ただいま

楊原

ただいま

旅行の三日間、うさぎを頼む。という話だった。

マンションに二人暮らし。

玄関から入って二、三歩ほどが彼女の部屋だ。

部屋の入り口に柵が設けられ、唯一のペットが朝から夜まで自由に過ごしている。

わたしが頼まれたのは水と餌の交換、トイレ掃除、夜はケージにうさぎを戻す程度の簡単なお世話だった。


朝、最初の作業は、うさぎをケージから出して餌を足すことだった。

ペットがいると独りで居るという感覚が薄くなる。

ホラー好きが災いして、独りの夜にちょっとした思い付きや想像で怖くなることは度々あったが、他に生物がいるとそんな気持ちもなくなってきた。

だからせいぜい、ごはんを作る気力がでなくて困るという程度の孤独感を味わっていた。


シフト制の仕事をしていると、曜日の感覚が鈍くなる。

そもそもテレビも見ないし、様々なことに気を留めない性格だから、よけい悪化していた。

そろそろ帰ってくる日だっけ、いや明日だな、明日の夜だったろうか。

だとすれば、ペットトイレの掃除をしてやったほうがいいだろうか。

気持ちがはやるのは、思った以上にトイレ掃除が苦痛だったからだった。

草食動物は肉食動物にくらべて糞尿のにおいはきつくないが、臭くないわけではない。ツンとした尿の臭いは耐え難かった。


仕事から帰って夕飯を作るため、二十時くらいがご飯を食べる事が多い。

その日は料理を面倒がってダラダラとしていたため、片付けも一時間ほど遅くなってから始めた。

とくに何も考えずに、ぼんやりと食器を洗っていた。

だから玄関から音がしたような、しなかったようなそんな感じだったが、「あれ?今日帰ってくる日だっけ?」と驚いた。

いつもなら、玄関を開けると同時に「ただいまぁ」と挨拶がある。

ただ、旅行で疲れたか嫌なことがあったのだろう。

なんとなく陰気な気分なんだろうなと思って、食器をすすぎ始めた。

二、三歩ほどの沈黙。

部屋の柵の前、廊下に座り込む衣擦れのささやかな気配。


柵の前でうさぎを見ることはよくある事だったから、それは変だと思わなかったが、荷物をドカッと置く音がないのも今更ながら妙だった。

今日、帰ってくる日じゃない。

気づいてひやっとした。

誰か、部屋を間違えて入って来たのだろうか。そんな事もかつてあったけれど鍵をかけてあるので、その時も今もその可能性はない。

そもそも、玄関の開く音はしただろうか。

変だ。と思った。

心臓が緊張する。手から水がしたたり落ちる。なんとなく動くのが怖くて後ろ、廊下の向こうに神経が集中した。


ただいま


はぁ、と息を吐く時のささやかな声が聞こえた。

彼女のようにも聞こえた。

幽霊を想像したときのびくびくとした恐怖感と同じだ。

でも聞こえた。

衣擦れの音、ただいまの挨拶。

こんな時に限って、うさぎの気配もしない。

怖くなって水道の蛇口を最大にした

ジャッと水がシンクを勢いよくたたく音に、緊張がゆるんだ。

その勢いで、廊下を振り向いた。

予想通り誰もいないのが不気味だったが、思い切って彼女の部屋に入った。

うさぎのために夜は電気をつけている。

明かるい部屋に彼女の姿はなかったが、部屋の真ん中でうさぎが体をひねってこっちを見ていた。

ちょっと白目をむいたうさぎの様子は、わたしがバタバタしていたので驚いただけなのか、同じ音を聞いて固まっていたのか分からない。

何にしろ毛玉を見て、ほっとした。


翌日の夜、彼女が旅行から帰った。

元気な声で、ただいまと言う。

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ただいま 楊原 @yanagihara

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