第二部18不比等
藤原鎌足という男がいた。
先帝葛城の懐刀と呼ばれた男だ。
そもそもそもは中臣の出で、ごく若い頃に蹴鞠を通じて先帝葛城の知遇を得、生涯を通じてその政を助けた。藤原という名は鎌足の功績と忠誠を嘉して葛城が授けたものだ。
ただ、藤原という家は今はない。
その名は鎌足に与えられたもので、中臣氏全てに許されたものではなかったからだ。嫡男ただ一人がその名を継ぐことを許されていたが、父の死の折にはまだ幼かった嫡男は、壬申の乱のごたごたで行方もわからなくなり、藤原という家は実質的には絶えてしまった。
「そう思っていたのだがな。」
神剣の話を知らせてきた舎人、田部史。
史書の編纂に携わっているこの男こそが藤原鎌足の嫡男、藤原不比等であったらしい。戦乱の禍を避けて親戚筋の田部氏に身を寄せ、そこで成人していたのだ。
大海人としても故藤原鎌足の嫡男という存在はすっかり意識から抜け落ちてしまっていただけに、虚をつかれた思いだった。
言われてみればなるほどと思える学識と教養の持ち主で、それ故に多安麻呂の推挙を受けて史書の筆耕の責任者となっている。
その史は安麻呂達が集めた情報の中から神剣にまつわる情報だけを拾い出し、大海人が知らなかった事件の全貌を見事に描き出した。
神剣の名は天叢雲剣。
草薙剣とも呼ばれるこの剣は、天孫降臨の折にもたらされたという三種の神器の一つだ。
熱田の社に祀られているはずの剣は、先帝葛城の即位の頃に新羅僧の手によって盗み出され、国外に持ち出されようとした。神剣をうまうまと盗まれた熱田は、当然その後を追ったが追いきれず、失われた神剣の写しを作って奉ることで、その場をしのいだ。
つまり大海人の即位の折に捧げられた神剣は、写しであったということになる。
見失われた神剣は、辛くも国外に持ち出されることは免れた。
神剣を盗み出した僧が乗った船が、難波沖で急な時化にあったからだ。かなり唐突で激しい時化であったようで、僧はこれこそ神剣の霊威かと恐れ、神剣を手放した。
手放された神剣は岸に流れ着き、そこで地元の民によって祀られるようになった。
ただ、神剣を今更手放しても神の怒りは解けなかったようだ。新羅僧の船はどうやら四国沖で沈んだらしい。外海側で沈んだのは、内海から大陸側に抜ける関を通るのを避けようとしての事だったのではないか。ただ、時化で傷ついた船に外海の波は厳しかったに違いない。
神剣にはすでに見張りをつけてある。最近、不調を自覚している大海人としてはできるだけ手早く事を収めてしまいたいが、焦っては事を仕損じる。
そう思って、大海人は少し可笑しくなった。
焦るな、慌てるな。
そう、自分に言い聞かせてばかりだと思う。
即位の前の戦こそ果断に動いたが、それ以来の帝位にある年月は、只々堪え、待つ日々だったように思う。それでも焦れば事を仕損じると思えば、結局他にどうしようもない。
国を導くという仕事に失敗は許されないのだ。
それに、神剣を大切に守ってくれた人々に荒っぽいことはしたくない。命令し、取り上げることは容易いが、そのような方法を取りたくはなかった。
大海人こそが神剣の正当な所有者であり
安麻呂と阿礼が熊野の伝承を一通り集め、都へと戻る頃には、すでに年が変わっていた。ちょうど難波宮の焼失の直後で、続く凶事に都は浮足立っていた。大地震の揺り返しか、あれほど大きくはないものの、地震も続いている。
しかも御門のご健康に不安があるという。さすがに御門が祟られているとかいう噂が立ち始めていた。
祟っているものは噂によって違い、案の定、先帝や壬申の乱で倒れた者と言うのが一番多い。即位そのものを否定された大友皇子の名前はほとんど上らないのが不思議といえば不思議だった。
どういうわけだか「剣の祟り」などという話もある。
そんな状況でも、史のおかげで伝承の書き起こしは怠り無く進み少しづつ書物としての形に整いつつある。それでもまだまだ整わないところがあるのも当然の話で、安麻呂は阿礼といずれは出雲、九州へも赴かねばならないと話していた。全ての伝承の源は、どうも西にあるように思われたからだ。
実際、東征の物語があることでわかるように、天皇《すめらぎ》の一族は西から渡って来たらしい。ならば天孫が降臨したという場所も、西に行けばあるのだろう。
「それに、出雲はサキの一族の本貫の地だ。出来れば行ってみたい。」
阿礼にはそんな気持ちもあるらしかった。
そうは言ってもまず、淡路、四国、熊野と巡った成果をまとめる必要がある。特に四国はまだ史に見せられる程度にもまとまっておらず、安麻呂の荒い書付と阿礼の記憶をもとに書き起こしからしなければならない。
諸族を巡り伝承を集める内に、安麻呂は話を聞きながらはあまり細かく書きつけない方がいい事を学んだ。
伝承はどの一族にとっても大切なものだ。それを文字という伝来の、見慣れない代物で不躾に書き付ければ警戒される。そうでなくとも話をする者は、ただ熱心に話に耳を傾けられる事を好むものだ。話の流れるままに話せるのでなければ、誰が快く話してくれるだろう。
節回しや声の高低にも決まりがあることも多く、猿女のように歌うことも珍しくない。
だから安麻呂は、その場では簡単に一言二言を書くだけになった。細部は阿礼の記憶頼みだ。阿礼はわかりやすい言葉で、何度でも書き取れるまで話してくれる。そうやって書き起こして初めて、史にも見せ、どうまとめるか検討することのできるようになるのだ。
幸い、この大地震の被害は出雲や九州には及んでいない。ここまでを一応まとめてからの出発でも、間に合うのではないかと思えた。
すでにいくつか形になりつつある物語もある。
中でも神剣の話は、安麻呂や阿礼をも驚かせた。
放出のタヅの話していた神剣は、熱田の剣だったらしい。様々な伝承や噂を継ぎ合わせて、真実を嗅ぎ出したのは史だ。熱田の神剣と言えばかつて伊勢の社に収められ、かの白鳥の皇子が振るった剣だ。代々の天皇の御代替わりに受け継がれる神器の一つでもある。それがまさか盗み出されていようなどとは思いもかけないことだった。
「御門は神剣を守ってくれた放出の民を慮り、どのように神剣の迎えを立てるかを思案なさっておられる。なんといっても熱田も隠していたことでもあるし、あまり大げさに賑々しくという形は避けたいご意向でな。」
川島皇子からそんな話を聞いたのは、清書作業の進む作業場でのことだった。
確かに難しい問題なのだろう。熱田の非をあまり大々的に鳴らしてもかえってこじれかねない。
「私がいきましょうか。」
ふと、阿礼が言った。
隣の部屋に物を取りに行こうとするようなさり気なさだ。
「いいかもしれませんね。放出の話を聴き込んで来たのは阿礼ですし。」
清書の手を止めて史が言う。
川島皇子が考える表情をした。
「そうだな…御門に申し上げて見るか。」
結局阿礼が行くことになった。
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