14.天ぷらと意地(後編)



 いざ和樹が誕生したとき、自分の子どもが生まれるということを軽視していたわけではなく、自分の性格では子どもに嫉妬するだろうと予想していたから、あんなに感動するとは思わなかった。

 自分の何が変わったわけでもないのに、自分の中に芯が通ったような、じんわりと熱が灯ったような、ぐらぐらしたものが安定したような。とにかく感動した。


 興奮していたのは面会に来ていたみんな同じで、赤ん坊が注目の的になっているなか誰も感極まっている自分に気づかないだろうと思った。

 なのに巽が誠を見ていた。とても興味深そうに。目があってはっとした。巽は陰のない瞳で微笑んだ。

「おめでとう」

 思い出してみれば、結婚のときには言われなかった言葉を、そのときには言ってもらえたのだ。


 小さな怪物との新しい日々もそれはおもしろかった。天使だの悪魔だの女神だの魔女だの魔物だのと言われたい放題の美登利が、小さな人間相手に苦戦している。やるとなったら凝り性な彼女は、育児の予習にも抜かりなかったが、人生と恋愛と、子育てにもマニュアルはないと身をもって知ったようだった。


 それから程なくして。池崎正人が誠の前で二度目の土下座をしたとき、殺意を覚えなかったといえば嘘になる。ようやく自分が享受できた幸せを、こいつも欲しいとぬかすのか。

 でもそう。正人だって思っているはずだ。こいつがいなければ、と。

 そして誠がいる限り不利な立場になるのは正人の方で、だから這いつくばって誠に許しを得ようとしている。誰かを想う気持ちはどうにもならない、自分だってそうなのだから。


 愛嬌のある丸い瞳が愛くるしい女の子は、大人たちの事情はどうあれ、愛されるためだけに生まれてきたような可愛らしさで、和樹のときと同様にとはいかないまでも、やっぱりそれなりに感情を動かされた。

 新生児を抱いた正人は涙ぐんでいた。彼には彼の苦悶があって、それは誠とは別のもので、だけど子どもを得た瞬間の感動はきっと同じなのだ。


 間を開けてさらに母親によく似た男の子も生まれ、今では和樹が妹や弟の世話を焼いているのが不思議といえば不思議だ。

 ひとりっことはいえ身近に幼馴染がいた誠は、きょうだいがいないことを寂しいと感じたことはなかったが(それはそれで幸運なことだったのだろう)、三人を見ていると、血の絆などという陳腐なものについて思いをはせてしまう。それもこれも、彼女が要だからこそだろう。






 次から次へと出される天ぷらやマカロニサラダや肉団子やシュークリームやスイカまで、苦しいくらいに満腹になって家に帰りついたのは夜の八時前だった。

 パソコンを使っていいかと父親に尋ねてからメールのチェックをすると、思った通り妹の花梨から画像が届いていた。

 盆暮れ正月には父親と一緒に里帰りする花梨からはいつもこうしてメールが届く。今夜はいとこたちと花火をしたらしかった。


「池崎くんのおうちは親戚が多いから」

 後ろからパソコンの画面を覗いていた母が和樹の背中を抱きしめながら囁く。

「和樹はいとこがいなくて寂しい?」

 煙をもうもうとあげながら光のシャワーを発している手持花火を持った妹は、何人もの子どもたちに囲まれている。いとこ以外はどういう関係なのかわからないと、けろりと言っていたことがある。


「どうだろう……」

 賑やかなのを羨ましいと思わないし、それをいったら駈の方がもっと寂しい境遇だ。父方の親族はいないのだから。

 確かに、同世代の親戚はいないけれど。妹と弟がいれば充分だし、毎年旅行に行く翡翠荘の淳史たちもいるし、お母さんの友だちも和樹たちによくしてくれる。

「別に寂しくないよ」

「そう?」

 微笑んだ気配と同時に母親は和樹の頬にキスをした。

「お母さん!」

 もう恥ずかしいから、そういうことはやめてと言ってるのに。

 もうお風呂に入って寝なさいね、と言い置いて母親は自分の部屋へ逃げていった。


 素直に入浴をすませ就寝したが、すぐに目が覚めてしまった。スイカをたくさん食べたせいだ。

 ベッドから抜け出し部屋を出る。まだ明かりの点いているリビングを覗くと、父親がひとりでテレビを見ていた。


 トイレからの帰りがけ、さっき玄関にあったはずの母親の靴がないことに気がついた。

 駈のところへ行ったのだろうと思った。弟はまだ小さいし、いつでも父親とふたりきりだから、母親が駈を気遣うのは当然だ。

 そんなふうに、不公平に思わないくらいには和樹は成長していた。花梨はまだまだ、むくれたりするけれど。その花梨だって、和樹よりはずっと母親にべったりなのだけど。


 自分はお兄ちゃんだから、という気持ちが和樹は強い。長男だし、もう五年生だし、いつまでもお母さんにハグされたりキスされるのは恥ずかしいと感じてしまう。嬉しいは嬉しいのだけど。


 眠気が覚めてしまって、リビングへ行って父親に話しかけようかと少し迷ったが。機嫌が悪いとやぶ蛇だな、と考え直し、和樹は足音を忍ばせて自分の部屋へと戻った。

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