12.ホーリーナイト
「煙突のない家には、サンタさんはどうやって入って来るの?」
花梨の無邪気な問いかけを聞いて、分厚い本のページに目を落としていた駈は顔を上げる。そういえばそうだな、と駈も疑問に思ったからだ。
軽く首を傾げて駈は和樹を見る。大抵のことはこの兄が答えてくれるからだ。だが和樹は、微妙な表情で口を引き結んだままだ。駈は返事を求めてまばたきをする。
「えーと……」
和樹は困ったように人差し指で頬をかく。そんな子どもたちのテーブルにココアの入ったカップを運んで来たお母さんが、えへんと赤いエプロンの胸を反らせた。
「サンタさんはどんな家にも入れるに決まってるでしょう? サンタさんだもの」
サンタは魔法使いじゃない。カウンターで新聞に目を向けながら背中で子どもたちの会話に聞き耳を立てていた村上達彦は、心の中で激しく毒づく。不法侵入だろ、それ。
「だね! サンタさんだもの」
池崎花梨の明るい声音にはサンタを褒めつつも「さすがはお母さん」という賞賛が籠っている。この娘は大丈夫なのだろうか。
信じられないのは、達彦も油断ができないほど頭が良いはずの自分の息子が、花梨と同じように目を輝かせて母親を見上げていることだ。長男の一ノ瀬和樹だけは若干生温い目で妹弟たちを眺めているけれど、彼とて母親に向ける眼差しの色に変わりはない。大丈夫なのか、こいつら。
クリスマスイブの昼下がり。ロータスに集まった三兄弟は冬休みの宿題の今日のノルマを終え、クリスマスケーキが出てくるのを今か今かと待ち構えている。
「こんちは」
「お父さん、おそーい」
やって来た池崎正人は頬を膨らませる花梨の頭に手をのせてデレデレしている。相変わらず親バカだ。
「じゃあ、ケーキを出そうか。テーブルの上、片付けて」
「百パーセント了解です!」
スツールを回してテーブル席の方へ目を向けると、花梨の声を合図に和樹と駈も自分の持ち物を鞄にしまってテーブルの上を台ふきんで拭き始めていた。ちなみに花梨の返事は、某子ども向けテレビ局のとある番組に出てくるキャラクターのキメ台詞らしい。もちろん駈は口にしたことはないが。
「一ノ瀬さんは?」
「来るの夕方になるって。だから先に食べちゃおう」
「お父さん、早く早く」
花梨が自分の隣の椅子を示して正人を呼ぶ。その隣から、駈がじっと達彦に目で訴えてくる。
「…………」
カウンターの中で琢磨がにやにやしているのを感じながら達彦は新聞を畳んで立ち上がる。達彦が駈の隣に腰を下ろすのを待っていた美登利は微笑んでライターを取りだす。
「ろうそく付けるよ」
誕生日ケーキではないのにロウソクを立てるのはなぜなのだろう。いや、キリストの誕生日だというからいいのだろうか。
ロウソクの火を誰が消すのかと少し揉め、元気よく立候補した花梨が身を乗り出して吹き消す。
「ハッピークリスマス!」
「メリークリスマスだろ」
「どっちだっていいよ」
「メリーってどういう意味?」
「えーと……。楽しい、かな」
「ハッピーとどう違うの?」
「えーと……」
「心が籠ってればどっちでも良いんだよ」
「だよね!」
イチゴののったチョコ生クリームのケーキが切り分けられて、達彦の前にも置かれる。フォークを取りあげ、いつもしているように自分のケーキの上のイチゴを駈の皿へと転がす。
それを見ていた花梨が父親の顔を見上げる。正人も無言でイチゴを娘の皿へと転がした。
冬の日は短い。黄昏時はあっという間にやって来て街に明かりが灯り始める。
「はーい。良い子たちにはプレゼントだよ」
坂野今日子と船岡和美が店に来て、後ろから宮前仁が運んできたキラキラした大きな袋を子どもたちに配った。中身は駄菓子がたくさん詰まった大きな長靴だった。口々にお礼を言われて船岡和美は得意げだ。
「お、可愛い子たちが集まってるね。ほらお土産だ、お土産」
商店街の店主たちも集まって来て、お菓子や果物やジュースを配り始める。
がちゃがちゃしていると一ノ瀬誠がようやく現れて、子どもたちは帰宅することになった。この後は常連客が集まっての恒例のクリスマスパーティで、大人たちの時間だ。子どもたちは聞き分けよく帰り支度を始めた。
「今夜は寒いから温かくして寝てね。夜更かししてるとサンタさんが来ないかもよ」
「百パーセント了解です」
見送りに店の前に出た美登利がくどくど言うのに、花梨は元気よく返事をし、駈も素直に頷いている。和樹も生真面目に母親に視線を送り、誠と一緒に帰って行く。
池崎正人も何やら頷いて花梨と一緒に美登利に手を振る。そして、いちばん最後に店を出た達彦は彼女にコートの袖を引っ張られた。美登利は念を押すような眼で見上げてくる。
「…………」
はあっとめんどくさそうに彼が白い息を吐き出すと、瞳を和ませて駈を呼んだ。
「明日の朝が楽しみだね。いつまでも本を読んでないで早く寝るんだよ」
「はい」
「良い子だね」
おでこにキスをされ駈ははにかんだ顔で微かに笑った。まったく、子どもも彼女にはデレデレだ。
彼女の方もここまで人並に母親の顔をするようになるとは達彦は思っていなかった。母性をなめていた。いや、子どもというものが大人たちに与える影響を。あの巽でさえ、子どもたちの前では良い人の顔をしたがるのだから。
商店街のアーケードを出て、近くの自宅まで歩いて帰る途中、また白い息を吐き出しながら達彦は考える。今夜、駈が眠るのを待ってその枕もとにプレゼントを置いておかなければならない。明日の早朝でも良いのだが、駈は妙に朝早く起きることがあるから夜のうちの方が確実だ。
『駈が欲しいもの』
丁寧な字で「サンタさんへ」と宛名を書かれた手紙をこっそり渡されたのは一か月前。
『間違えないでね。サンタさん』
いたずらっぽく笑った美登利も、小学生の頃にはサンタクロースの存在を信じていた。
『お兄ちゃん、今頃サンタさんは大忙しだね』
真顔で巽と会話しているのを聞いたときには何の芝居かと思った。刃物みたいに鋭い少女がサンタクロースを信じてる、なんてアンバランスもいいところだった。
『サンタさんはもう来ないの?』
ずっと後になって子どもの頃のことをからかうと、ムシケラを見るような目つきで鼻で笑われた。
『サンタは大人のところには来てくれないんだよ』
「ねえ、お父さん」
冴えつく夜空を見上げていた達彦は、駈に呼ばれて視線を落とす。自分の背丈の半分ほどもある長靴を両腕で抱えた駈も黒い瞳で頭上を見上げていた。
「サンタクロースは今どの国にいるんだろう? オーストラリアかな、ニュージーランドかな」
子どもにサンタクロースの存在を信じさせるなんて滑稽だと達彦は思う。いずれバレる嘘なのに。
「お父さんはサンタさんに何を頼んだの?」
「知らないのか。サンタは大人のところには来てくれない」
「そうだけど」
駈はじっと達彦を見上げる。誰もが駈は美登利によく似ていると言う。達彦は駈は巽にも似ていると思う。美登利と巽は、顔はあまり似ていないのに。
「お母さんが、ボクは特別だって言ってくれる」
「そうか」
「和樹にも花梨にも言ってるけど」
「そうか」
「だから、お父さんのことも特別だって」
「……」
本当に? 彼女がそんなことを言うだろうか。
「大人でも、お父さんは特別だから、サンタさんが来てくれるかも」
「そうかなあ」
応えたとき、駈の瞳が動いた。逸れた視線が中空に注がれる。
「雪」
「は? 予報ではそんなこと……」
疑ってかかる達彦の視界にも白いものが飛び込んできた。ひとつ、ふたつと数えられそうな程度の粉雪が周囲に舞っている。観測もされなさそうな程度のものだ。それでも気分を高揚させるには十分だった。
「いいことあったね。お父さん」
珍しく駈は彼に手をのばす。小さなその手を握って歩きながら達彦は考える。いくらかは。サンタクロースがやって来る特別な夜の意味を――。
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