とある秋空の下
十笈ひび
第1話
青年はデニムシャツの最後のボタンをとめて、静かにロッカーを閉めた。
「もう慣れたか?」
傾いた椅子に大儀そうに腰掛け、缶ジュースを飲みながら先輩が言う。
「ええ」
青年は傍らにあったコートを腕に掛けた。
「ふぅ~ん。まだ三日目でな……」
「そりゃあ、先輩には全然及びませんよ」
申し訳なさそうに青年が頭を垂れた。ほころんだ口を無意識に隠そうとしたらしい。
「あったり前だっ!」
先輩は叫ぶと同時に、更衣室のドアの脇にあるゴミ箱めがけて缶を投げた。
ゴミ箱の角に当たって缶が跳ね返る。
苦い顔をする先輩。
「もう俺は一年近くなるんだぞっ! いい加減他のバイトを探せばいいってのによぅ……なんでかなぁ」
最後の言葉は青年には聞き取れなかったが、別に問い質したりはしない。
先輩は椅子の脚元に立てかけた鞄から眼鏡を取り出し、それをかけた。あがり症だから、ショーの時は眼鏡を外すのだという先輩。近視なので、観客席がぼやけてる方が演技に集中できるらしい。
「いいじゃないですか。楽しいですよ、このバイト。先輩に合ってるんですね、きっと」
青年は缶を拾ってちゃんとゴミ箱に入れる。
「おい……三日目のゴーセンシ・ブルー。さっきから偉そうなことばかり抜かしてるんじゃないよ!」
と、先輩は薄手のダウンジャケットを荒々しく羽織って立ち上がる。
――とある秋空の下。
今の季節にしては少しだけ肌寒い風が吹いている。立ち並ぶ、落葉した木々のイメージも寒さを感じさせる。銀杏並木の黄色だけがやけに鮮やかな色彩を見せていた。
土曜日の、午後の公園は子供が多い。
そこかしこで天使(?)の声はする。
「お前はバカだよ……。ほんっっとに、バカだ。大バカだな」
また始まった、と青年は思い、先輩が腰をおろしたベンチの隣でコホンと小さく咳払いをする。
「お前はアホだな。大アホだ……信じられん」
先輩は頭を抱える。
でも青年はその横でにこやかでいる。
「これで何度目だよ。街歩いててスカウトされたのさぁ」
「五回……ですかねぇ。それで先輩と一緒の時に声掛けられたのはその内の……二回、だったかな」
「違うぞ。三回目だぞ……」
「あ、そうでしたっけ?」
先輩は、少し遠くのフェンス越しでドッチボールをする子供達を睨み付けながら言う。
「名刺もかなりたまったろうが。どれもこれも大手プロダクションで申し分ないし……。あちらさんはバイト感覚で来てくれて構わんと言ってるんだぞっ! 洒落た服着てポーズとって、雑誌に載って、女の子にモテて……それでいて今のバイトの十倍の収入だっ! ……蹴るかぁ? 普通、こんなうまい話を蹴ったりするかぁ?」
先輩が青年に向いた。身を乗り出して青年を睨み付ける。ソバカス顔に、何の変哲もない銀縁眼鏡。その奥の細い目が、明らかに怒っているな、と思う。
「でも、そんなのって……話がうま過ぎて気味が悪いじゃないですか」
青年が言う。
先輩は青年から顔を背けてガクリと肩を落す。
「不相応ってのがあるんだよ。それはそういう奴の台詞なの! お前がそういうこと言うと、俺に対しての嫌味にしか聞こえないんだ!」
先輩の言い方はほぼ叫びに近い。
青年はコートのポケットに両手を入れて、仰け反るようにしてベンチに深く腰掛ける。
「べつに、いいじゃないですか、他人のうまい話なんかどうだって。それに、そんなお金があっても、僕の財布には不相応というものです」
青年は背凭れに頭を預けて空を眺める。
先輩がその横で痛烈な舌打ちをした。
「お前が何を言っても俺には皮肉としか受け取れん!」
先輩は憮然として腕を組み、目を閉じた。先輩には見えないが、青年はその横で空を見上げながら穏やかな笑みを浮かべる。遥か上空の視界に、白い線が伸びてゆく。青年の眼がその先端の小さな点を追う。
……飛行機雲か。
「あっ……」
青年は、はたと体を起した。
「どうしたんだよ」
まだ先輩の口調には不満度の方が多い。
「バッチ……持って来ちゃいましたよ」
「バッチ?」
「ショーの最後で子供達に配るバッチ……」
「ああ……べつにいいさ。倉庫のダンボールに腐るほどあるんだから」
「そうですか。じゃあ……」
青年は取り出したバッジを再びコートのポケットにしまった。
ほどなくして、青年の足もとにソフトボールが転がって来る。
「ねぇ〜っ! ボール取ってぇ〜!」
フェンスの手前でキャッチボールを始めた子供の声が呼ばわる。
「取ってやれば……」
と、不貞腐れたように先輩が言う。
「はい」
青年は嬉しそうな返事を返して腰を屈めた。
ボールを拾い、フェンスの外れに行き、子供に向かって投げ返そうと腕を振り上げた……が、青年はそのままその腕を下した。
「僕……ボール返してきますね」
はぁ? と、先輩はおかしな顔をしたが、何も言わない。
青年は子供達のもとに駆け寄る。
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