だから抱かないのだと沙希が思わないかが心配であったが、事実俺も手を出す気にはなれなかった。
街路樹には色着く葉が目立ちはじていた。ここのところ風邪気味だった俺は、スーツの下に、半そでの値ヒート何とかを着ていた。会社に着くと、中西が今夜飲みに行かないかと誘ってきた。沙希に、メールすると
〈〈私も、友達と外食してくるからいいよ〉〉
と返事がきた。それでも、9時には帰ると返した。
中西とは、駅前の居酒屋でビールを頼んだ。
『レンちゃん最近タバコ吸わないじゃん。まさか禁煙?』
その問いで、自分も気がついた。いつの間にか吸わなくなっていた。高校の時にタバコを覚えて依頼、20絵年間欠かさず毎日吸っていた。30歳を過ぎてかは、1日2箱ペースだった。
「吸うの忘れてた」
『忘れてた?そんなことあるんだ』
中西は喉を鳴らしてビールを飲んだ。
『レンちゃんはここのところ大変だったもんね。嫁さんはどうよ』
「前よりは、元気になった気がするな。でも正直なところ今沙希がどんな気持ちでいるのか。分からないんだ」
鶏の笹身に梅ダレが塗られた串が運ばれてきた。
『でも何となくわかるな。だって嫁さんに具合どう?とか気分どう?って聞く度に嫁さんはあの事を想いだすんだもんね。だから、雰囲気で察するしかなくて、それを読むのが苦手なのが男・・・だもんね』
本当に中西は勘がいい。俺が言おうとしたそのままを言う。ただ、梅ダレが中西の口の横に付いていることには気が付かないらしい。
『犯人って、まだ全然なの?』
「ああ、どうも相当ネット関係は詳しい連中みだいだ。だから俺がプリペイド携帯で探りを入れていたこともばれて、例の脅しにあった」
中西には、プリペイド携帯に犯人から電話が掛かってきた件を話してあった。
『何か、ごめんね。俺が変な提案しちゃったから』
「いや、俺もいける気がしてたから仕方ないよ」
『・・・・でさ』
中西の表情が曇った。中西はタバコに火を着け吐き出した煙を見ながら、思い出したように俺にタバコを勧めてきた。俺は手で要らないと止めた。
『俺結構責任感じててさ、もし俺が言った方法でレンちゃんに何かあったら、それこそ申し訳ないなって思ってさ』
「だからいいって、実行したのは俺なんだし。その後は特に音沙汰もないし」
『俺も調べたんだ』
「何を?」
『何をって、その・・狂喜の蝶を』
「えっ?それで何かわかったのか?」
『わかったっていうか、その・・・・』
「そのなんだよ」
中西は、伏せ目がちにタバコをふかす。
『別に、そいうあれじゃないんだけど・・怒るなよ』
「怒るなよ。何を怒るんだ」
はっとした。まさかあの点滅するNEWの文字を開いたのか。店の空気が、タバコのせいか淀んで見えた。
『見ちゃったんだ・・・違う、何かNEWって時が点滅してて、まさかクリックできると思わなかったから、その・・・でもすぐ消したよ』
「・・・見てんじゃねえよ・・・」
『えっ』
「見てんじゃねえよ!」
俺は中西の襟を掴んでいた。周囲の客も店員もこちらに注目していた。
『ごめん。違うんだよレンちゃん』
「何が違うんだよ!」
俺は椅子から中西を持上げた。
『協力したかったんだよ』
店員が割り込んできた。他の客に迷惑だとか言っていた。中西を椅子に叩きつけるように座らせて、店を出た。背中で、
『レンちゃん違う!レンちゃん違うんだって!』
と連呼している中西の声が聞こえた。沙希の身体を何人もの男が汚い涎を垂らして閲覧している光景が脳裏に浮かび、その中の1人に中西がいたことがショックでもあり、事実であることに対して怒りが抑えられなかった。
コンビニで忘れていたタバコを買い、駅近くの公園のベンチに腰を降ろした。一緒に買った缶コーヒーをあけ、タバコに火をつけた。久しぶりのタバコに、毛細血管がざわめき眩暈という反抗をしてくる。同時に喉に訪れる違和感をコーヒーで落ち着かせる。冷静さを取り戻した俺は、中西が来るのではないとあたりを見回していた。公園の脇から、いかにも柄の悪い若者が3人入ってくるのが見えた。彼らも、揃ってタバコに火をつけて、少し離れたベンチに座った。電燈に照らされた、グシャグシャ頭に髭を生やした男の言葉に俺は硬直した。
「あの先公マジでむかつくわ。平野だって遅れてきたのに、何で俺だけ遅刻にするんだよ!ちょっとキレイだからって調子に乗ってんだよな」
『でも、マジでかわいくね・俺やりてーもん』
小柄だが胸板の厚い男が言った。
「でも、結構年くってんぜ。30近いだろ」
『あっ俺全然あり!』
「馬鹿!ああいう奴は、キョウチョウ様にお願いした方がいいのよ」
『キョウチョウって何よ』
「知らね~の?犯し屋だよ」
『オカシ屋?駄菓子屋みたいな?』
「がはっはっ!面白いそれ!ちげ~よ。女を犯すの、犯す。分かる?狂喜の蝶だから略してキョウチョウよ」
『そういうこと?な~んだ。じゃそこに頼も。いつにする?』
「ちょっといいかな?」
俺は、自分でも知らぬ間に若者に近づいていた。
『あ~ん?』
グシャグシャ頭が凄んで見せる。
「今君たちが話していた狂喜の蝶のことを教えてくれないか?」
『なんだおっさんもヤッちまいたい女がいるのか?』
胸板男が、どんな女か聞いてきたが、それは無視してグシャグシャ頭に聞いた。
「ネットで依頼することはわかったんだが、出来れば直接会ってはなしたいんだ」
『直接会う?はっはっそりゃあ無理でしょ。』
「どうしても会う必要があるんだ!」
『なんで?まさかおっさんサツじゃねえよな?』
「違う、俺もその仕事をしたい」
嘘にしても、その嘘に吐き気がした
『そっち~~~はっはっ』
他の2人も笑っていた。
「何か知っているなら、頼む!」
『頼むとか言われてもな~それじゃ誠意が見えないな~』
「セイイ?・・誠意か、わかった教えてくれたら、金をやるよ」
『先によこせや』
俺は財布から2万出して、グシャグシャ頭に渡した。
『俺も聞いた話だから、本当かどうかは知らね~よ』
「構わない、頼む」
『狂喜の蝶は、2人でやってるらしい。1人は実行役で、1人はITオタク。ITオタクは、依頼を受けたり、金をもらったり、その後メンドーな事にならないように、まあ頭脳ってところかな。で、実行役は、それを遂行するだけ、まあ猿だな』
「1人が頭脳で、1人が猿って」
今まで口を開かなかった茶髪の男が笑う。
『基本的には、1回きりっていう決まりがあるみだいだけど、その1回は絶対にミスしないし、絶対に捕まらない。だからネット上では結構有名で、依頼は耐えないらしいわ。だからおっさん丁度いいんじゃね人足らないみたいだし、まあおっさんが猿ならね』
「おっさん、猿?猿?」
胸板男が口を挟む、
「ネット上で有名と言っていたが、狂喜の蝶で検索しても対した書き込みは見つからなかったんだが」
『あっ、そりゃ出ねーよ。だからキョウチョウ様だって言ったでしょ。キョウチョウ様で検索すりゃいいんだよ』
「君は、そいつらを知ってるのか?」
『知らね~よ。俺は、知り合いから聞いただけだ』
「会いたいんだ!そいつらに」
『おっさんよ~』
「教えてくれるなら、もう少し渡してもいい」
『まぢで!あと3万くれる?』
「あと1万なら今渡せる」
『うわ~、折角借金帳消しにできるかと思ったのにな。まあ明日パチンコで増やせばいいか』
財布から最後の札を渡した。
『いいか、俺から聞いたなんて絶対に言うなよ』
お前の名前なぞ知らんと思ったが、頷いた。
『俺はITオタクの方しか知らね~んだけど、そいつ△×駅前のネットカフェの店員なんだ。店員っていっても、接客じゃなくて、裏でシステムの管理をしてるんだ。あのネットカフェはチェーン店だろ、全部の店の管理をしてるらしい』
「お前なんでそんな事知ってるんだ?」
茶髪が聞く。
『だって、小学校の同級生だもん。まあいじめられてて、学校は殆ど来てなかったし、中学も行ってないから、今会っても顔も良くわかんないけどな。そいつと唯一仲が良かった、同じいじめられ友達が、バイト先で一緒になってさ。んで聞いたわけ』
「名前も知っているのか?」
『知ってるよ。でもそれは教えない。2万足りないし』
「まっ待ってくれ、そこコンビにで下ろしてくるから、ここで待っててくれ」
それはそういうと、さっきタバコを買ったコンビニに走った。追加情報をあるかもしれないと思い、5万円下ろした。戻ろうと自動ドアが開いた時、
『レンちゃん』
と中西が店の前に、子犬のような目をして立っていた。
『コンビニに入っていくのが見えたからさ』
「もういいから」
中西を退けるように脇をすり抜けた。
『俺、嫁さんのは絶対見てないから』
一瞬俺は立ち止まったが、今は貴重な情報源を逃すまいと、公園に向かった。だが、若者3人の姿はなかった。
あの日以来、中西とは話をしていない。向こうも気まずいようで、一服サインは送って来ない。俺は公園以来またタバコをやめていたから自然と面と向かうタイミングもなかった。だが、中西のことは俺はとっくに許していた。
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